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アラン「幸福論」に見る幸福の定義 (No.1234 11/11/23)

幸福になりたいと思ったら、そのために努力しなければならない。無関心な傍観者の態度を決め込んで、ただ扉を開いて幸福が入るようにしているだけでは、入ってくるのは悲しみでしかない。
アラン、幸福論

 ブータンでは国民の97%が幸福と感じていると少し前に紹介した。日本人はブータン国民よりがずっと高額のお金を持ち、立派な家には便利な電化製品があふれ、おししい物も食べられるというのに、幸福と感じる人ははるかに少ない。何で日本よりブータンの方が幸福と思う人が多いのだろうか。
 そんなことを漠然と考えていたら、今日のNHKEテレ(旧教育テレビ)の100分 de 名著 という番組でアランの幸福論を取り上げていた。この番組は1回25分X4回=100分で一冊ずつ世界の名著を紹介するのだそうで、初めて見た番組である。今日見たのはアランの幸福論の第三回目で、明治大学の合田正人教授が解説していた。そのなかからとったのが上の言葉である。
 アランの幸福論については以前、 No.376 で書いたことがあるが、こんな古典的な本を現代人は読まないと思っていたら、NHKが4回にも渡って紹介するというのだから、やはり今も読まれている名著なのだと再認識した。(以下の引用は白水社、アラン著作集2、串田孫一、中村雄二郎共訳を使用)
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 アランの幸福の定義は冒頭の文章に典型的に表されている。幸福とは向こう側から飛び込んでくるもの、人からもらうものではない。自らが努力して造り出していくものとアランは言っている。「人間は意欲し、ものをつくり出すことによってのみ幸福」(P.142)は得られる。「人はよく社会ははなはだ不当だなどという。不当なのはその人の方だ。社会は何も要求しない人には何も与えはしない」(P.94)のである。自ら努力することを怠り、不幸の原因を社会や他人のせいにして文句ばかりいう人、そういう人は結局自ら幸福になれる道を放棄しているのだ。
 「登山家は自分の実力を発揮し、それを実証する。かれは自分の実力を感じると同時にそれを考慮する。この良質な喜びが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、同じ太陽を見ても違う」(P.143)ものでしかない。自らの努力でこそ幸福は生み出されていくものなのだ。他の人から見ればどんなに不幸に見えても、自分を信じてひたすら努力して行く人のところに幸福はやってくるのである。
 自分は不幸だと他人に言いまくる人がいる。辛い、悲しい、不幸だ、最低だ、こうした言動は自分から出て他人に伝染する。「一つの不幸は無数の不幸をあおりたて、一つの恐怖は無数の恐怖を野放しし」(P.188)最後は結局自分に跳ね返ってくる。逆に自分の幸福感を人にも分け与えれば、与えた幸福が自分に跳ね返ってくるのである。つまり「幸福であることは、他人にたいする義務」なのだ。幸福とは誰かが持って来てはくれるものではない。むしろ幸福はそうしたものを「求めなかった者たちのところへ突然やってくる報酬」なのである。
 自分が幸福であると感じればそれは他人にも伝染し、他人も幸福になる。自分は不幸だと思いたいときでも、そう考えないことが幸福になるやり方なのだ。アランは若い男が失恋して絶望したときの対処法について次のように書いている。「恋する女につれなくされた男は、ほかのことを考えようとしない。そして過ぎ去った幸福や、不実な女の文句なしの美しさ、彼女の裏切りや不幸などを思い起こす。みずから進んで自分をムチ打つ。しかし、せめて自分の不幸を他の見方から見るべきだろう。あんな女はもうみずみずしい若さのないつまらん女さ、とでも考えることだ。お婆さんになったその女との生活を想像してみることだ。それらは幸福なときは見逃していたが、悲しみのなかにあってはなぐさめとして役立つ」(PP.196-197)だろう。
 とまあ、こんな調子で幸福についてのアランの考え方が洒落た言葉で次から次へと出てくるのが「幸福論」である。本当はこの本を読むのがいいのだが、忙しい現代人にはそうした本を読む時間もないだろう。そうした人にはとりあえず来週水曜日のEテレ100分 de 名著を見ることをお勧めしたい。
by Weltgeist | 2011-11-23 23:53


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