人気ブログランキング | 話題のタグを見る

汝自らを知れ (No.361 09/03/12)

 新しい物事を始めるに当たって過大な目標を立てることは、良い結果をもたらさない。初めから百%うまく出来上がることはまれだからだ。例えば金属研磨に熟練した工員は手で触っただけでミクロン単位の違いを見分けることができると言われる。しかし、それには長い修練の時間が必要である。最初からそれが出来る人など金輪際存在し得ない。それゆえ、完璧な物など無理と承知し、気楽に構えて始めればよろしい。
 物事を新しく始める時は控えめな目標値を設定しておくのが当たり前だし、精神的にも余裕を持てる。うまく出来なくて当然と思えば悩みも少なくてすむだろう。能力以上のことを望むからストレスが溜まってイライラするのだ。
 だが、せっかちな人間はそれが我慢ならない。出来るだけ早い成果を得たいと焦る。これが逆に目標達成を難しいものにしてしまうことに気づかないのだ。しかし、それでは目標値はいつも低めに設定すればいいかと言うと、これもよろしくはない。低すぎる目標は実現するのが簡単で自信はつくが、すぐに飽きてしまう。簡単すぎて馬鹿臭くなってしまうのだ。それは怠け者には格好の逃げ場を提供することになるが、まっとうに生きようと努める人には有害でしかない。人は常に現在の水準を超えていくところに喜びを見いだすのであって、いつも簡単に達成できるものから来るのは退屈、マンネリでしかない。
 従って、一番望ましいのは自分の実力より少し上を目標にすることだ。自分でも出来るかな、と不安になる少し手前くらいの目標設定をし、それをやり遂げた時の爽快感は何ものにも代え難いからだ。これこそ人生の真の喜びではないだろうか
汝自らを知れ (No.361 09/03/12)_d0151247_13343049.jpg
 人がしばしば自分の能力に比して過大な目標を掲げがちなのは、己を知らないからだ。ソクラテスは「汝自らを知れ」と言った。自らを知るとは自分を知れば知るほど無知であることに気づくことだと言う。自分は何でも知っていると偉そうに思う人ほど実は何も知らないのだ。しかも、その矛盾に気が付かないという意味で、二重に滑稽であるとソクラテスは指摘する。
 そう思うと人間の生活の全てが、どれも不確実で、怪しい基盤の上に成り立っている気がする。絶対的なことなど我々の日常生活ではあり得ない。あるものは全て相対的で、そこそこのものでしかない。上には上があり、下には下がある。下から上に伸びる階段を我々は一歩ずつ登って行く。だが、その頂点は霞んでいて見えないし、下の方は暗黒の闇の中に消えていってこれまた見えない。自分が見えているのは、ほんのわずかな区間でしかない。そんな砂上楼閣の上に人間生活は成り立っているのではないだろうか。
 かって、レナード・バーンスタインが「人は賢くもなければ愚かでもない。悪人でもなければ善人でもない。この世にあるものはどれも中庸だ。それでも、我々は与えられた生を精一杯生きるだけ」というようなことを言っていた。本当にその通りだと思う。
by weltgeist | 2009-03-12 23:22


<< 人が正義に目覚める時 (No.... 歴史に翻弄される人たち (No... >>