ファジーな真理。その1、デカルトのコギト (No.262 08/11/26)

d0151247_22445025.jpg 自分はこれまでブログの中でずいぶん色々なことを言ってきた。しかし、それが本当に正しいことなのかは、正直分かりかねているところもある。もしかしたら、ピント外れのことを、さも正論のように振り回していたことがあったかもしれない。しかし、自分に反論する人の意見があったとしても、それも同じように正しかどうかは分からない。なぜなら真理の基準というものがはっきりしないからだ。客観的な真理の裏付けのない主観的な意見を振りかざすという点ではどちらも同列である。
 それでは真理とはどのようなものだろうか。真理の探求となると、これは近世西洋哲学の大きなテーマである。近世の哲学者たちは、有限な存在である人間が、完全な真理をいかにしたら捉えることが出来るかの証明に専念していたのである。それで今回は西洋哲学の歴史を紐解いて、真理とはどのようなものなのかを考えてみたい。
 最初に哲学者が悩んだのは主観と客観の関係である。主観(人間)がいかに客観(対象)を正しく認識できるかという問題に彼らは常に腐心していた。例えば、私は目の前にあるペンを見ているとき、それがペンであることに何ら疑問をはさむ余地はないはずだ。しかし、それが本当にペンなのか証明しようとすると、ハタと行き詰まる。もしかしたらペンのように見えているだけで、目の前にある「物」はペンとは違ったものかもしれないからだ。我々は知覚を通してペンの像を得ているが、その像が正確に対象を映し出しているかどうかはわからないのである。その「物」とペンの「像」が本当に一致していなければ、我々は真理を知る立場にはないことになるだろう。
 この困った疑問を解決しようと華々しく登場するのがフランスの哲学者・デカルト (René Descartes/1596-1650年) である。彼は人間の客観認識が正しく判断出来るための原理を考えた。そのためには、最初の出発点では、この世にあるあらゆることは疑問付がついたものと考えることからスタートする。方法的懐疑と言って全てが疑わしいと思うのである。しかし、全てがあやふやで疑わしいとしても、それを疑っている「私自身」だけは確かにここに存在している。疑う私がいなければ、そうした問いそのものも成立しないからだ。ここからあの有名な言葉「我れ思う、故に我れあり=ゴギト・エルゴ・スム」が出てくる。
 この世の中全て疑わしいとしても、少なくともそれを疑っている「私」だけは確かに存在している。それは否定できない確かな事実で疑問の余地はない。だが、私が確かに存在しているとしても、私が判断する答えが正しいかどうかを証明することにはならない。
 そこでデカルトは素晴らしい「こじつけ」を考え出す。まず、疑っている私がここにあることは間違いない。完全な「真理」である。しかし、私は真理とはかけ離れた有限な存在にすぎない。そんな「真理」が、ちっぽけな私の主観から出たとすれば、それは不合理である。「真理である」と判断できるのは私ではなく、私を越えた完全なるもの、すなわち「神」が私の中にあるから真理と言える。そう考えるのが合理的ではないかと主張したのだ。
 つまり、有限な人間の中にある様々な判断基準は、実は神が人間に与えたものであるから、人間が明晰判明に考えて判断したものはそのまま真理とすることができる、とデカルトは考えたのである。言い換えれば、デカルトの「我れ=コギト」の中には神が与えた真理の基準があるから、「我れ」が思うことは真理と見なしてよろしいというわけである。なぜなら神が人間を騙すことなど絶対あり得ないからである。
 デカルトの論に従えば、小生がブログで言いたい放題言っても全て、それは「正しい」ということになる。だが、どこかおかしい。何かが変である。我々はデカルトに騙されているような気になる。近代人の自我を確立したデカルトだが、その真理論は実はまだまだ一人歩き出来ないあやふやなものにすぎないのである。これを補完するのがカント、ヘーゲル、ニーチェへと引き継がれていく哲学の流れだが、すでに紙面が限界に近づいたので、この続きは以前ルターのところでやったように、何回かに分けて論じたいと思っている。

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by weltgeist | 2008-11-26 22:45


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