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太郎の帰宅で実感させられたこと (No.393 09/04/13)

 太郎がまた飼い主の元に戻って行ってしまった。我が家の猫でないから仕方がないが、何か娘が嫁に出て行ったような虚脱感に包まれている。朝起きて「太郎はどこで寝ているかな」と探し、見つけると体を触ることが小生の楽しみになりつつあった。それが、今朝はいつも彼が寝ていた一階のソファーの上に何もいない。今まで太郎がいなかった時は何とも感じなかったことなのに、ほんのわずかな期間一緒にいただけで、大事な者の「不在感」を痛いほど味わされてしまった。
 我々は普段何気ないことを色々やっているくせに、当たり前すぎてその重要性を分かっていないことが多い。今回の太郎のように、急にそれが無くなって重要性が認識されてくるのだ。ものすごく大切なことを、日常性の習慣のなかで見失っていないだろうか。いつも目の前にあるから安心している。しかし、もしそれが無くなったらどのようなことになるか。無くなって初めてその大切さを思い知らされるのである。
 いつも有ることが当然でありながら、無くなって一番困るものは何だろうか、それは命だ。昨日の復活祭ではキリストは甦った。彼は永遠に生きる神だから失うものはない。しかし、我々人間は死ねば再びこの世に生きて戻ることは出来ないのだ。お召しの日がいつ来るか誰も知ることは出来ないが、それはいつか確実にやって来る。そのことを考えれば、今生きている自分をもっともっと充実させた人生として過ごすべきではないかと思う。
 以前述べたハイデガーの「死への存在」ではないが、自分の人生は有限であり、死がそれを締めくくって無の海に落ち込んで行くことを知れば、この今をより大切に生き抜こうと切実に思うはずだ。一度、自分自身の人生が「不在」になった時のことを想像してみるといい。あなたは置かれた状況にただ流されて、無為な時間を浪費していないだろうか。有限な人生、無駄な時間など絶対にないはずだ。
 まだまだ、未来が長く続くと思われる若い人ならそんなことは考えないかもしれない。しかし、すでに人生の大半を生き抜いて老い先短い小生は、益々、「今」を充実させて生きたいと切に思っているのだ。
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飼い主が取りに来る日、太郎はテーブルの上で、ラジオを枕にまどろんでいた。自由気ままに生き、食べたいときに食べ、寝たいときに寝る。こんな勝手な生き方は猫しかできない。忙しく働く人にとっては、ある意味で憧れの生き方であるかもしれない。
by weltgeist | 2009-04-13 22:20


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