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懐かしい本、ヘルマン・ヘッセ 「シッダールダ」 (No.2070 15/06/19)

 ヘルマン・ヘッセのシッダールダは私がまだ10代だった頃に読んだ懐かしい小説である。しかし、当時名作と評判になっていた割には、読んでみてそれほどの感銘を受けた記憶がない。語られる内容が人生の究極的な悟りのことだから、すごいことなのだろうが、それは若かった私の理解の範囲を越えていた。「フーン、悟りの世界ってこんなものなのか」という程度の漠然とした感想しか受けなかったのである。
 しかし、人生を総括できる年齢にまで達した今の私なら、昔と違った印象を得るかもしれないと、先日もう一度読み返してみた。残念なことに再読しても昔の記憶がなかなかよみがえってこず、随所に散らばっているはずの私のかすかな記憶の痕跡さえ見つけられなかった。しかし、それだからこそ私はまるで初めて読むような新鮮な思いでヘッセの考える人生の究極の意味を自分なりに理解することができたつもりある。
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 インド最高階級であるバラモンに生まれたシッダールダは、若い頃から聡明で、誰からも愛される幸せな人物だったが、なぜか自分に満たされないものを感じ、沙門(しゃもん)という修行僧に身を投じる。彼は「自分の中に持っている自我の最も奥深い中にある究極のもの・・・世界を創った真我(アートマン)」を追求していきたいという思いに駆られて修行僧の世界に飛び込んで行くのである。
 そしてシッダールダは必死に修行を続け、真理を見つけようとする。だが、それはどうしても見つけられない。それどころか60歳にもなる先輩修行僧でも迷いの中をもがいているのを見て、一緒に修行に出た親友のゴーヴィンダに、ああした先輩たちが「70歳になり、80歳になっても、彼らが涅槃に達することはないだろう」と懐疑的なことを言いはじめる。ゴーヴィンダは「あれほど多くのひたむきに励む人々のうち、誰一人も道の中の道を見いだせないなどということがあり得るだろうか」と反論するが、失望したシッダールダの気持ちを止めることはできない。
 そして沙門を諦めたシッダールダとゴーヴィンダは舎衛城の町で世尊仏陀と出会う。仏陀、すなわち釈迦の本名はガウタマ・シッダールダである。ヘッセが主人公のバラモンをシッダールダと名付けたのは彼が釈迦と同じく究極的な悟りの世界への道を歩む人と見なしているからである。
 釈迦はシッダールダの前に完璧なまでの姿で現れる。親友のゴーヴィンダはそれに感銘して釈迦に帰依する決心をする。しかし、シッダールダは釈迦が涅槃に達したのは分かったが、それは釈迦自身の「悟りの体験」があったからで、自身はそうした体験を経ていない。だから、自らが涅槃に到達するための旅に出ると釈迦に言って友とも離れて町に戻っていく。
 だが、町に戻った彼は激変する。遊女・カマラーと知り合い、商人として成功の道を歩み始め、大金持ちになるのだ。しかし、そのことが彼の精神を蝕む。彼は愛欲に溺れ、金、金とあくなき欲望を追求するが、ある日その醜さに耐えられなくなって突然町を飛び出す。財産も愛人であるカマラーも捨てて、みすぼらしい乞食の身で森の中に入っていく。そして何日も食事をしていない彼は大きな河のほとりで行き倒れになる。だが朦朧とした意識の中で河が語りかけてくる言葉を聞いて、忽然と悟りを得るのである。河は次のように語っている。
 「世界は不完全なものではない。徐々に完全なものになりつつあるのではない。世界はあらゆる瞬間において完全なのだ。・・・一切の存在した生命を同時に見られるときがある。そのときこの世にあるすべてのものはすべて善であり、すべて完全であり、すべて梵なのだ」(臨川書店発行、ヘルマン・ヘッセ全集12巻シッダールダ P.112)と。世の中は不幸なことばかり続く出来損ないのひどい所のように見えるが、実は世界は完璧で調和に満ちている。だが、煩悩に囚われた人にはその真理が見えない。それをシッダールダはついに分かったのだ。彼はここにおいて釈迦と同じ涅槃に到達するのである。
 シッダールダはこの世のあらゆる真理を河が語る言葉から理解する。そして「知識は伝えることはできるけど、叡智は伝えることができない。それは見いだすことができるし、それを生きることはできる」と禅宗がいう悟りのようなことを言い出す。そして「あらゆる真理はその反対も同様に真理である、ということだ。つまり、真理というものはそれが一面的である場合にのみ表現することができる言葉につつまれ得るのだ。思想で考えられ、言葉で表現できるものはすべて全体を欠き、完全を欠き、全一を欠いている」と、まさに西田幾多郎が言う絶対矛盾的自己同一の位置にまで上り詰めるのである。言葉はどんなに優れていても真理の一面しか示せない。言葉で真理は語り得ないのだ。真理はただ涅槃を自ら体験するしか知り得ないのである。
 この小説の冒頭には「敬愛する友ロマン・ロランに捧げる」とある。ここまで読んだとき、なぜヘッセがロランにシッダールダを捧げたかが分かった。それはロランの「魅せられたる魂」の中で語られるアンネット・リビエールの思想、すなわち人生は河のように流れて、最後は母なる海に流れ着くという思想と呼応しているからだ。
by Weltgeist | 2015-06-19 23:59


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