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マルティン・ルターその2(No.199の続き)、エラスムスとの戦い (No.205 08/09/14)

d0151247_2326942.jpg ルターは1483年ドイツ、ザクセン地方の小村で生まれた。厳格な性格の父親ハンスは息子が高等教育を受けて出世した人間になることを強く望み、彼をエルフルト大学に入れる。だが、1505年、大学へ向かうルターは雷に打たれる事故に遭遇する。この有名な落雷事故でルターは心底キリスト教に回心したと言われている。彼は雷の恐怖から、父親ハンスの意向を無視してエルフルトにある修道院に入ってしまうのだ。このような落雷の例ではパウロがキリスト教徒弾圧に向かう途中で強烈な光に打たれ、逆にキリスト教徒に回心する事件(使徒行伝9-4)がある。
 親の意向に反して修道士の生活を送って行くルターだが、彼には自分が進んで入った信仰の道でいつも大きな疑問につきまとわれていた。それは、全能である神の前に罪深き人間が立つことがそもそも許されるのか、という疑問だ。教会は聖職者として、神の代理人の役目をする。神と人間(市民)とを取り持つのが当時の聖職者、カトリック教会の役割であった。だが、罪深い人間がそんな不遜なことをしてもいいのだろうか。
 聖書を深く読んでいくルターはあの強い光に打たれたパウロと同じ思いに行き着く。すなわち、パウロが「ローマ書」で書いた「善行と救い」の問題に行き当たるのである。
 すでにビッテンベルグ大学で哲学と神学の講座を持っていたルターは、ローマ書の「人が義(筆者注・神から罪が許され救われた)と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ書3-28)と書かれ、「従って、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(同9-16)と言う言葉に強く影響を受ける。人間がやることなど、神から見れば何ら意味のないことであり、人はただ神が与える恵みを信じることでしか救われない。善行と称していくら教会にお金を寄進しても、救いにはならないのだ。必要なことは教会を通してではなく、各個人が直接神と向き合うことだ、と思うようになるのである。
 このことが前回(No.199)で書いたように、ローマ教皇庁が売った免罪符の拒否に向かい、宗教改革が勃発する原因となるのである。だが、ここにもう一人の巨人が見え隠れしてくる。それはオランダ、ロッテルダム生まれの人文学者で、「痴愚神礼讃」で知られるデジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus/1467-1536)である。
 エラスムスもローマ教皇庁の免罪符販売に疑問符を投げかけ、宗教改革の大きな要因となった。しかし、エラスムスは良く言えば温厚、悪く言えば日和見主義者であったため、ルターのように強烈な自己主張はしなかった。ところが、まだビッテンベルグの無名な修道士に過ぎなかったルターは、「95ヶ条の提題」でローマと渡り合った時、この高名な人文学者の応援を仰ぐ。しかし、ルターの過激な主張にエラスムスは「もう少し節度ある態度を」(シュテファン・ツバイク全集第6巻、「エラスムスの勝利と悲劇」P.124)と答え、ルターが望んだ改革運動への積極的な応援はしなかったのである。
 しかし、「説教壇の上では人を魅了する人間的な声の持ち主、家にあってはやさしい家父であったルターは、反目が始まるとたちまち人間狼、途方もない怒りに憑かれた人となり、いかなる顧慮にも公正にも遮られることはない。天性の狂暴な性格」(同P.119) の持ち主に豹変する。「地上に生きたすべての天才的な人たちのなかで、ルターは恐らく最も狂信的で、最も度し難く、最も御しがたく、最も乱暴な人間であった」(P.116) と言う。それゆえエラスムスのこの煮え切らない態度に激怒し、彼を敵として徹底的に攻撃し始めるのだ。
 ルターは最初、慇懃無礼な態度でいながら、誰が見てもそれがエラスムスのことと分かるような文書で批判し、それは次第にエスカレートしていく。というのも、最初、エラスムスに「応援依頼」の手紙を送った時は無名な一修道士に過ぎなかったが、今やルターの名は宗教改革の旗手としてヨーロッパ全土に知れ渡っているからだ。 
 ルターは、エラスムスに強圧的な手紙を送り、自分たちの改革運動に干渉するなと言う。これに対して、エラスムスはルターの根源的な欠陥である人間の自由についての批判を行う。エラスムスが指摘するのは「あらゆる神学の永遠の問題、すなわち人間意志は自由なりや否やの問題である。ルター(が言う厳格な神)の予定説からすれば、人間は永遠に神の囚人なのである。自由意志の片鱗さえ人間には分かち与えられていない。人がなすことは神によって予め計画されていて、いかなる善行も悔い改めも、神の計画にすぎない。我々は、それぞれの運命の中で、全く遺伝素質、巡り合わせによって支配されている。したがって、神がわれわれのうちにそれを望まぬ限り、自分の意志に可能なものは何ひとつない」(P.173) ことになると、エラスムスはルターを批判するのだ。
 だが、「この世紀最大の鉄面皮、こと信仰と確信の問題になると、火刑台の上でもなお一字一句おそろかにしない男」(P.175) は、その疑問に正面から答える代わりに、エラスムスへの攻撃を一層強めていくのだ。そして、このことが最終的にはルター自身の首をも絞めることになるのだが、この続きはまた後日にしたい。
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左上、1521年からほぼ1年間、ルターが身を隠して、聖書のドイツ語訳をしていたというワルトブルグ城の内側。ルターがいた小さな部屋「ルターシュトゥーベ」には、聖書の翻訳中しばしば亡霊が現れ、ノイローゼ気味になったルターがインク瓶を投げつけた跡が壁に残っていたという。また、この城は、ワグナーの歌劇タンホイザーで歌合戦が繰り広げられた舞台としても知られている。
左下、ルターがアイゼナッハでラテン語学校に通ったとき住んでいたという家。500年前の姿のまま残された美しい家は現在ルターハウスとして、博物館になっている。
、宗教改革の時代、ルターの好敵手となった人文学者、エラスムス。彼の肖像画はハンス・ホルバインが最も多く(エラスムスの肖像画で現在確認されているのはホルバインが6枚、デューラーが2枚、マセイスが1枚)描いている。この絵はルーブル美術館で展示されているもので、非常に暗い所にあったから手ブレを起こさなぬよう撮るのが難しかった。Hans Holbein. Portrait de Erasmus. 1523. Musée du Louvre , Paris, France.

by weltgeist | 2008-09-14 23:28


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