9月から始めたマルティン・ルターについての小生なりの人物論は、10月31日の万聖節の日に書いた第4回(No.235 08/10/31)を最後に、ずっと中断していた。今日は久しぶりにその続きを書いてみようと思う。( 初めから読みたい人は、こちらをクリックしてください)
1517年、中世ドイツ、ビッテンベルグの一修道士であったマルティン・ルターが始めた宗教改革は、世界史の中でも特筆すべき大事件となった。中世をひっくり返すほどのことをやらかしたルターとはどんな人物だったのだろうか。彼が教会の扉に貼った95ヶ条からなる質問状は、長く続いたローマ教皇庁のヨーロッパ支配を解く契機ともなった。そんな世界史をも動かしたルターは、きっと途方もなくスケールの大きな人物であるだろうと思って始めたのが小生のルター論である。 さて、第2回目( No.205 ) で書いたように、ルターはエルフルト大学で一般教養課程を終えて、専門課程に入ろうとしていた頃、シュトッテルンハイムという村のはずれで落雷に遭い、死の恐怖を味わう。厳格なルターの父ハンスは、ルターが大学を卒業し、立派な社会人になることを望んでいた。だが、彼はこの時の恐怖から、父親の反対を無視して1505年にエルフルトでも最も厳格と言われていたアウグスティヌス修道院に入ってしまう。そこで徹底的にキリスト教を学ぼうと思ったのだ。修道士になればそれまで彼が感じていた不安のない平安な日々がやってくると思ったのである。 修道院での彼の態度は極めて模範的であったという。だが、それにも関わらず彼の不安は取り除かれることがなく、神は自分に微笑みをくれない遠い存在であり続けた。それはなぜだろうか。自分はこれほどまでまじめに神の恵みを受けようと努力しているのに、どうして恵みを得ることが出来ないのか。自分が信じたキリスト教は間違っている宗教なのか。ルターは深く悩み、聖書の研究に没頭していくのである。 そして、ローマ書に出てくるパウロの一つの言葉に出会う。そこに自分の歩いてきた道が間違っていたことを見いだすのだ。パウロはこう書いていた。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ書3-28 ) と。ここで語られる「義」という言葉は、神によって罪なき者と認められ、救われたという意味である。それこそルターが求めていたものだが、それは人がどんなに立派な行いをやっても得られるのではない。ただ、信仰によってのみ得られるのだ、とパウロは言っている。とすれば自分がこれまで厳格な修道士の生活守り続けてきても、それで義が得られないのは当然ではないか。 いくら良い行いをしても、それで人間が救われることはないのだ。重要なことは行いではなく、ただただ神を信じることである。そう思ったとき、ルターは長い不安なトンネルから抜け出せた気がしたのだ。その時の気持をルターは「このようにして、私は全く生まれ変わって、開かれた門を通ってパラダイスそのものの中に入ったように感じた」(ルター選集2、”ルターの説教”岸千年編訳、P.165 ) と述べている。これがルターがキリスト教を開眼した塔の体験である。 ルターが光を見いだした「塔の体験」は、だが、ローマ書でパウロが言うことの「ルター的解釈」であった。なぜなら、彼は塔の体験で救われたと思った後でも、激しい不安に襲われ、神の義を得たとは言い難たかったことが指摘されているからだ。 パウロはローマ書の中で、人は良い行いをしても救いはこない。罪人のままであるが、そうした罪はすでに無垢なイエス・キリストが人類の罪を一身に背負い、あがなっている。だから、人はそのことを信じるだけで神の恵みを受ける事ができるのだ、と繰り返し述べている。言い換えれば人は罪人であると同時に、すでにイエス・キリストによって罪が許されている存在でもあるのだ。 禅宗では「即身是仏」という言葉を使う。これは人はすでに仏の状態にあるのに、それに気づいていない。人間的な煩悩に振り回されて不幸になっているだけだ、という考えと似ている。パウロが言う、神の恵みはすでに与えられている、という主張と極めて近い気がするのだ。「一人の違反(アダムが禁断の木の実を食べたこと)によってすべての人に罪が定められたのと同様に、一人の義の行為(イエスが十字架に架けられてこと)によってすべての人が義と認められ、命を与えられる」(ローマ書6-18)とパウロは言っている。人間はアダムとイブが罪を犯して以来、ずっと罪人だった。しかし、イエス・キリストが無垢なまま十字架に架けられたことで、その罪はすでにあがなわれている。だから、人はイエス・キリストがなした恵みをただ信じて受け取るだけでいいのである。それは人が良い行い、善行をするしないに関係ないことだ、と言うパウロの言葉にルターは目覚めて行くのである。 だが、それはルターなりの解釈であり、その後様々な物議を醸し出すのである。ルターは、人間は徹底的に罪深い存在であって、救い難いものという独特の解釈に突き進んで行くのだが、この続きについては紙面の関係で明日さらに続けるつもりである。 マルティン・ルターその6へ
by weltgeist
| 2009-01-29 19:19
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