黄泉の国について (No.1742 13/07/10)

d0151247_22544911.jpg 暗い話題ばかり続けて書くようだが、今日は死んだ人はそのあとどうなるかについて考えてみた。まず、小生は知らなかったのだが、日本では人は死ぬと霊が仏門に入って「成仏」するのだそうだ。葬式で坊さんが死者に戒名をつける。これは死者の霊がその戒名で天国への階段を登って行く出発点である。階段は33段まであって、33回忌をもって終結するらしい。だから高い戒名をもらうほど成仏に近づくのが容易になるらしい。つまり地獄の沙汰も金次第ということである。
 一方、西洋のキリスト教では死んだ人間は一度黄泉の国(ハデス)に入り、そこから地獄へ落ちる者と天国へ行く者とに振り分けられるようだ。ダンテの神曲では、死後の世界には天国と地獄、それに煉獄(れんごく)の三つがあって、煉獄で清い霊は天国、汚れた霊は地獄へと振り分けられる。
 煉獄という考え方はカソリックのもので、どんな人間も罪人だから死んでも簡単に天国には行けない。まず煉獄で霊を洗い清めた者だけが天国に行ける。煉獄とはいわば魂のクリーニング場なのである。しかし、かってのローマ法王庁は「免罪符」なる物を売り出し、これを買った者、すなわち教会に沢山の寄進をした者は、煉獄で魂の清さを判断している大天使ミカエルのメガネにかなって天国に行けるとした。つまりミカエルへのワイロという名目で金儲けをしようとしたのである。そして、「そんな物はインチキだ」と反旗をひるがえしたのがマルティン・ルターだ。地獄の沙汰も金次第は洋の東西を問わずあったのである。
 ルターが怒ったのは、死んだあとの霊の世界をも人間が金の力で支配できるとしていたことだ。人間の力が及ぶ範囲は誕生から死までの生きているあいだだけで、それより外のことは神の占有事項だからわれわれがタッチすることはできないのである。
 パウロは人は神を信じればそれだけで天国に行けると言っている。プロテスタントの基本的な考え方はこれである。人は無条件に神を信じ、神が与えてくれる恵みをうけるだけで、死んだあとの霊は天国に行けるのである。ということは、地獄に落ちる人は神を信じていなかった人ということになる。神を信じるから自分は死後天国に行けると信じ、安心を得る。それがキリスト教の信仰である。
 だが、本当にそれで霊は天国に行けるのだろうか。それは考えても意味のないことである。なぜなら死後の世界は神の占有事項だからだ。われわれはそんなことは考えず、ただ神がいると信じ、その恵みを受け取るだけでいい。それを疑う人が地獄に落ちるとキリスト教徒は信じているのである。
 ルカ福音書には生前に好き勝手をやってきた金持ちと彼からひどい目にあわされた「哀れなラザロ」が共に黄泉の国で出会う話が出てくる。この世で金持ちは良い思いをしていたけれど、いざ死んでみたら自分は地獄の苦しみにあわされている。一方のラザロははるかかなたの天国にいるではないか。金持ちはどうしてこんな差別があるのか神の御使いにたずねる。すると、
「子よ。思い出してみなさい。お前は生きている間に、良い物を受け、ラザロは生きている間に悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
そればかりでなく、私(神)たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらに渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらに来ることもできない」 (ルカ16:25-26 )。
 金持ちは神の警告にも従わず、贅沢三昧で良い思いをしていたのに、黄泉の国では自分は地獄に、そしてラザロは天国にいる。神の存在を疑ったことで死後は地獄の苦しみを受けているのである。しかし、自分にはまだ生きている兄弟たちがいる。彼らには神を信じるように伝えて欲しいと頼むが「たといだれかが死人の中から生き返って(このことを話しても)、彼らは聞き入れはしない」( 16:31-32 )だろうと言って拒絶される。生前にくどいほど神の存在を言ったのに、おまえは信じなかったではないか。兄弟も同じだろう。疑ってはならない。死後には神が造った天国があると信じる者だけが救われると言っているのである。

*添付した絵はヒエロニモス・ボッシュ、祝福された者の天国への上昇。 Hieronymus Bosch / Paradise: Ascent of the Blessed / 1500-04 / Palazzo Ducale, Venezia.
[PR]
by Weltgeist | 2013-07-10 23:58


<< こんなに暑いときは高原の温泉に... 「フランダースの犬」とルーベン... >>