小生が学生だった60年代初頭、フランスの作家、アルベール・カミュの「異邦人」という小説が話題になった。灼熱のアルジェリアで、主人公ムルソーが「太陽がまぶしかったから」という理由だけで人を撃ち殺すストーリーで、日本ではこの意味を巡って様々な議論がわき起こった。こんな訳の分からない理由で殺人などあり得ない、この小説にどれだけの意味があるのか、当時の日本では理由もなしに殺人をすることなど考えられなかったから議論が白熱したのである。
57年ノーベル文学賞を受賞したカミュはこのことを「シジフォスの神話」の中で書きつづっている。ギリシャ神話に登場するシジフォスは尖った山の頂に岩を上げるようギリシャの神に命じられるが、上げても上げても岩は下に転げ落ちる。これが人間が置かれた現実でもある。理性的に考えれば無意味なことを、シジフォスと同じように人間は生きるために必死でやらなければならないのだ。人間が生きているこの世界は実は、こうした不条理なものに満ちているのだと彼は言う。だから太陽がまぶしくて人を殺すこともありうるのだ。 異邦人の書き出だしは「オージョルド・ウイ、 ママン・エ・モルト。 ウ・プテートル・イエール」(今日ママンが死んだ。あるいは昨日だったかもしれない)という有名な言葉で始まる。自分の母親が死んだのに、その日にちさえ忘れた無関心さの中にいる主人公ムルソー。こうした社会からはみ出た人間の理由無き殺人の理不尽さが、裁判で明らかにされる。だが、裁判の過程で彼が示した態度は、一般社会の常識からはかけ離れたことばかりで、彼は死刑の判決を受ける。これが当時の日本では際だった奇妙さでとらえられ、賛否両論がわき起こったのである。 もしカミュが現在、同じテーマで異邦人を書いたとしたら、誰も相手にはしないだろう。それほど理由無き殺人事件が頻発しているからだ。 毎日通り魔による殺人事件が連続し、日本は一体どうなったのかと問いたい状況である。先ほどのニュースでは刑務所に入りたいから電車のホームから人を突き落として殺す事件があったり、刑務所から出所した人が、もう一度刑務所に戻りたいため駅に放火したと言った常識を逸脱した事件が立て続けに起こっている。シャバより刑務所の方がましだというのだから理解に苦しむ。それだけ、この世の中が荒廃しているということだろうか。昔は刑務所から脱走したい人が後を絶たなかったというのに、まさに様変わりの様相である。シャバは刑務所以下の場所になってきているのだ。 これこそカミュが指摘した不条理な社会そのものであろう。大岩を尖った山頂まで運んでも、転げ落ちるのは分かり切っている。だが、無意味と分かっていてもそれをやらなければならない。文句を言わずにやるのが良き人間の証なのだ。これに耐えきれなくなった人が、異常者として外に出て行く。 カミュの思想から言えば、こうした異常者の方に理があるようにもとれる。だが、もしそうなら、人間社会そのものが根底から否定されることになる。人間には理性がある。理性は起こりうる憤怒の念をも抑え、調和を導こうとする。弱き人間が陥りそうになる危機を理性が克服したとき、そこにむしろ喜びの気持ちが芽生えることをカミュは信じなかったのだろうか。 ムルソーは無神論者だった。それ故に彼は不条理と感じる暗い生を一身で受け止め、孤独な死を迎えることを選ぶ。不条理に徹することで苦難はいっそう鮮明に彼を襲い、歯を食いしばりながら死んで行かなければならない。だが、その不条理さを正面から引き受けるところに自己の実存を見いだすのだ。彼はそう確信し、そのように生きたのである。しかし、もし、彼が神の存在を信じたとしたら、最後はどうなっていただろうか。不条理の影に喜びが、憤怒の脇に理性がそっと控えていたことを察することができただろうか。 コルマールのウンターリンデン美術館にあったこの彫刻を見たとき、衝撃を受けた。誰の作で、誰を表したものか分からないが、この人の顔には人生のあらゆる意味を解く鍵が潜んでいると思った。悲しそうでもあり、人生における様々な辛苦をなめつくした人だけが見せる、諦観と達観を滲ませた複雑な顔をしているようにも見えた。
by weltgeist
| 2008-03-26 18:04
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