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2010年 03月 23日 ( 1 )

No.678 でいただいたコメントにお答えします (No.681 10/03/23)

 今日は別なことを書く予定だったが、No.678で書いた外来魚の「選択と排除の論理」について、友人の「たかはらがわさん」から長いコメントをいただいたので、これについて小生の考えを述べることにしました。まずたかはらがわさんのコメントを小生なりに要約してみました。論点が失われないよう文章を短く要約しましたが、原文を正確に読みたい方は、No.678 のコメントを参照してください。

たかはらがわさんの第一のコメント
 外来魚の命自体に罪がないのは明らか。駆除している側も同じ事を感じている。ただし外来魚の命の尊厳の問題については、今後の課題。魚類学会では、研究対象とする時の魚の扱いについてのガイドラインが作られていて、その中には動物福祉という言葉も見られる。外来魚を駆除する場合の命の取扱いについても、いずれ議論されてゆくと思われる。
第二のコメント
 外来魚の問題は、日本列島に昔からいる魚たちを、生物(遺伝的)多様性という視点から、重要であると認識するかどうかではないか? 日本列島の生い立ちとともに生き物は種分化してきた。淡水魚のように簡単に移動できない生物は、地史の影響を特に強く受けている。同種であっても、水系が違うだけで遺伝的に大きい差があったりする。こうした違いを残すことの重要性がある。外来魚の捕食等の生態的影響により、こういった多様性(遺伝子資源)が喪失する可能性がある。そのため外来魚駆除が行われているのが現状。
第三のコメント
農作物は問題が少し別。河川や湖沼は公共物であり、そこに住んでいる生物は無主物とされ、漁業権があっても魚の所有権は採捕されるまでは誰の物でもない。一方、農地は、所有権があり農作物もまた栽培者のもの。生物多様性保全の見地から何らかの行動を起こすことは、所有権を侵害することになるため法律的な問題から難しい。今後、ガイドラインのようなものが作られる可能性はあるが、人の食料供給という問題からすると、かなり難しい。
第四のコメント
 人が生きていくためには生物を利用せざるをえない訳で、どの程度まで許されるかという程度の問題は、人間側の都合でいくらでも変化する。結局は、ある時点における人の多数意見が、その程度を決めるしかない。人という種の繁栄を最重要とする以上は、絶対的な真理はないのが一番の問題なのだと思っています。

小生のコメント返信
 小生は自然を地球の歴史全体の中で考えようとしています。自然は長い地球史の中で今に至るまでの間、猛烈な生存競争を繰り返して多くの生き物が繁栄と絶滅を繰り返してきました。恐竜や三葉虫の繁栄と没落に代表されるように、生態系は常にお互い同士が生存をかけた戦いの結果として現在に至っています。そしてこのような生態系のダイナミックな変化は地球が存在する限りこのあともずっと続くでしょう。
 生態系は常に全体的なネットワークの中で膨大なオセロゲームのように変化し続けるところにその特徴があると考えます。絶えず変動するこの複雑巨大な生態系に人間はどこまで関与出来るのでしょうか。長いスパンで考えると、どの種類が価値が高く、どれが低いかという自然に対する価値判断などさして意味がなくなるというのが小生の基本的な考えです。ところが、人間は今の自分に都合がいい立場から価値判断しているのではないかと思うのです。そして、その価値判断が正しいと信じた前提で行動している。
 人間は過去からの生態系史のなかで「現在」という、非常に限られた時間の一部だけを見て、それだけが正しいと思い込んでいるのではないか。また、全ネットワークを見渡してではなく、自分の気に入ったものだけを選別していないか。自分が気に入ったものはGoodであり、その価値実現を邪魔するものはBadとしていないか、人間とはそのように環境に自分の価値観をぶっつけてしか生きようのない生物だと、小生は悲観的に考えているのです。
 ですから、ある特定の生物だけを特別視することは間違いではないかと、思うようになってきたのです。どれも同じ、平等、同価値と見なければおかしいと考えています。すべての生命に尊厳(生き抜く権利)がある、たとえそれが外来生物だろうと、気味の悪い害虫のようなものだろうと差はないと考え始めたのです。
 地球史を生き抜いた生物たちは巨大な生態系のネットワークの中で、人知が及ばないほど複雑なつながりを持って生きています。日本列島にすみついた生き物たちは、それぞれ独特の遺伝的多様性を持っています。それらを守ることは大切かも知れませんが、そこに選別と排除の論理が入り込むと、今言ったすべての生物は同価値という点と相容れない面が出てきて、どちらを選ぶべきか迷いが出るのです。
 生物の多様性を保全すると言っても、巨大な生態系を無理矢理ある一面だけで固定化するに過ぎず、結局、多様性ではなく「自分が選んだ特殊性」を助長する恐れがないかと思うのです。人間のちっぽけな頭でなるべく良い解決法を選んだつもりでも、ざるで水をすくうように、「多様性」がこぼれ落ちてしまう。我々が保護したいと思う種は自然全体のほんの一部にすぎず、その種だけを特別視していないかと疑うのです。山に緑が欲しいと土を掘り起こして植林したとき、その掘り起こしで人間の目にはとまらない無価値な生き物が沢山殺されることなど誰も注意を払いません。これが、大切な植物、たとえば今のわが家の周囲では「野生」のカタクリを掘り起こしでもしたら、たいへんな批難を浴びます。しかし、名もなき雑草なら平気で抜き取り、緑を回復したと、胸を張るのです。池の水を抜いてバスを駆除したと思うが、そのとき人間にはまったく無価値な無数の水性生物が破壊の危機に直面していることに考えが及ばないのです。
 外来魚とか在来種という区別そのものが問題ではなく、自分は自然を保護しているのだ、という勘違いした奢りを持つことを戒めたいと思って書いたのが「No.678 選別と排除の論理」です。保護をしようと人間が手を出せば、どうやっても、どこかに破壊がついて回るのです。一番いい保護とは人間が一切手を出さずに放っておくことです。これを理解していない人たちがいると思い書きました。
 しかし、人間は常に自然に働きかけ、それを自分の都合のいいように改造していくことでしか生存出来ないから、常に選別と排除をしなければなりません。たかはらがわさんのおっしゃる第四のコメント「人という種の繁栄を最重要とする以上は、絶対的な真理はないのが一番の問題」と言うことが現状だと思います。そして、環境を破壊していく人間の行為そのものもまた「自然」であるということです。ここまでくると、結局、我々には問題が大きすぎて分からなくなります。ときどきその答えは人間が滅びない限り得られないかもしれないと、弱気になることがあります。
 魚類学の専門家として自然と保護の関係に深く取り組むたかはらがわさんが、その答えを見つけてくれることを期待しています。
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by weltgeist | 2010-03-23 22:38