人気ブログランキング |

ファジーな真理。その9、サルトル、実存は本質に先立つ ( No.282 08/12/17)

d0151247_22514361.gif 小生が大学で入ったクラブの部室には、ガチャ目の男がパイプをくわえた大きな写真が貼ってあった。2年間毎日部室で彼の写真を眺めていたので、今でもその男の姿が脳裏に焼き付いている。そして、その男はあるとき極東の田舎国、日本にやってきたのである。その男こそジャン・ポール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre/1905-1980年 )である。今ではすっかり廃れてしまったが、彼の哲学は実存主義と言われ、当時は飛ぶ鳥を落とすほどの人気を博していた。我々は半ば興奮状態で彼を迎え入れ、彼の声を聞き、彼の本を読んだのである。そのサルトルがハイデガーやフッサールをどう引き継いだのだろうかを、今回はそれについて述べてみたい。
 ハイデガーの存在論は、人は己の存在の意味を問う存在者、すなわち現存在として、世界(存在者)の中に投げ出されてある。ここで言う存在者とは要するに物のことで、それは自らの存在の理由を問うこともなく、ただそこに「ある」だけである。一方で現存在は自分がなぜ世界の中に投げ出されているのか、その意味を探りつつ、己が「ある」こと、すなわち「存在」に関わっていく「存在者」であった。
 この構図が、サルトルでは即自(存在者)と対自(現存在)となっていく。サルトルが言う即自とは要するに木とか本といった物のことで、それ自体ですでに「ある」ことを完了した存在のことである。例えば、本は他の何かの影響を受けない限り何時までも本であり続ける。本には本以外のものが入り込むことがない絶対的に安定した存在と言える。こうした即自をサルトルは「それがあるところのものである存在」と言っている。
 これに対して人間のことを意味する対自は、常に自分に対して向き合った存在、すなわち己の存在のあり方を気にしつつある存在と言える。これは前回ハイデガーで述べた現存在を思い出していただければ分かるだろう。対自は即自のように「それがあるところのもの」という完結したものではない。彼の主著「存在と無」の中で対自とは「それがあるところのものであらず、あらぬところのものである存在」(l'être est ce qu'il est et qui n'est pas ce qu'il n'est pas. 存在と無・第一分冊 pp.219-220)であると書いている。
 ちょっと分かりにくい言葉なので、少し視点を変えて説明すると、即自、たとえば本という存在は、人間が作りだした物である。言い換えれば本が出来る前に本の設計図、企画書があってそれに沿って作り出されている。その意味では即自は自分がある前に、本質(設計図)が先立ってあると言える。それゆえ即自は設計図に縛られており、設計図で意図した物以外の物になることは出来ない。本は本以外になれないのだ。ところが、対自は即自のように常に確固たる設計図が「無い」ことがつきまとう存在である。対自は今まさにここにある自分を「無化(否定)」し、それを常に超越して行くしか存在しえない存在なのだ。だから自分の未来を決定づける設計図もない。私の未来は何者にも束縛されない自由であり、自由に自分の可能性を選択することが出来る。そうした可能性に向かって自分を「投企」し、自らの道を切り開いて行く存在が対自なのである。サルトルはこれを「実存する」と言う。
 対自存在、すなわち人は物のように本質が先にあるのではなく、まず実存していることが真っ先にある。それゆえ、「実存は本質に先立つ」のである。私が自分の本質を「私は悪人です」と言ったとき、そう言っている私はすでに悪人であった私を超越している。従って、そう言う自分は悪人であった過去の自分と切り離されてあり、それに囚われない自由を得ていることになるのである。
 人間はいかなる本質からも規定されることがない自由なのだ、とサルトルは言う。人間には本を作った時のような設計図はない。私の未来は全くの白紙で、私の自由判断に任された聖域なのである。人はここにおいて完全に自由だという。僕の前には自由な可能性が広がり、僕が為した後には歩んできた軌跡としての道が残るだけだと言うのである。
 対自は即自(物)があるまっただ中(世界)に放り出されているが、対自は即自を自己の実存において意味づける自由を持っている。これをサルトルは対自の「無化」という。物として確たる存在であった即自は「無化」の中で対自に取り込まれていくのである。しかし、ここに来ると、今まで追求してきた真理という概念そのものがあやふやになってくる。人間にとって、確たる真理なんてものはない。あらゆる物が無化され、それを対自(人間)が意味づけて行くしかないのである。白紙の未来に向かって一心に自分を投入させて行くだけだ、というのがサルトルの実存主義である。サルトルの所までやってきて、真理というものが、実はとても不確定なもので、自己の実存で意味づけていくものだ、ということが見えてきた。
 次回は再び、ハイデガーの後期の思想に戻って、真理をどう捉えたか見るつもりである。
d0151247_2252527.gif

ファジーな真理のスレッドを続けて見たい人はこちらをクリックしてください。ファジーな真理10へジャンプします。
ファジーな真理のスレッドを最初から読む。
by weltgeist | 2008-12-17 22:55


<< ファジーな真理。その10、ハイ... 人を馬鹿者にする機械 (No.... >>