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良い子を育てるのはむずかしい (No.1595 13/01/18)

 手に負えないほどいたずらだった小生の子供時代、先生や親から「良い子になりなさい」と散々叱られた。それでもワルぶりは簡単には直らず、今に至っている。ただ、年齢を重ねるにつれて多少は理性的にはなっていて、今は少なくとも社会生活を破壊するような悪いことはやらない。いわゆる「良い大人」に成長したのだろう。
 だが子供の頃から「良い子」とはどのような子供のことなのか、それになることができない自分は常々疑問を感じていた。親や先生の言うことを聞いて勉強にはげむ子供が「良い子」だろうか。実際、勉強ができて有名校に入学できる子供が「良い子」と言われていた。そうした子供が先生に褒められるのをみて、自分もそのようにならなければいけないのかと長い間思っていたのである。
 そうなると「良い子」は親や先生の思うとおりの子供になることを意味する。良い悪いの判断基準は先生の側にあって、子供はそれに従うしか選択肢がない。学校の先生が判定基準を持ち合わせる審判なのだ。だが、もし先生の判断基準が間違ったものだとすると、善し悪しの判断は怪しくなってくる。
 大阪の高校生が先生の体罰を苦にして自殺したことが問題になっている。先生が「駄目な奴」と判断して40発も殴った。これに対して亡くなった高校生は「僕は駄目な奴」との思いに悶々としていたことだろう。多分「僕は間違っていない」と思ったけれど、駄目だしされてそれを否定することができない。
 それゆえに先生や親の責任は重大である。「良い子」であるか否かを判断する側では、その判定基準によりいっそうの厳格さが要求されよう。しかし、現状はそれを未熟な人間に委ねられている。ここに問題の危うさがある。
 人間が行動するときの善悪の基準、道徳は厳密なものでなければならない。この点でカントはかなりきっちりしたことを言っている。良いこと、すなわち善行とは結果を想定して行動するものではい。利害から厳然と離れた道徳律として存在しているとした。何か魂胆があって「良いこと」をやってもそれは「良い」とは言われないのである。
 たとえば、善い行いをするとき、他人から「善人と評価されたい」という不純な動機があれば、それは良いこと、善とは言えない。「良い子になれば先生に褒められる」といった利益を想定したものであってはならないのだ。自分自身がただただ「良いことをしたい」という純粋に発意したものだけが道徳に叶った善をなしうるとカントは言っている。
 そうなると子供が「良い子」になるのはまずもって無理である。純粋な善意で行動するには、完成した理性が必要だからだ。私利私欲など一切入り込む余地のない神のような崇高な気持ちで自発的行う、それがカントがいう「良いこと das Gute 」である。しごきで高校生を死に追いやったバスケット部の先生など私憤を晴らしただけだから「良い悪い」を言う権限はない。人間はいつまでたっても未熟なままである。だからこそ「お前は駄目だ。良い子になりなさい」などと単純な判断で言っては「駄目」なのだ。
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「悪いことした子はお巡りさんに連れていかれるぞ」、と散々脅かされた子供時代の恐怖心が残っているのか、いまでも警察署の前を通るとなんとなく緊張する。子供に恐怖をちらつかせる教育の成果があって「善良な市民」に収まっているが、こうした脅しで生み出された「道徳」って本物の善といえるのか疑問である。
by Weltgeist | 2013-01-18 23:12


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