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言葉に出さなくても分かるかなぁ・・・ (No.1508 12/10/13)

言葉に出さなくても分かるかなぁ・・・ (No.1508 12/10/13)_d0151247_19583953.jpg 外国人に理解されにくい日本人の習慣として「阿吽(あうん)の呼吸」ということがある。わざわざ言葉に出さなくてもその場の雰囲気でお互いが了解する日本人独特のコミニュケーション法が奇異に見えるらしい。人に何かをプレゼントするとき「つまらない物ですが・・」と言って渡す日本人を見て、合理主義で育った外国人は首を傾げる。
 「なぜ日本人は思っていることをはっきり言わないのか」と疑問を持つのだ。哲学や論理学が生まれ育った国では、物事は明晰判明でなければならない。分かったようで分からない曖昧なことは国際社会では通用しないと思われているのである。
 外国では友達との会話から公式な会議まで、自分の言うべきことははっきり発言して相手が理解しているか確認することが普通の習慣として定着している。これは言葉の違いにも大きな原因があると考えられる。
 たとえばドイツ語、フランス語、英語などは、まず主語がきて動詞、目的語、いわゆるSVCとかSVOといった構文がしっかりしている。誰が、何を、どうしたのかがはっきりと分かる構造である。これに対して日本語はそうした構文が曖昧だ。主語も動詞も目的語も無い文章が平気で出てくる。それでいて意味が分かるのは日本人は言語の行間から醸し出すものを了解しているからだと言われている。主語や目的語が曖昧であっても分かってしまうのだ。
 もう一つ、日本では「一を聞いて十を知る」という言葉もある。これは才能のある人だけが持ちうる「阿吽の呼吸」である。しゃべってもいないことを、ちょっとしたニュアンスから読み取る。これができない人は日本ではKY、頭の悪い駄目男とされる。阿吽の呼吸は日本人の美徳として伝統的に育まれてきたものなのである。
 どうしてここまで阿吽の呼吸が日本で浸透したか。それは日本が島国で外国からの多様な文化を長い間受け入れなかったからではないだろうか。別々な個人であっても同じ日本人なら同質な人間として理解できるところがある。ところが多様な民族が入り交じる個人主義の外国ではこうはいかない。民族が違えば相手が何を考えどう動くか予測できないので、絶えず言葉を交わし確認する必要があるのだ。
 阿吽の呼吸は相手と信頼関係があって可能なのである。昔の武士たちは金銭の貸し借りで借用書を書くことを軽蔑していた。相手の信を裏切ることは武士の恥であったからだ。しかし、現代社会ではそうした信頼関係が失われている。契約書で細かいところまできっちり決める書類社会は、信頼性のない怪しい人が契約書でお互いの意志を確認しておく必要から生まれてきたものである。
 いまや複雑になりすぎた現代日本では、阿吽の呼吸は死語になりつつある。人々が多様になりすぎてお互いに何を考えているのか理解できないまでになっているからだ。島国鎖国状態から抜け出したグローバル化で日本は世界のスタンダードに近づいた。それが阿吽の呼吸を少なくなしてきたのである。
 代わって現代では強烈な自己主張をぶっつけてくる人が増えてきている。これが果たして良いことなのかどうか。アメリカのようにちょっとでも変なことがあったらすぐにクレームをし裁判にまで訴える人たち、自分のしつけの責任は棚にあげて学校に文句をつけてくるモンスターペアレント等々、世の中自己主張の氾濫でギスギスする一方である。
by Weltgeist | 2012-10-13 22:16


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