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偶然と必然 (No.1720 13/06/06)

「ある物が偶然と呼ばれるのは、われわれの認識に欠陥があるからにすぎないのであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない。」
スピノザ、「エチカ」


 少し前のことだが新宿の街角で大学で同級だった知人と偶然出会ってびっくりしたことがある。彼は東京に住んでいたのではない。大阪にいて、たまたま東京に来たとき小生と巡り合わせたのである。ほぼ50年ぶりに出会う偶然性には驚いたが、出会いの偶然さも際だっていた。お互いが新宿の雑踏の中を歩いていて、周囲の特定の人物に注意を払っていたわけでもない。相互に行きすぎようと数mほど歩いたところで、頭のどこかに残っていた記憶がかすかによみがえり、「うんっ、今見た彼は? 」と思い、気がついたのである。
 もし、あの日小生も彼も新宿に行かなければ、そして顔を見合わすことがなければ、さらに古い記憶がよみがえることがなければ、出会いは成立せず、ただ雑踏の人混みの中を歩いたにすぎなくなるところだった。同じ時間帯に同じ場所に行き会わせ、お互いが50年前の記憶をよみがえさせる確率たるやまるで宝くじの一等に当たるほどのものであったろう。
 だが、こうした偶然な出会いも、もし我々二人の行動を同時に上から俯瞰して見ることができたとすれば、偶然でも何でもなくなる。信号のない交差点を上から俯瞰して見続ければ、やがてやって来た二台の車が出会い頭に衝突するのが分かるのと同じである。
 我々の狭い認識能力では、知人との出会いも、衝突する車も突然現れてくる。そうした偶然の背後に必然が流れていることを知らないからだとスピノザは言う。人間は物事の裏に流れる必然を見通すことのできない不完全な存在なのである。いや、不完全だから物事がどれも偶然に見えてしまうのだ。
 だが、それにも関わらず我々は人の運命を動かす何者かがいて計画をたてているのではないかと予感することができる。なぜなら、不完全な認識能力しかない我々の目からみても、世界はあまりに美しく調和に満ちているように見えるからだ。この世界は我々の人智が及ばぬ者が我々には理解できない意図をもって作り上げたと思えてくるのである。
 今回のような偶然にでくわすと、どこかに小生たちを動かしている運命の神がいるような気がしてならない。だからこそ、人生に於いて少々悪いことがあってもジタバタしないでいられる。すべては彼=神が計画していることで、小生を高めるための試練と思えているからだ。小生を揺り動かす神様に全部を委ねれば安心を得られる。神は自分を敬い懐に飛び込んでくる者を決して悪いようにはしてくれないと信じているからである。
偶然と必然 (No.1720 13/06/06)_d0151247_2313223.jpg

by Weltgeist | 2013-06-06 23:55


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