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エトムント・フッサール、1、現象学の定立 (No.1470 12/09/04)

エトムント・フッサール、1、現象学の定立 (No.1470 12/09/04)_d0151247_1953537.jpg まだこのブログを始めたばかりの2008年12月頃、「ファジーな真理」というテーマで、デカルトからハイデガーまで、哲学者たちが真理とはどのようなものと考えたのかを10回に分けて書いたことがある。始まりはデカルトだった。デカルトはあらゆる物事をすべて疑えと言った。しかし、全てを疑ってもそれを疑っている「私」を否定することはできない。考えている私がいなければ疑うことさえ存在できないからだ。かくして有名な「我れ思う、故に我れあり=ゴギト・エルゴ・スム」という言葉が生まれた。
 この言葉をスタートに近代哲学は目覚めて行くのだが、主観と客観とはこの後も長い間激しく対立し、真理の基準はいつも曖昧なものに終わっていった。その曖昧さを打破するものとして連載7回目にフッサールを取り上げた。しかし、あのときはわずか一回だけの記述で、自分としては非常に不十分な解説に終わってしまったという反省の気持ちがある。あんな短い文章でフッサールを説明すること自体が無理であった。だから、いつか時間をとって、もう一度フッサールについて書き直してみたいと思っていたのである。
 今回はその反省を含めて、3~4回くらいに分けて自分なりのフッサール理解を改めて紹介したいと思っている。しかし、こうした特殊な内容は多くの読者には不評であると推測される。記述も変に理屈っぽく面白くないものとなるから、つまらないと感じる人は、申し訳ありませんがこのスレッドが終わるまでスルーしてくださるようお願いいたします。

 さて、フッサールの提唱した「現象学」は、あらゆる事物を究極的に真理と基礎づける方法論を彼独特のやり方で追求したものである。通常、フッサールの思想は1900年「論理学研究」で現象学を打ち出した初期、1912年の「純粋現象学及び現象学的哲学のための諸考案、通称イデーン」を中心にした中期、「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」に集約される後期の三つに分けられている。
 そこで小生のフッサール理解もこの三つを柱に見ていきたい。今日は初期のフッサールが現象学をどのように考えついたかである。彼は最初数学者としてスタートし、1891年に「算術の哲学」という最初の著作を発表する。しかし、それが心理主義的と批判されたため、その批判の反論として1900年から01年にかけて「論理学研究」という大きな論文を発表。ここでフッサールはこれまで自分が依拠してきた心理主義を自己批判し、新たに「論理主義」へと転じる。
 だが、そこでもまだフッサールは哲学的基盤と言えるような確実性が欠如していると考えていた。この不確かさを確実なものにすると考えたのが「現象学的還元」である。彼はこの還元という方法でデカルトが言った疑わしきものでないもの、意識を対象とする「現象学」を確立していくのである。彼は1907年にゲッチンゲンで語った講義の中でこの還元について語っているが、その講義録はずっと後の1950年に「Die Idee der Phänomenolgie = 現象学の理念」(写真)というタイトルで発表された。この本で書かれた講義の時点でフッサールは、明確に現象学の方法を見つけたのである。
 「現象学の理念」の冒頭には「我々を悩ます様々な難題。たとえばそれ自体として存在する事象と認識との一致はいかにして確信されるのか。認識はいかにして事象そのものに的中するのか」(現象学の理念、長谷川宏訳、作品社、P3)という、デカルト以来の認識論の問題点を書いている。たとえば我々が「これは机です」と言った場合、その認識が本当に正しいのかはよく分からない。しかし、我々は机が我々の外に確実に存在することを知っている。だから私の認識が現実の机と的中すればそれは正しいとされる。だが、それで本当に的中することができるのだろうか。
 デカルトは全ての物事を疑ってかかれと言った。そして疑っている我、主観は確かに疑い得ないとされた。しかし、我々の外にある客観は本当に存在するのか、その疑問については答えられていない。なぜなら人は主観を出ることができないからだ。主観がとらえた客観についての検証で「認識と対象との関係について反省がよびおこされると、底知れぬ困難が立ち現れる。自然的思考にあってはまったく自明なことがらとされた認識が一挙に神秘の様相を呈してくる」(同書、P30)と問題点を提起してくるのである。
 「事物は知覚する私の目の前にあり、私はそれを見、とらえる。だが知覚は私の体験にすぎない。・・・主観的体験として認識する私は、客観として定立さるべき何かがそもそも存在するということを、わたしはどこで知り、どこで確信できるのか」(P32)客観的ではない私は、主観的という立場を抜け出して、いつしか客観的な対象を確かに存在していると決めつけているのではないか。我々はこうして客観は確実に存在していると「自然的に」思い込み、それを前提にして認識の確実性を論じている、というのがフッサールの最初の疑問である。
 そうなると「デカルトの懐疑的考察が思い起こされる。なにも確実ではなく一切が疑わしいと言うしか無い。懐疑主義の絶望におちいる」(P47)ことになり、認識の確実性は得られないことになる。主観は自分の認識が正しいかどうか客観を参照できないからだ。主観が客観を参照できない以上、世間で通用している科学、学問も基礎を欠いたものとならざるをえないのである。
 我々の外に机があるのは間違いなさそうだが、主観は自ら外に出てそれを確かめることはできない。もしかしたら机はないかもしれないのだ。疑いだせば答えに窮するのである。デカルト以来の主観、客観の対立は解決されないままなのだ。
 だが、今私が机を見て、その意識を持っていることだけは否定できない。その「意識表象」は絶対疑えない領域である。疑いえないその意識体験を「主観・客観」という対立関係とは離れて還元するのだ。これがフッサールのいう現象学的還元による解決策である。
 すべてを意識表象に還元して、その内を見ていくのである。認識が的中性を欠いた曖昧なものでも、「認識そのものは我々に絶対与えられる」(P48)ことは確かであるからだ。デカルトが絶対確かなものと考えたコギトと同じように「あらゆる知的体験とあらゆる体験一般は純粋な直観と把握対象となりうるし、この直観のうちに絶対的に与えられる」(P49)確かなものである、とフッサールは難しい言葉で言っている。要するに自分の中にある対象の直感は確実だから、これこそ手がかりにしていけると言うのである。これが現象学の出発点である。
 フッサールはかくして確実とされる我々の直観の所与を手にした。このあとやるべきことは「その本質、その構成、内的性格を引き出して、我々の話を完全な直観の明晰さに純粋に適合させる」(P50)こと、つまり「還元」して曖昧さの裏に隠された本質を引き出すことである。それこそ彼が「超越論的現象学」と呼ぶものである。ここから彼の現象学が始まるのである。

以下明日に続きます。
by Weltgeist | 2012-09-04 23:43


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