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感謝祭はターキーを食べよう (No.256 08/11/20)

 11月の第4木曜日、米国は「感謝祭・サンクスギビングデー」(カナダは何故か10月第二木曜日と少し違う)の休日である。この日(今年は11月27日)は別名、「ターキーデー」とも呼び、ターキー(七面鳥)を食べる習慣がある。その由来はイギリスからマサチューセッツ州にきた移民が1620年の寒波による饑饉で大量に死んだところを先住民のワンパノアグ族に助けられ、感謝して共に食事をしたことから来ているという。この日全米では多数のターキーが食べられるが、ホワイトハウスでは毎年2羽のターキーを殺さずに逃がす Turkey Pardon という行事を必ずテレビが放送している。米国では感謝祭の日に家族、友人が集まってターキーを食べる大食事会を開く人が多いため、翌日の金曜日も休日にして、木金土日の4連休になる州もある。
 そんなわけで、拙宅でも昨年、ターキーを料理して、みんなで食べるパーティを感謝祭の数日後に開いた。といっても日本ではターキーを食べる習慣があまりないから、肉をどこで買い、どう調理していいのかも分からない。それで、Bさん夫妻に教えてもらいながら、ターキーのローストを生まれて初めてチャレンジしてみたのである。このときの模様が珍しいので、小生が記録係となって、全行程を写真に撮っておいたから、ここで紹介しよう。来週、27日の感謝祭に何かやってみたい人はこれを参考にトライしてはどうだろうか。
 ただし、小生、「男は料理に口を出すべきでない」をモットーにしているため、料理を作ったのは妻とBさん夫妻である。小生は「男は女房の出した物に文句も言わず、黙って食えばいい」という自らの信条に従う人間だから写真を撮っただけ。料理法について男がネチネチ言うのは、性格的に好かないので、解説に関してもあまり自信はない。この写真と解説で分かりにくいところがあれば、ネットで沢山紹介されている「ターキー・レシピ」も参考にしていただきたいと思っている。
 ところで、日本のターキー料理で一番問題になるのは、肝心のターキーをどこで買うかだ。小生は米国系スーパー「コストコ」で冷凍になった塊を購入したが、最近はデパ地下でも売られているようだ。値段はそれほど高い物ではなく、小生が購入したものは5.5㎏というやや巨大な物で3300円くらいだった。それと、もう一つの問題なのはオーブンの大きさだ。ターキーの塊は意外に大きい。これがすっぽり入る大型のオーブンが無いときはなるべく小さいターキーを購入するといいだろ。
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 ターキーは冷凍されて売られているから、冷蔵庫の中で2日くらい時間をかけてゆっくり解凍する。そして、調理する前に外側内側を水できれいに洗い、水分を拭き取っておく。2 これはターキーを焼くとき表面が乾きすぎないために包む専用オーブンバッグだが、中々入手しにくい。ターキーを購入した店にあれば予め購入しておく。入手できなければアルミホイルでも可。3 バターは大量に使うので多めに用意しておくこと。4 ターキーの腹に詰め込むスタッフィングの材料。タマネギ、セロリ、レモン、マッシュルーム、パン、小麦粉など。
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5~8 バターでまずタマネギを炒め、みじん切りしたセロリ、パンなどを入れて混ぜ合わせ、スタッフィングの下準備をする。
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9~10 スタッフィング材は塩、胡椒、ハーブなどで好みの味付けをしておく。11 スタッフィング材をお腹の部分に詰める。12 詰めた所を針金など金属で縫うようにして蓋をする。この後、ターキーの表面にはバター、オリーブオイルとハーブ、塩胡椒を刷り込むように塗ると味が良くなると言う。
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13 オーブンバッグに小麦粉を少し入れて、ゆすってバッグの表面に粉が薄く付いていると肉がバッグにくっつかない。14 バッグにターキーを入れ、口はしっかり閉める。15 熱で膨張した空気を逃がすための少しバッグにハサミで切れ目を入れておく。16 肉の内部までしっかり熱が伝わっているか調べるため、温度計を刺しておくといいが、無くても構わない。
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17 いよいよオーブンに入れる。焼く前にオーブンの底に少し水を敷いておく。焼く温度は200度前後で、2~3時間だが、鳥のサイズによって時間は違ってくるから時々焼き具合を確認する。18 ついに完成。だが、しばらくさました方がいいそうだ。19 十分冷めたら、スタッフィングを取り出す。20 包丁で適当なサイズにカッティングする。Bさんはアメリカの電動ナイフを持っていて、これがしごく便利だった。肉を剥がしたターキーの骨はスープの材料としてとっておく。 
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オーブンバッグの底に溜まった肉汁でグレイビーを作り、スタッフィング、サラダなどと一緒に盛りつければ、後は食べるだけ。クランベリーソースは缶詰が売られているから出来合いを使ってもいい。今回使ったターキーは5.5㎏のもので、これを15人で食べたが、それでも食べきれないくらいだった。少人数なら2㎏くらいの小型でも十分である。
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by weltgeist | 2008-11-20 22:39

高尾山に行ってきました (No.254 08/11/19)

 38歳という高齢で全日本テニス選手権に優勝したクルム伊達選手に刺激され、体力作りの一環として、本日高尾山に行ってきた。昨年、ミシュランで最高の星三つの評価を受けて世間を驚かせたあの高尾山である。50年前、蝶少年であった小生は、ほぼ毎日曜日のたびに高尾山に蝶の採集に通っていたが、蝶から岩登り、釣りに転向した後は一度も訪れていない。実に50年ぶりの再探訪である。以前は本当に自然がよく残った山であったが、それがいまも残っているのだろうか。ミシュランが最高の評価をした観光地としての高尾山は、どのように変わったのか期待しての訪問である
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 高尾山の良さは都内から近く、交通の便もいいから手軽に行けることだ。そんな近場だから朝早く行く必要もないと、午前10時に車で自宅を出て、高尾山口には昼頃着いた。今日は平日なので、こんな遅い出発でも人はいないだろうから、のんびり紅葉が見れると思っていたのだ。だが、これが大間違いで、京王線「高尾山口駅」前には「エッ、何だこれは」というほど人が沢山いる。恐らく、昨晩、ニュースで今年度のミシュランの発表をしていたから、その影響があったのかもしれない。
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 すごい人混みの中、登山道を歩き始めると、人が多すぎて中々前に進めないほどである。銀座や表参道以上の人混みは異常で、のんびり紅葉した自然を楽しもうなどという雰囲気はとても味わえそうもない。数年前に来ている妻の話だと、前はこんな混雑は無かったと言うから、ミシュランの評価に皆が影響を受けたのは間違いないのかもしれない。
 これは「場所選びを間違えたかな」と思ったが、もう後の祭り。仕方なく人に押されるように前に行くと、百mほどで急に前方の人が少なくなった。混雑していた大部分はケーブルカーに乗る人で、ケーブル駅を過ぎると歩いて頂上を目指す人は少なくなったのだ。多分、ミシュランにつられて来た都会の観光客はイージーに歩かない道を選ぶのだろう。我々は、もちろんケーブルカーなど無視して一般登山道を歩く。
 ところが、これが結構きつい。昨日まで高尾山くらいは息切れ無しに登りたいと思っていたが、とんでもない。小生のウイークポイントである心臓が少し歩くとすぐに痛み出した。狭心症の痛みで、胸がジャッキで押しつぶされるような独特の痛みがくる。しかし、今日はいつも持ち歩いているニトロのスプレーを忘れてしまったから、発作を押さえるには心臓に負担をかけないよう休息するしかない。このため、5分歩いては5分休むという、亀さん並みのペースで、上に登って行く。運動不足で心臓病持ちの小生には、高尾山程度の「低山」でもかなりきついのだ。
 急な登りでへばっていると、後から後から沢山の人が「お先に」と言いながら追い抜いて行く。50年前には飛んでいる蝶を追ってこの急坂を縦横に走り回ったはずなのに、寄る年波と心臓病には勝てない。急すぎる場所では疲れて足が上がらなくなるほどである。しかし、それでも歩き始めて30分もすると、次第に身体が山に慣れてきたのか胸痛が収まってくる。そして、とにかく山頂まで、7月の大雪山登山と同様、執念で辿り着いた。
 だが、山頂はまたしても人の波。本来山の頂というのは神聖な場所なのに、ここはまるで日曜日のディズニーランドの雰囲気がある。それでもやはり山のてっぺんというのは気分がいい。例え高尾山といえども頂上まで登り切った充実感はあるし、正面に富士山が霞んで見える眺望は素晴らしい。ミシュランが三つ星をつけたのもうなずけると思った。
 50年ぶりに訪ねた高尾山は意外に手強かった。息切れ、心臓痛もそうだが、登り道が想像以上にきつい。その上、下りは道が階段状のコースを撰んだため、膝と足のお皿を傷めてしまった。駐車場に戻った時はヘトヘトで、明日の朝はきっと筋肉痛に悩まされるのではないかと思っている。だが、それでも今日は心地良い疲れである。こんなことならまた高尾山には行きたいと思っているのである。
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ようやく登り切った高尾山山頂から富士山がきれいに見えていて、皆さんカメラで撮っていた。しかし、すでに午後の逆光のため、富士山をうまく撮るのは非常に難しい。ノーマルのまま撮ると明るくなりすぎて見えなくなるし、露出のEV値を二段ほどマイナスすると富士山は見えてくる。しかし、手前の人物も暗くなってしまう。正面に見えるのが富士山だが、この程度しか撮れなかった自分が少し情けない。
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by weltgeist | 2008-11-19 23:23

上野で開かれているフェルメール展について (No.253 08/11/18)

 上野の東京都美術館でオランダの画家、フェルメール展をやっている。今回はオランダとの修好150周年記念ということで、全部で7点ものフェルメールが出品されているという。現存する彼の作品は世界中で36点しかなく、その内の3~4点は真筆か贋作か分からない。実質的には30数点の中での7点だから注目に値する展覧会で、ぜひとも見たいと思っている。
 フェルメールの作品はそんなに数が多くないので彼の全作品を見ることは、案外簡単である。このことから、世界中を旅して、全作品を見ようとする「フェルメーリアン」という人種さえいる。小生もその一人で、これまでに欧州と北米で29点のフェルメールを見ていて、全作品鑑賞にはリーチがかかっている状態である。(もっとも、1990年にボストンで「合奏」が盗まれて、行方不明だから全作品制覇は不可能だが・・)
 今回日本にやってくる7点のうちでは、「マルタとマリアの家のキリスト」は見ていない。この作品は昨日書いたヨハネ福音書11章のマリアとマルタ姉妹のシーンを描いたもので、スコットランド、エディンバラの小さな美術館にあるため、こうした特別展示でないと中々見ることができない。そのためにも12月14日の終了日までにぜひ上野に足を運びたいと思っている。d0151247_23503668.jpg
 ところで、フェルメールと言えば、「真珠の首飾りの少女」と「デルフト眺望」がとくに有名である。「真珠」はオランダ、ハーグのマウリッツハイス美術館で2度、日本でも2000年に大阪に来たのを新幹線に乗って見に行ったりして、都合4度見ている。斜め後ろに振り向いた少女のつぶらな瞳と真珠のイヤリングが見事で、「北方のモナリザ」などと呼ばれて特に人気がある。ごく普通のどうってことないポートレートだが、見れば見るほど何か引き込まれてしまう不思議な魅力がある絵だ。
 だが、分からないのはもう一つ、フェルメールの最高傑作とされる「デルフト眺望」だ。この絵のことは学生時代に読んだとてつもなく長~い小説・マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の中で初めて知った。まだ、絵画をあまり知らなかった頃で、「フェルメール」なる画家のことも、また「デルフト眺望」もこのとき知ったのが初めてである。あのうんざりするほど長い小説のストーリーについて記憶も薄れているが、パリにやってきた「デルフト眺望」を見た作家が、描かれた建物の黄色い壁の色にしきりに感激し、そのまま死んでしまうことはよく覚えている。
 しかし、人が死ぬほど大きな衝撃を与える絵とはどのようなものだろうか。よほど強烈なインパクトがあるものに違いないと思い、最初にオランダを旅した時、ハーグのマウリッツハイスで「デルフト眺望」を見ることに大いに期待していた。マウリッツハイスは想像していたよりはるかに小さな、こじんまりした美術館で、「眺望」はすぐに見つかった。小生は、最初に「真珠」を感激しながら見たあと、「眺望」に目を転じると、すぐに描かれた黄色い壁を探した。ところが、それはプルーストが言うほど大きくない、ちょっとした普通の壁にすぎなかったのだ。何故小説の中で作家・ベルゴットがあの小さな壁に感激したのかよく分からない。それでも注意して見ると、壁はフェルメール独特の絵の具を粒状にして描いていて、黄色い壁がザラザラした質感で見える。しかし、小生に見る目がないのか、それ以上のものには見えず、ましてや死んでしまうほどのショックなど全く感じられなかった。残念ながら小生には「眺望」は普通の風景画にしか見えなかったのだ。
 自分は少し他の人と違ってひねくれているのだろうか。はたまた絵画を鑑賞する能力に欠けているのだろうか。前にも書いたが、アムステルダム国立美術館にあるレンブラントの「夜警」も世間の評判のような感銘を受けなかった。恐らく、小生の審美眼が駄目なのだろうと思っている。自分はフェルメールでも「真珠」やウイーンにある「絵画芸術」、アムステルダムの「牛乳を注ぐ女」は素晴らしいと思う。しかし「眺望」はよく分からない。一人の画家の評価が自分自身の中で全然定まっていないのである。
 それなのに、お前はなぜ世界中のフェルメールを追いかけるのか、と聞かれれると答えに窮する。とりあえずは「ミーハー的好奇心です」と答えるようにしているが、皆が「フェルメールはすごい」と言っていることが、自分には半分しか分からないのだ。すごくいい絵とそうでない絵が混じっていて、自分の中で混乱している。もしかしたら小生は本当に駄目オヤジで、絵を見る資格はないのかもしれない。しかし、それだからこそ、今回も上野に行ってぜひ自分の目で現物を見て確認したいのである。何度も繰り返し見れば、他の人が素晴らしいと言っているフェルメールの良さが分かるかもしれないと思って、フェルメーリアンを続けている変なオジサン、それが今の小生の姿である。

実際に見て来たフェルメール展の感想はこちらをどうぞ。
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フェルメールの最高傑作と言われる「デルフト眺望」。マルセル・プルーストが絶賛した黄色い壁は、右側の建物にあるが、能力のない小生にはその壁の色がどうして素晴らしいのかよく分からなかった。皆さんはこの絵を見てどう思いますか。
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by weltgeist | 2008-11-18 23:45

心臓移植と脳死の問題点 (No.252 08/11/17)

 一昨日、自分は心臓移植は反対だ、と書いたら友人から詳しい理由を聞きたいと言われた。死にかかった人を助けるのになぜ君は反対するのか、そんなに冷たい人間だったのかと言うのだ。その理由を彼には説明したが、このブログを読んでいる方々に誤解されないためにももう一度、人の命と脳死、臓器移植のことについて自分の考えを書いてみたい。しかし、今回は重いテーマで内容的にも好き嫌いがあるだろうから、嫌な人はスルーして欲しい。
 まず自分は脳死が人の死であることに疑問を感じている。脳死状態とは死に限りなく近づいてはいるが、心臓が動いている限り彼はまだ「死に向かっている存在」であって、決して死んではいない。だが、この言葉を小生が以前、別な所(No.137 08/06/29) で使ったのを覚えているだろうか。ドイツの哲学者、ハイデガーが主著、「存在と時間」の中で、人間存在は「死に向かう存在」と書いているのと同じなのである。人間(現存在)は未来に向かって生きていくが、その究極的可能性は死である。人間は死をゴールに、まだ「死んでいない」という未完の状態にある「死に向かう存在・Sein zum Tode」 (Sein und Zeit ,S.306) と言える。これが人間の人間たるゆえんであって、人間が未完の部分を完遂(死ぬこと)したとたんに人は物と同じ「存在者」に変わってしまう。この意味からすれば、まさに脳死はまだ生きた人間そのものの段階なのだ。
 人が死ぬとは完全にその生行動が停止し、「人」で無くなることである。一部でも生きていれば、それは死んだことにはならない。脳死だからといっても心臓はまだ動き続けているのである。それを限りなく死に近いから、今のうちに生きている心臓を取り出そうとするのは、人間の死を全人格において考えない反倫理的行為と言えよう。
 人の死は脳死であるとともに、心臓の死でもなければならない。一方の心臓は生きていて、一方の脳は死んでいる状態を死と判定するのはおかしい。この点を十分論議しないまま移植許可に突っ走ってしまったところに問題が生じてくるのである。
 京都大学名誉教授の中山研一氏は脳死について次のように書いている。
 「 私見によれば、人間の生においても死においても多面性と全体性を認めなければならない。脳の死は人の死ではなく、死の確実で不可逆な始まり(不帰の点)として現れる。それは、死者ではなく、死に行く人、生から死への不可逆な移行過程にある人である。
 脳死を人の全体死と同一視することには疑義がつきまとっている。脳死者は外見上死の通常の徴候を欠いているだけでなく、臓器摘出の際にも、血圧が急激に上昇することがあり、突然の運動を考慮することは麻酔医にとって必要である。脳死状態の妊婦が健康な子を生むことも知られている。人間を身体と精神の統一体と見る場合には、脳死を全体死と同一視することはできない。
 脳死の後にも意識が存在することを誰が否定しうるのか。また、人間の生命が意識なくしては存在しないとすれば、無脳児や不可逆的に無意識の患者は死者ということになる。」と書いている。
http://www.lifestudies.org/jp/nakayama01.htm。
 人間の生命を全的なものと考えれば、生きた人間から心臓を取り出すことは、その人の生命を奪うことになる。どうしても取り出したいないら、心臓まで完全に停止してから取り出すべきだ。移植をしたい人たちは「まだ生きて(動いて)いる心臓」が欲しいのである。だが、例え法律的には殺人に相当しないとしても、倫理的に生きた人間を殺してパーツとしての心臓を取り出すと思えるから小生は心臓移植に賛成できないのである。
 移植以外に救いの手がない人にとって、反対意見はとても残酷なことに聞こえるだろう。だが、それでも他人の死を前提にして自分を延命(人間は永遠には生きられないので移植は寿命を少し延ばすにすぎない)することは倫理的に良くないと思う。また、医学者は移植以外の手段で人間を生かす技術を見つける努力に集中すべきだ。日本の心臓専門医が「移植しかない」と診断された子供が米国に渡ったら、移植は必要ない、通常手術でOKと言われた例もあるのだ。安易に移植に頼って第二第三の札幌医大和田教授を生み出して欲しくないのである。
 心臓が悪い小生がもしそうした立場に立たされたら、移植以外の技術開発を待つだろう。開発に間に合わなければ、それは自分に与えられた運命と受け止めるつもりだ。人生の価値は生きた時間の長さにあると思っていないからである。
 ヨハネ福音書11章4節で、病気になって死にそうなラザロを助けて欲しいと頼むマリアとマルタ姉妹にイエスは「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものである。神の子がそれによって、栄光を受けるため」のものだと答えている。人は重い心臓病だけでなく、苦しいこと、悲しいことに数限りなく直面し悩んでいる。だが、それらは苦難のように見えて、実は神の栄光なのだと言う。神が人間に与えた試練だからだ。神は人に乗り越えられない試練は与えないとキリスト者は言う。試練を乗り越えた先には栄光が待っていると言うのだ。人はそれぞれの個人が持つそれぞれの苦しみを重く受け止め、乗り越えていかなければならないのである。
 医学の進歩はいつか移植無しに重い心臓病をも克服してくれるだろう。それまで我々は重い試練に耐えなければならないのだ。
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アンゲラン・カルトン作/アビ二オンのピエタ/1455年/ルーブル美術館。
Enguerrand Quarton/La Pietà de Villeneuve-lès-Avignon /Musée du Louvre.
十字架に架けられて死んだイエスに悲しむ聖母マリアとマグダラのマリア(右)、福音書書記ヨハネ(左)。人間としてのイエスの肉体は死ぬが、この3日後に蘇ることも知らず3人は悲しみに暮れる。写真では分かりにくいが近づいてマグダラのマリアの顔を見ると、透き通るような涙までリアルに描かれていて、カルトンの見事な筆致に圧倒される。人の死を深く追求した最高傑作として、小生の心に残る一枚である。この絵はルーブルのリシュリュー翼からシュリー翼へ行く回廊の最初の所にある。一般的な展示の仕方と違って、丁度角になった廊下の壁に飾られているため、意外に見逃されやすい。

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by weltgeist | 2008-11-17 23:04

良いこと続きの3日間 (No.251 08/11/16)

 テレビは見ないとおととい宣言したばかりなのに、昨日はクルム伊達公子選手が全日本テニス選手権で見事優勝した中継番組を思わず見てしまった。現役を引退して12年、38歳という年齢のハンディを抱えて現役復帰したクルム伊達選手がどう戦うか、興味津々だったのだ。ま、歳(トシ)だから準決勝くらい行けたら上出来と思っていたら、何と、女子シングルスで16年ぶりの優勝を果たし、ダブルスでも優勝した。これは素晴らしいの一言に尽きる。
 そもそも人間の体力、運動能力は20代が全盛で、年齢を重ねるにつれて次第に落ちていく。どんなに能力のある人でも歳には勝てないから、スポーツ選手の場合は引退ということになる。だが、クルム伊達選手の快挙はこの常識を破った。彼女のなしたことは「歳だから」と弱気になる我ら老年族には大きな励みを与えたのだ。
 報道によれば、伊達選手は引退した後も、トレーニングを怠らず、人一倍努力を重ねてきたからここに至ったと言っていた。以前、エベレストを登頂した三浦雄一郎さんといい、努力し、鍛錬を続ければ道が開けるという事実を示してくれたのである。彼ら彼女らの素晴らしい成果を絶賛したい。
 ともすれば怠け癖がつき、怠惰な生活に落ち込みそうな小生、クルム伊達選手の活躍に刺激され、久しぶりに自分も身体を鍛えてみようかなと思い始めた。もっとも、小生の目標はクルム伊達選手や三浦雄一郎さんのような大それたことではない。ささやかに高尾山程度の山を息切れせずに登りきる体力があれば十分である。高望みはしない。出来る範囲で努力しようかなと思っているのだが、それさえ実行できるか本当のところは自信はないのである。
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 昨日はテニスの中継を見た後、英語を教えてもらっているBさんの家でアメリカンステーキのディナーをごちそうになった。実は、その前の金曜日はシンガポールから来ているRさんの家でおいしい中華をごちそうになり、本日、日曜日は東久留米でサンクスギビングデーの前祝いとしてターキー(七面鳥)をごちそうになったから、金土日の3日間、三連ちゃんでごちそうオンパレードである。おいしい物づくしで、小生の下腹は少し膨らみ、幸せな3日間を過ごしたことになる。
 金曜日、Rさんの中華は蒸した鶏肉を独特の味付けした物にシンガポール風チャーハンと春巻き、野菜の中華風炒め物、スープなどで味はベーリー・グッド。そして昨晩、土曜日のBさんはこれまたアメリカンステーキがおいしかった。庭に設置してあるBBQ専用の炭火コンロでサッと焼いたもので、これがすごく柔らかくて最高だった。我が家でも時々ステーキはやるが、フライパンで焼いたことしかない。炭火でキッチリ時間を計って焼いたステーキが、こんなに柔らかくおいしくなるとは知らなかった。ぜひとも我が家でもやりたいと思ったが、冷静になって考えたら、我が家の猫額庭では狭すぎてBBQなどできるわけがない。やっぱ、現実は厳しいのだ。
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BさんのBBQ専用炭火コンロ。左の炭火の上に網を敷き、肉を置いたら蓋をして片面3分間ずつ時間を計って焼く。適度に焦げ目が入っているが、中は柔らかく極めてジューシー。アメリカの雰囲気があるステーキの味は最高だった。
 

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by weltgeist | 2008-11-16 20:14

心臓移植手術は許されるのだろうか (No.250 08/11/15)

 世の中には悲惨な病気で死んでいく人が沢山いる。それを助けるのが医療である。小生もこれで2度命を助けられている。心臓の手術を2回やっているのだ。一度目は昭和40年に心臓を18分間にわたって停止させ、体温を20℃くらいまで下げて、心臓の中にある大動脈弁を切開した。心臓が止まったのなら死んでもおかしくないのに、未だ生きながらえているのは医学のおかげと感謝している。その後、2003年にもう一度今度は大動脈弁と同時に大動脈の一部をも人工血管に変える手術をした。
 人生で2回も心臓を切り開かれながら、発達した現代医学のおかげで小生は未だ生命を保つことが出来ている。一回目の心臓手術は、当時の医学水準から見れば、たいへん危険で難易度の高いものだったが、2003年の心臓手術は、昔の苦しくて、痛くて、危険で、長い術後の闘病生活を余儀なくされたものとは全然違って、安全、簡単、痛くもなく、術後の回復も早いことに驚いた。医学はこの40年ですごい進歩を遂げたと実感せざるを得なかったのである。
 しかし、いくら医学が進歩しても、人間の命を永遠に生きさせることは出来ない。人はいつか死ぬ。ハイデガーではないが、人は死に向かう存在であり、その死はいつか確実にやって来て、誰も代わることはできないのだ。死は最も根源的な自分の実存に関わる極めて厳粛な瞬間なのである。
 ところが、医学の発達によって治療技術が格段とレベルアップされ、「死んだ人間」をも長い間「生かし」続けることさえ出来るようになった。脳死は人の死かどうか分からないと言う曖昧な判定によって、医学は新しい移植の道を手にしたのである。死は確実にやってくるが、脳死した人間では死の時間はある程度人間がコントロール出来るようになってきた。このタイムラグを使って脳死した「人」から角膜や腎臓などと共に心臓が取り出され、移植以外に助かる道が閉ざされた人に希望の光として与えられたのである。
 医学はこうして生命の存続にある程度の干渉ができるようになった。だが、病気を治すことと心臓を移植してまで患者の命を生きながらえさせることは、本質的に問題が違うと小生は思う。命をいじることは本来神様の仕事であり、人間がそこまで手を下していいものなのだろうか、という疑問があるのだ。
 臓器の移植は、脳死した人からの提供があって初めて可能になる。だが、他人の死を前提にした医療というものが、倫理的に考えて許されるのだろうか。
 実際に移植以外に助かる道がない人にはお気の毒だが、移植しなければ死が待つとしても、それは神が与えた運命と自分は考える。自分が心臓手術を2回も受けただけに、余計そう思う。他人の死を前提にしてしか移植出来ないとなれば、それは止めるべきと思うのだ。
 昨日(14日)、たまたま朝日新聞の夕刊を読んでいたら、英国に住む13歳の少女・ハンナ・ジョーンズさんが、自分の意志で心臓の移植手術を拒否して、自宅に戻ったと書いてあった。病院は余命半年しか生きられないハンナさんを助けようと裁判所に提訴したが、ハンナさんは「小さいときからずっと病院で、ひどい思い出ばかりだった。家族と離れたくない」と行って、病院の提訴を諦めさせたと言う。母親のカースティさんは「親にとって軽い決断ではなかった。でも彼女の意志をかなえてあげたい。娘は親が思うより成長していた。心から誇りに思う」と話していたと報じている。
 心臓移植は、生命の尊厳、人の死とは何かという問題を深く追求することなく、見込み発車した感がある。人の臓器でも腎臓や肝臓などと違って心臓は生命の根幹である。これが車のパーツを取り替えるように扱われることに疑問を感じざるを得ない。
 人が生きるとはどういうことであり、死とはどういうことなのか、いや、そもそも生命の尊厳とはどういうことなのか、もっともっと深く考えてから結論を出すべきだ。だから、小生は今のままなら心臓移植は明確に反対であると言いたい。仮に、自分の心臓がまた悪化して、もう移植以外に助かる道がないと医者から告知されたら、きっと自分はハンナさんと同じ道を撰ぶはずである。人の命は部品のように扱うべきではないのだ。
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パリ、リヨン駅からフランス新幹線TGVで2時間、中世時代の旧ブルゴーニュ公国の首都ディジョンにあるフィリップ豪勇公の墓碑彫刻。クラウス・スリューテルが1414年に完成したこの彫刻の下に豪勇公が二人の天使に守られて永遠の眠りについている。彼の肉体は死んだが、未だその威光は生き続けているのである。
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by weltgeist | 2008-11-15 23:17

経団連元会長・奥田氏の発言にマスコミは屈するな (No.249 08/11/14)

 テレビ局に勤める友人からCMの出広量が減って局の経営が苦しくなっていると聞いていたが、13日発表になった平成20年9月中間連結決算によれば、民放各社は軒並み売り上げ、純利益を減らしたことが明らかになった。中でも日本テレビとテレビ東京は赤字である。CMが減った原因は不景気にあるかもしれない。しかし、テレビを見ている人が減ったのも大きな要因であろう。小生、大学生の頃までテレビが大好きで、NHKの「ひょっこりひょうたん島」に合わせて夕方までに大学から戻ってテレビにしがみつく典型的テレビ人間であった。その小生が今はニュース以外はほとんど見ない。理由ははっきりしている。面白くないからだ。
 どのチャンネルを回しても内容が同じで、すぐに飽きられてしまう底の浅い取材内容にはうんざりする。その上、制作費はどんどん減らされるから、さらに内容が薄っぺらなものにならざるを得ない。このままではテレビ局は出版不況に続く、第二の不況予備軍となるだろう。数百万部の発行を誇った少年漫画誌の衰退で不況業種に転落した大手出版社と同じ運命を辿りつつあるのだ。
 そんななか、12日、元経団連会長であったトヨタ自動車の奥田相談役が座長をつとめる「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」の席で、マスコミの年金についての報道の仕方が「厚労省たたきで異常だ。マスコミに報復してスポンサーを降りてやろうかと思う」と言ったらしい。トヨタは日本どころか世界を代表する企業であり、マスコミ各社に膨大な広告を出しているから大事なお客様である。そんな大スポンサーの脅しともとれる発言に、マスコミ各社はどのような態度をとるのだろうか。
 前からマスコミは大広告主であるトヨタの悪い事に関しては「気を使って」極力報道しない傾向があった。以前アメリカで問題になったトヨタのセクハラ問題など、アメリカのマスコミは盛んに取り上げていたのに、日本ではさっぱり報道されなかった。臭い物には蓋をさせ、触らぬ神にたたり無しの精神は今も健在である。同じく現経団連会長である御手洗富士夫氏(キャノン会長)が大分県に作ったキヤノン工場建設で、鹿島建設との間で不明朗な裏金のやり取りがあったというのに、某新聞以外はこの件に関しての報道を控えてしまった。その新聞もその後キャノンが広告を入れたら、追求の報道は一切途絶えてしまっている。これは脅しに屈したとしか思えない。奥田相談役の「脅し発言」で、年金問題の追及がうやむやにならないよう我々も注意していく必要があるだろう。(キャノン裏金問題の詳細は以下のURLを参照してください)
http://blog.goo.ne.jp/kintaro-chance/e/29e91650dabf261686afb13beab2fc63

 要するにマスコミもこんなことで節を曲げ、真実を掘り起こして報道する姿勢を放棄しているから、次第に飽きられて、それが巡り巡って減収減益に陥るのだ。
 そんなことを思っていたら、今朝の朝日新聞が天声人語で奥田発言を批判する記事を載せていた。しかし、このくらいは当然である。新聞、テレビ、出版は天下の公器なのだ。CMを切られた兵糧詰めはつらいかもしれないが、真実を追求していく姿勢があるからこそ我々も支持、応援するのだということを忘れないでもらいたいものだ。
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クチナシは本来夏の花である。純白な花は清純、清廉、潔白を表しているようで、見ていて清々しい。しかし、マスコミが「口無し」になるのはいただけない。
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by weltgeist | 2008-11-14 17:42

定年予備軍に贈る言葉 (No.248 08/11/13)

 ようやくアメリカからの時差ボケが治り、夜はぐっすり眠れるようになった。最近の就寝時間は夜中の零時半から1時頃、起きるのは午前8時から、8時半で、夜更かし=朝寝坊型の生活になっている。仕事をしていたときは午前7時に目覚まし時計で起こされ、遅くても7時10分には布団から出て顔を洗い、7時40分には家を出ないと遅刻した。仕事は嫌いではなかったが、このように眠たい時間帯に無理矢理起きて出かけなければならないことが一番嫌だった。あの頃は目覚まし時計が鳴ってから、あと1時間布団の中に入れたらどんなに幸せだろうかと思ったものである。
 それが、リタイアしたら朝何時まで寝ていようと自由である。目覚ましで強制的に起こされるのではなく、自然に目覚めるから、寝起きはすこぶるよろしい。これは本当に有り難い。もちろん、そうした楽をしているので、仕事から得られる収入が途絶えるのは仕方がない。仕事もせず、お金も欲しいという話は虫が良すぎる。世の中では通用しないだろう。贅沢と朝寝坊は両立しないのだ。
 ところで、我が家の財政状態は優雅にアメリカまで行ったから安泰と思うかもしれないが、実は次第に逼迫してきていて、予断を許さない段階まできつつある。そんな厳しい中、今回のアメリカ旅行でだいぶお金を使ってしまった。これが後々になって、ボディブローのように効いてきて、三度の食事に困るところまで行くかもしれない。しかし、旅行は行けるうちに行っておかないと後で後悔するかもしれない。歳をとって動けなくなった時、何処かへ旅したいと思っても行けるかどうか分からないのだ。だから、今後もこうした旅行は積極的に行くつもりをしている。それで困窮状態になったらその時はその時、「明日のことは思い煩うな、明日は明日自らが煩うだろう」の心境である。
 先日、新渡戸稲造の武士道の所でも書いたように、人間、お金が無くなれば、無いなりの生活を選ぶことが出来る。むしろ精神の充実に重きを置いた生活こそ、人が豊になれるものではないかと、考えるようになってきているのだ。生活に追われて汲々とするより、自分の心に核となるものがあって、それを徹底的に追求する方が精神的にはずっと豊かになれる。そう思っているから、今は半分居直ったような気持ちでいられるのである。
 これから定年を迎える人たちは将来に対して漠然とした不安を感じているだろう。だが、一足お先にリタイアした先輩として伝えたいのは、「何とかなる。心配するな」である。人間、生きようと思ったらどんな状況でも生きられると思った。リタイアしてもローンが残っている、子供の教育費がかかる、家賃が払えない、食事をするお金もない、等々、取り上げたらきりがないほど不安だらけの未来かもしれないが、それでもきっと何とかなる。そう思って安心して欲しい。
 人の幸せはお金で左右されると考えるから不安になるのだ。お金がいくらあっても幸福になれるとは限らない。むしろ、生活は貧しくとも心の充実を堅持した武士の精神を見習えば、将来の道はおのずから明るく見えてくるはずである。
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この絵が語っている意味は、人はサムライのように緊張した精神を持ち合わせていないと、たちまち怠惰の中で堕落していくことを示した警告であろうと言われている。
ヒエロニムス・ボッシュ/愚者の船(部分)/1490-1500年頃/パリ、ルーブル美術館所蔵。
ボッシュのこの絵はルーブル美術館リシュリュー翼3階のネーデルランド(オランダ)絵画コーナーに小さく展示されています。歴史的名画なのに、あまりに素っ気ない展示だから、注意していないと見逃す恐れがあります。

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by weltgeist | 2008-11-13 23:51

See through rose glasses 、バラ眼鏡とスタンダールの恋愛論 (No.247 08/11/12)

 本日は久しぶりにBさんの英会話個人授業。朝10時からお昼まで約2時間強、英会話の勉強をするが、最近の小生、習っている割には少しも英語が上手にならない。とにかく頭がパーチクリンになっているから、単語も構文も覚えられない。覚えても覚えてもすぐに忘れ、上達出来ないのだ。リタイアして仕事から離れているから、他に頭を使う必要もない。英語に集中できる時間は十分あるはずなのに、これがどうもいけません。小生の方が英会話の勉強をやった時間は比較にならないほど長いのに、わが奥さんが猛追撃してきていささか焦り気味である。
 今日教わったのは、英語で色をどう言い表すかだ。写真ではRGB、すなわち、赤、青、緑色、印刷ならCMYK、シアン、マゼンタ、イエロー、黒の4色を使って色のかなりの部分を表現することが出来るが、言葉となると、日本語と英語は微妙にニュアンスが違ってくるから難しい。典型的な例は信号の「青」だ。英語で信号を青と言ったら「あれは青ではない。グリーンだ」と訂正されるだろう。色を言葉で表すのは難しいのだ。
 ところで、今日は色に関することで標題の 「 See through rose glasses 」と言う言葉を教わった。日本語に直せば、「色眼鏡で物を見る」という意味である。だが、色眼鏡でもここで言う rose バラ色とは、恋愛における若者たちのバラ色眼鏡のことで、悪い意味ではない。恋する相手の良い所だけを見る態度のことである。
 若い頃、スタンダールの「恋愛論」を読んで、「結晶作用」という言葉を知った。スタンダールは、若者が恋をすると、強度のバラ眼鏡によって、相手の良いところばかりが見えてくる「結晶作用」を起こすと書いている。強烈なバラ眼鏡をかけられていることも忘れて、恋の相手を理想化した美しい宝石のような結晶にしてしまうのだ。スタンダールはこの言葉をオーストリアの岩塩鉱山の坑道に入れた木の枝に、しばらくすると塩の結晶が付着してきて、非常にきれいに見えることからヒントを得たと書いている。恋愛感情に燃え上がった人は、結晶作用で恋の相手が、現実とは全然違った理想的な人物として輝いて見えてくるのだ。
 相手の良いところだけが誇張されて見えるのは悪いことではない。人間なら誰もが持つ欠点は無視して、良い所だけ認めてくれるなら、この世は平和でバラ色だろう。問題はそうしたバラ眼鏡が長続きしないことだ。長く付き合っているとどうしても相手の欠点が見えてくる。スタンダールは結晶作用が進行すると第二の結晶作用が発生し、それに悩まされると言う。それは疑惑の混入である。相手は本当に自分を愛しているのだろうかという疑惑に絶えず悩まされながらも、危険な崖の道を空想に浸りながら歩くのが恋愛だと言う。
 何ともロマンチックな話だが、現実のスタンダールはおよそ女性にもてるような風体ではなかったらしい。生涯独身で、「赤と黒」や「パルムの僧院」などの名作を出しながら、ほとんど無名な売れない作家として死んでいったという。かの「恋愛論」も初版は22冊しか売れず、世間から完全に黙殺された作家である。彼自身が結晶作用で夢を追い続けながら、不遇のうちに亡くなっていったのである。
 それはさておき、このバラ眼鏡、実は我々にはぜひ必要なものではないだろうか。この世の中、腹が立つことばかりである。しかし、そうしたことに目をつぶり、相手の良いところを認めてあげる。そうすれば、恋愛に陥った男女と同じように、平和で幸せな世界が実現すると思うのだが。
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奥さんが昨日作ったフラワーリース。ここにある花の微妙な色を言葉で全部言い表すことは不可能であろう。小さな花一つを見ても、その色は自然な深みのあるグラデーションを持っている。そんな物を言葉という枠の中にはめ込むこと自体が無理な気がしてくる。この世の中にかくも美しき物が咲いているという現実。知れば知るほど自然の力は偉大だと思う。
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by weltgeist | 2008-11-12 23:15

一貫性のないブログのテーマ (No.246 08/11/11)

 このブログはどんな人に読まれているのだろうかと、時々考えてしまう。というのも今まで書いてきたものを顧みると、テーマが釣りから、カメラ、絵画、音楽、自然環境問題、世界経済、そして最近は海外旅行から蝶の話まで、まるでバラバラで一貫性がないからだ。読む方もあちらこちら振り回されて、いい加減疲れて読むのを止めてしまうのではないかと、書き手である自分は心配している。こんなあぶない書き方で本当にいいのだろうか。少し自信はないのである。
 文章というものは、自分の考えていることを正直に、かつ分かりやすく書くのが筋であって、読者の方へ変に同調すれば、人気取りの内容になりやすくなる。本当に自分の書きたいことを正直に書くと、小生の場合、このような一貫性のない文章となってしまうのだ。
 かといって「俺が書きたいことを書くのだ、気に入らなければ読まなくて結構」という態度も取りたくはない。そうなると書き手の気に入った人しか集まらないだろう。お山の大将でありながら、実体は裸の王様にしかなれないのだと思う。
 「俺の意見は絶対正しい。どこが悪い」と居直ることもできる。こういう例は、失礼だが政治家や評論家に多い。今日の田母神航空幕僚長の参考人質問などこの典型であろう。自分の意見が全てで他は全部間違っていると思いこむ。こうした勘違いは、端で見ていると滑稽でもある。
 だから、他の人が「あなたは間違っている」と指摘してきた場合、それを受け止める柔軟性だけは持ち続けたいと思っている。自分の考えが絶対ではないし、間違いは十分ありうると自覚しているからだ。といって、批判されたら素直に、「はい、そうですか。直しましょう」とも中々言えない。どうしても自分の意見に固執するところに、まだ小生の至らなさ、未熟さがあると言えよう。
 それと、読んでいる方から決まって指摘されるのが文章量の多さだ。画面を開いたとたんに文字が「ワーッ」と迫って来る感じでとても全部読む気にならないと言われる。自分でもそうだろうな、と思う。しかし、分かっていながらこれが止められない。しばらく文章を短く、簡潔にする努力をしたが、どうしても長くなってしまうのだ。これは自分の能力の問題もあるだろう。最近はこうした長文スタイルこそ小生本来のものだ、と居直ってしまっているところがある。読みずらいと思う方には申し訳ないが、当分はこの長文スタイルを続けて、とにかく毎日更新だけは頑張り通そうと思っているのである。
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by weltgeist | 2008-11-11 23:29