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トマス・アクィナス、「神学大全」その3、理性の限界と信仰 (No.1819 13/10/26)

トマス・アクィナス、「神学大全」その3、理性の限界と信仰 (No.1819 13/10/26)_d0151247_21582242.jpg 一昨日の冒頭で書いたように、人間の理性は有限であるから無限な存在である神を理性で知ることはできない。しかし、世界を見渡したとき人間を存在せしめている何者か(すなわち神)が存在することは確かである。世界の中に存在するいかなる存在者でもないが、すべての存在者を「在らしめている何者か」は絶対在るはずだ。理性では分からなくても、天地創造した第一動者、神は確実に「存在している」とトマスは言うのである。
 だがこの世の有限なる存在者と無限な神との間には、越えることのできない無の深淵が横たわっている。人は理性があると言っても所詮は有限なのだ。神が天地創造をなしたとすれば、神は無の海の中に存在者を送り込んだことになり、人と神の間には断絶がある。これが天地創造の意味である。
 人は理性を持つ存在として神から創造されたが、人間の理性は必ずしも恵みをくれた神への感謝に向かうとは限らない。理性は不完全がゆえに「神は存在しない」と創造主に逆らうこともできるのだ。
 トマスは「神は完全か」とか「神は善か」といった疑り深い人間からしつこいほど繰り返し言われる疑問を一つずつ反論して神の存在を証明しようとしている。だが、理性の段階にとどまる限りこうした疑問は絶えない。なぜなら、人間の理性は有限だから、支えを失った柱のようにどこまで行っても不安定なままだからだ。
 この不安定さを解消するには神の方から与えてくれる「啓示」を信じるしかない。すなわち聖書が語る神の言葉を信じる「信仰」の道に進まない限り、疑惑の断絶は埋まらないのである。それは神の側から与えられている恵みを人が受け取ることで完結するのだ。
 だから神が在るか否かということは「信仰箇条」(神学大全第一部第二問第二項)の問題に行き着く。「信仰に属することはがらは論証されない。論証はことがらを知らしめるものであるが、・・それは(人間の理性からは)”見えないことがら”に関わるものだから」(同)である。
 理性的には神が存在するかどうか断定はできない。真理をしっかり確信できるのは神が聖書の言葉を通して語られる啓示を通してのみである。理性を超えた彼岸から、預言者を通して伝える神の言葉を信じることで、人は神からの恵みを受け、理性の不確実性は不動なものとなるのである。理性は神が恵みとして与えた恩恵を受け取る、すなわち信仰に入らないかぎり、いつまでも迷走を続けて真理を得ることができないのである。

 これがトマスが長い長い理屈をこね回して言いたかったことである。しかし、それを概観してみると、トマスのことを書き始めた最初のところで、神学大全がカントの思想と似ていると小生が書いたことが正しく見えてくる。人間の理性的認識は物自体には到達できない。ただ信仰でのみとらえられるというカントととても似たところにトマスは立っていると思えるのである。

トマスの神学大全は今日で終わりです。
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by Weltgeist | 2013-10-26 22:55


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