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ニーチェ・悲劇の誕生とミダス王の問い (No.1490 12/09/24)

 昨日、酒を飲む酔っ払いは嫌いだと書いた。古代ギリシャの哲学者、エンペドクレスは酔っ払った男を刑務所に送り込んだことに、彼は決断力のある政治家と小生は高い評価を与えておいた。きっとエンペドクレスは酒飲みが嫌いだったのだろう。ところが人の意見、考え方というのは多様なもので、酒飲みの酔っ払いを褒め称える哲学者もいる。ニーチェだ。彼は全てが陶酔の中で忘我状態になれる酒神・バッカスを賞賛している。バッカスとはギリシャ神話でディオニソスと言われた豊穣とブドウ酒と酩酊の神のローマでの呼び方である。
 ニーチェは最初のまとまった著作・「悲劇の誕生 / Die Geburt der Tragödie / 1872年)で、ギリシャ文明には芸術に代表されるアポロン的なものと恍惚状態で我を忘れるディオニソス的なものが混交していたと書いている。アポロン的とはギリシア神話におけるアポロ・太陽神のような明るく冷静で理性的、合理性があるものである。一方のディオニュソス的とは感情的、熱狂した陶酔状態のものであるという。ここでニーチェはディオニソス的、すなわちローマで言うところのバッカス、もっとはっきり言えば酔っ払いのように熱狂する人生を賞賛しているのである。だが、それは陽気な酔っぱらいの喧噪とは違う、かなり暗い人生観の吐露である。
 ギリシャ人にとって悲劇とは何か、それは人間が生きることの虚しさを知ってしまったことを意味する。ニーチェはリュディアの王、ミダスがディオニソスの従者シレノイに、「人間にとって最も善きこと、最もすぐれたことは何か」とたずねた神話のことを悲劇の誕生で書いている。いわゆる「ミダス王の問い」の答えは、次のようなものすごく絶望的な内容であった。
 シレノイはミダス王の問いに、最初は答えることをためらいながら、最後は次のように答えている。「聞かないほうがおん身ににとって一番ためになることをなぜおん身はむりに私にいわせようとするのか。もっとも善きことはおん身にとってまったく手が届かぬ。それは生まれなかったこと、存在しなかったこと、なにものでもないことなのだ。しかし、おん身にとって次善のことは、すぐ死ぬことだ」(悲劇の誕生、Ⅲ、阿部賀隆訳 ) と答える。
 一番善いことは生まれてこなかったこと、そして次ぎに善いことはすぐ死ぬことだ。なんという強烈なメッセージだろうか。ここにおいて人は生きていることの意味を失う。だからこそ人はバッカスに習って酒を飲み、我を忘れるしかない。一時の忘我で苦しみから逃避する。何事かに熱狂し我を忘れるしか救いがないのだ。こうして人間は悲劇の人生を送ることになるとニーチェは言うのである。
 人が生きることは苦しいことでもある。その苦しさを逃れるために人は酒を飲むのだ。だが最近は酒だけでは効果がないのか、もっと強烈に我を忘れさせる「薬」に頼る人が後を絶たない。覚醒剤などの麻薬で一時的に我を忘れても気がつけば状況は何も変わっていないのにだ。ニーチェの歩む道は虚しく、救いはないのである。

 ところで、これは上の文章と何の関係もないですが、ついにこのブログが1400回を迎えました。もうやめようやめようと何度も思いながらも、細々と書き続けたブログが1400回にもなったこと、ちょっと信じられません。もちろんまだ続け、次の目標、1500回を目指しますが、正直書いていることに疲れを感じるようになってきました。これからは毎日ではなく時々は休みながら進むことをお許しください。
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Michelangelo Merisi da Caravaggio / Bacchus / 1596 / Galleria degli Uffizi
カラバッジョ作、バッカス、ウフィッツィ美術館蔵。酒好きな酔っ払いで居酒屋でしばしば喧嘩をし、最後は人を殺してお尋ね者にまでなりはてたカラバッジョは、バッカスの絵を何枚も描いている。人と付き合うよりお酒と付き合う方がずっとマシと思ったカラバッジョにとってバッカスは心の友だったのかもしれない。

by Weltgeist | 2012-09-24 22:38


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