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2012年 05月 20日 ( 1 )

ファウストに見る神と悪魔・メフィストフェレスとの対話 (No.1396 12/05/20)

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 一昨日からゲーテのファウストについて続けて書くつもりでいたら、昨日はディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの訃報が伝えられて、続きを書くことができなくなってしまった。それで、今日は一昨日の続きに戻って、ファウストを誘惑する悪魔・メフィストフェレスのことを書いてみたい。
 メフィストフェレスは悪魔であるが、悪魔という言葉から想像できる恐ろしい化け物のような存在ではない。快楽主義者で大いなる皮肉屋、人生を否定的に見ているが、それでいて人間的でお人好しな存在である。とても愛らしい悪魔としてゲーテは書いているのだ。そんなメフィストのことをファウストの中に登場する神はどのように見ているのだろうか。
 ファウスト第一部冒頭、「天上の序曲」でメフィストと出会った神は彼とある賭をする。神の忠実なるしもべ、ファウストをメフィストがうまく誘惑できたら彼の魂をメフィストに渡してもいいという賭を神が悪魔の囁きによってやってしまうのである。なにやら旧約聖書、ヨブ記で主と悪魔が賭けをしたことと似ている出だしである。しかし、ヨブ記とファウストではまったく違った賭けをすることになる。
 ヨブは裕福で満ち足りた生活をし、神の恵みに感謝する信仰心の厚い人間であった。それを悪魔が滅茶苦茶にすれば、意志の弱い人間などたちまち神を恨むようになるといって、善良なヨブに「これでもか」というくらい悲惨な状況を悪魔が作り出す。自分の知らないところで神と悪魔が賭をするという迷惑なことをやられて、ヨブはとんだ迷惑をこうむるのである。ところが、ファウストでは迷惑どころか、ウエルカム、ウエルカムのうれしい状況を賭がもたらしてくれる。人生に幻滅を感じているファウストをメフィストがあらゆる快楽をもって誘惑するのだ。酒池肉林の世界にファウストは引きずり込まれ、これを堪能するのである。
 神とメフィストの賭けを語る出だしの部分を読むだけではゲーテの考える善悪の概念がヨブ記とだいぶ違うことが分かる。聖書では善良なヨブを悲惨な状況に陥れ苦しませる。一方、ファウストでは彼が望むありとあらゆる欲望をかなえてあげるのである。どちらも最終的にそれで神を裏切ることはないとしたら、好きなことをやらせてくれるメフィストの誘惑の方がいいのは当然である。ゲーテはこうしたおいしい状況にさせた場合、人間はどうなるのかをファウストで書いていくのである。
 この勝負、メフィストの方が楽に勝てそうな設定である。だが、この賭はそれでも最後に神が勝つとことになる。神は悩み多きファウストについて「いまは何が何だかわからないままに(神に)奉公しているが、やがてすべてがはっきりする境地へ導いてやらねばならない」といって、将来ファウストは自分の思うとおり忠実なしもべになることを確信しているのである。「地上に生きている間、人間は努力する限り迷うこともある」からだと神はいう。
 そして、メフィストに「お前は自由に好きなことをやればいいのだ。わし(神)はお前の同類を憎んだことはない。およそ否定する霊のうちで、たいしてやっかいにならなぬのは茶目っ気をわすれぬ、いたずら者だ。どうかすると人間の活動はたゆみがちになってしまう。人間は絶対的な無為と休息を求める。だからわしは、つついたり引っ張ったりして、悪魔の仕事にせいを出す仲間を与えておくのだ」といって悪魔の存在を容認しているのである。
 つまりは悪魔も実は神が送り出した茶目っ気を忘れぬ御使いの仲間なのである。人間は満ち足りた生活に落ち着いたら、それは神にとって好ましいことではない。そうならないためにも神は悪魔を必要としているのである。

以下続きます。
by Weltgeist | 2012-05-20 23:57