ファジーな真理。その2、カントのコペルニクス的転回 (No.263 08/11/27)

d0151247_22263774.jpg 我々にとって真理とはどのようなものだろうか。少なくとも真理と言う以上、絶対的に間違っていないものでなければならない。我々から独立して存在する客観(対象)を完全な形で捉えられれば、我々は真理を捉えたことになる。主観(人間が捉えているもの)と客観が完全一致すれば、それは真理と言えるのだ。これについて昨日デカルトは最終的には主観(人)の中には神が与えた形式があるから客観(対象)を認識できると書いた。しかし、その理論はおかしいと思ったのが、今日取り上げるイマニュエル・カント (Immanuel Kant/1724-1804年) だ。(彼の人物像については6月26日に書いた No.134 を参照して欲しい)
 カントは、我々の認識は感性が持つ直感の二つの先験的な形式、時間と空間に制約された経験によって始まると考えた。というところで、いきなりカントの難しい言葉が出てきたが、ここで言う「先験的」 とは、まあ、生まれつきとでも覚えておいて先に進んで欲しい。そして、感性の経験で得られたものはさらに高度な悟性の形式である「概念=カテゴリー」でうまく分類して「認識」を完成させていくのである。
 これをデジタル写真を例にとって説明すれば、レンズ(カントが言う感性)を通して映された映像は撮像素子(直感の形式である時間と空間)でR(赤)G(緑)B(青)の三原色に分けてキャッチするのと似ている。撮像素子で受けるのが感性の段階、それを画像処理してjpeg形式のファイルに(カテゴリーで)まとめるのが悟性と思えばいいだろう。デジタル画像ではRGBの三原色に入らない他の色は、その三色の組み合わせで表現することになる。しかし、それは無数にある現実の色を三色に分解したにすぎず、これで再現出来ない色はこぼれ落ちて行かざるを得ない。デジタル写真は「だいたいは現実を再現している」ファジーな状態にすぎないのだ。
 カントの言う認識とは実はこの状態と似ている。人間が客観を認識するとしても、直感という(RGBの)フィルターを通して得たものである以上、客観そのものにはなれないのである。単に客観的な物の「現象」を認識しているだけで、決して「物そのもの」には到達出来ないのだ。言い換えれば、人間の理性はこうした限界があり、その先にある「物そのもの」、絶対者である神のようなものは認識出来ないことになる。
d0151247_223154100.jpg カントによれば人間が客観を認識することは、実はデジタルカメラを対象に向けるのと同じことなのである。人間は今のデジカメの数万、数億倍もの撮像素子を持った存在として物を見ていて、それが真理と思い込んでいるが、それは「物そのもの」を写し撮った「現象」にすぎないのだ。我々は外にある対象と自分の認識を合致させることが真理探究の道であると思い、出来るだけそれに一致させる努力をしてきた。だが、そうした認識は我々の主観が作っていたものの中だけでの合致なのである。空間や時間は客観的に外にある対象が持つものと思われていたが、実は我々の中にあるものなのだ。カントはこのことに気づいた自分を、天動説をひっくり返して地動説を主張したコペルニクスにたとえて、コペルニクス的転回と呼んだのである。
 ここまで来るとまた、カントの言うことはデカルトの結論と近い気もするのだが、カントは人間の認識は理性の及ぶ範囲に限られるとし、それより向こう側の絶対的なものは認識できないとした。この点でデカルトとは明確な一線を画していることになる、だが、そうなると神のような絶対者を理性で考えることは出来きても、その存在を証明できないことにもなるのである。
 人間が捉えている真理と思われるものは、カントでは「現象」であるという。真理はここでまたしても、遠い彼岸に行ってしまった。それは未だボーッとしていて、我々の前に全貌を表してくれないのだ。
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by weltgeist | 2008-11-27 22:46


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