2013年 04月 28日 ( 1 )

コペルニクス的転回の転回 (No.1684 13/04/28)

 リタイアした頃から自分の考え方が少しずつ変わって、いまでは生活態度が180度といっていいほど転換してしまった。自分の考え方が変わったのはいくつかの理由がある。リタイアを契機に自分というものを見つめ直し、いままでの自分は「俺が、俺が」という意識が強すぎたことを反省したのがきっかけである。
 次第に「俺」を考えることがいかに自分をスポイルしているかに気づいたのだ。なぜなら俺を立てれば他がへこむからだ。「どけどけ、俺様が通るぞ」といって、これまで周りの人を押しのけて前に進もうとしていた。それでみんなにどれだけ迷惑をかけていたことだろうか。「俺が」という気持が自分の世界を悪くしていると思い、いっそ「俺を」捨てたらどうなのかを漠然と考えるようになっていったのである。
 だが、人間は欲望の塊だから「俺を満足させる」という気持ちを捨てることはたいへん難しい。自分はそれをなくしたいと思ったが、そうなると俺という人間はいなくなるのではないかという心配が出て来てなかなか前に進めない。
 そこで解決の糸口を見つける方法を逆にしてみた。俺を捨てるのではなく、他の人を立てる。俺はそのままに他人を第一にしてあげるよう心掛けたのである。そうしたら、いつのまにか「俺が」ということにあまりこだわらなくなっていたのである。
d0151247_2331565.jpg
 カントは自分の認識論を見つけたとき、「コペルニクス的転回=kopernikanische Wendung 」と言った。それまで認識の源泉は自分の外の対象にあって、主観はただその写しをもらう不完全なものとされていた。コペルニクスが地動説を唱えたように、認識の源泉は主観、すなわち自分の方にあると逆転させ、天動説を否定し地動説を唱えたコペルニクスに自らを重ねたのである。
 これを西田幾多郎はコペルニクス的転回をさらに転回させる「コペルニクス転回の転回」で二重に主観を否定した。真理はカントが言うような主観のなかにあるのではなく、禅宗の修行僧のように徹底的に主観を追い詰めていった先で起こる主観の放棄で初めて見えてくると考えたのである。主観の否定、つまり自分を捨てることで、主観も客観もない絶対矛盾的自己同一の世界が見えてくると言う異次元の世界を主張したのである。
 これは道元禅師が言う「身心脱落本来面目現前」と同じ境地である。禅宗の坊さんが言うように、座禅を組むことで自分の煩悩を捨て去って無心の境地になることである。そのためには血の出るほど厳しい座禅の修行を通して、無心になる自分を目指さなければならない。そうしていつか悟りの境地に達するのだろう。
 だが、自分を虚しくすること、身心脱落とはそんなにむずかしいものではない。要するに自分が一番ではなく、他人が一番と自らを納得させることではないか、最近そう思い始めている。何も禅寺に通って一心不乱に無心になれと励むことなど必要ない。何かをなすとき、自分のことより相手の立場を尊重する態度に徹底すれば禅僧がいう無心の境地と同じところに達せられるのではないか。最近はそう思い、実践しようと心掛けている。
[PR]
by Weltgeist | 2013-04-28 23:43