2008年 10月 31日 ( 1 )

マルティン・ルターその4・人間の自由と信仰の問題 (No.235 08/10/31)

d0151247_22503790.jpg 今日、10月31日は何の日かご存じだろうか。実は、小生の66歳の誕生日である。エッ、そんなこと知るかって。もちろんその通り。しかし、今日がハロウインであることを知っている人は多いだろう。だが、ハロウインの起源が欧州の祝日「万聖節」から来ていることをご存じの方は少ないのではないだろうか。万聖節は日本のお盆と同じ発想で、この日の夜、死者の霊魂が町に戻ってくると信じ、迎え火を焚いて備えたのが始まりとされている。だが、小生がこの特別な日を取り上げるのは、ハロウィンでも無ければ、万聖節でもない。実は1517年の10月31日に歴史的大事件がヨーロッパで起こったのだ。
 ドイツ、チューリンゲンの静かな大学都市、ビッテンベルグの城教会扉に、一人の修道士が「95ヶ条の提題」と称する質問状を貼り付けた。修道士の名前はマルティン・ルター、質問を投げつけられた相手はローマ教皇庁である。かくして、ルターが提示したローマへの疑問は大きな波となってヨーロッパ全域に拡がり、宗教改革の発端となった記念すべき日が今日、10月31日なのだ。
 そのルターについて、小生は多大な興味があり、9月6日の第一回目(No.199) から、No.205 206 と3回に渡って書いてきた。今回はルターの論敵であったエラスムスが突きつけた疑問、「神の前で人間は自由でありうるか」という問題について小生なりの考えを述べてみたい。なお、ルターについては前の3回の文章を読んでいない方は、できればNo.1、2、3をも合わせて読んでいただきたい。ルターは95ヶ条の提題でローマ教皇庁とやり合って宗教改革が始まった経緯をここで書いたからだ。
 ルターを大きく動かしたのは、ローマ書の「人は善行によって救われるのではなく、ただ神の恵みを信じることだけで救われる」と言うパウロの言葉である。人間は神の前に立ったとき罪深き無力な存在であり、自分の努力で罪の泥沼から抜け出ることはできないとパウロはローマ書で語っている。良い行いをいくら一生懸命続けても、救いは来ない。ただ、神が与えた「恵み」を信じるかどうかにかかっているのだ。
 しかも、神は救う人と救わない人を選別する力を持っていて、自分が救ってやろうと思う人だけを救う。それに対して人間は何も言える立場にない。お賽銭やお布施の額で動く日本の神様とは違うのだ。神は人間とは比較にならない絶対者だから人間ごときがいくらお願いしても、神の選びに影響を与えることは出来ないのである。人はただ神が救いの手を差し出してくれることを願うだけである。
 しかし、もしそうなら人間には自由はないことになる。ルターの言う通りとすれば、人間は神の奴隷にすぎないではないか。エラスムスは論敵ルターの弱点をそこにあると見たのだ。エラスムスのこの疑問にルターは、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している」と言っている。
 熱烈なキリスト教徒であるルターにとって、神は絶対的存在である。人間は神の創造物にすぎないから、自由であるように見えても、最終的には仏の手の上を飛び回った孫悟空のようなものにすぎない。エラスムスが問うた自由は、そうした人間という程度の低い段階での自由である。そんな次元で人間が自由であると考えるエラスムスこそナンセンスなのだ。人は神の恵みを信じた時、この上ない自由を得る。しかし、それは神の被造物であるということを認めたもとでの自由である。人は自由であると共に神の僕であるのだ。ルターにとって自由とは神が与えた恩寵を心から信じることのうちにしかないのである。エラスムスが言う「神の奴隷」になって初めて人は自由をも得るのだと考えているのである。
 ルターはカソリック教会からの束縛を解き、万人祭司、すなわち各個人がそれぞれ独立して神と向き合うことを提唱した。その意味で、暗黒の中世から個人というものを導き出したルターの役割は大きかった。このことで人々の社会的自由度はさらに増大したのである。
 だが、エラスムスの問い、すなわち絶対的な存在である神に対して有限な人間がいかにして自由でありうるのか、という問いはその後のヨーロッパ神学、哲学における重要なテーマとなった。その答えにもがき苦しんだ代表的な人がニーチェだ。彼の有名な言葉「神は死んだ」とは、絶対者の否定である。その結果人は神に束縛されない「自由」を得た。だが、そこから生じるのは根拠を失った根無し草の状態、すなわちニヒリズムである。神の支えが無い人は、空しい生を生き抜かねばならないのだ。それも永遠に。
 ニーチェのニヒリズムはこの空しさ(=自由)を力強く引き受ける「力への意志」( Wille zur Macht )で支えられる。等しきものが永劫回帰する無の世界( Welt als die ewige Wiederkunft des Gleichens )を「よし、もう一度」と決意するのだ。だが、弱き人間は空しい虚無の世界を生きられるだろうか。ニーチェ自身が晩年には気が狂ってしまったではないか。サルトルは「人間は自由の牢獄に閉じこめられている」と言った。その意味ではパウロが語り、ルターがそれを喚起した「神の恵みを信じる」ことで「自由意志」を発揮するか、それともニヒリズムの中に生きるかしか人間の選択肢はないのだ。そう小生はこの頃考え始めている。
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ルターの親友であるルーカス・クラナッハが描いたルターの両親・父、ハンス・ルターと母、マルガレーテ・ルターの肖像。Bildnisse von Margarete und Hans Luther/1525, Wartburg/Eisenach.
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by weltgeist | 2008-10-31 22:52