昨日書いたようにフルトヴェングラーの「音と言葉」は彼がそれまで色々なところに発表した音楽論を一冊の本にまとめたものである。その最初の章「すべて偉大なものは単純である」は、彼が死んだ1954年に書かれた、いわば死の直前の遺稿といってもいいもので、ここにフルトヴェングラーの音楽論のほぼすべてのエッセンスが書かれていると言える。今回はこの章を中心に紹介をしたい。しかし、まずその前にお断りしておきたいのは、ドイツ語の原文を参照できないからあくまでも推測でしかないが、とにかく翻訳がひどすぎて分かりにくい日本語になっていることだ。そのため引用文では分かりにくいところには括弧で加筆したり、多少文章を分かりやすいように小生が手直ししてあることをご了承していただきたい。
さて、その初めのところでフルトヴェングラーは次のように書いている。「芸術家は創作することによって生きます。この”有限な”有機的な形体の中に”無限”な創造的な自然をもりこむ作品を次から次と創作することによって(です)。芸術家にとって必要なのは、一面においては”全体”のもつ恩寵(おんちょう)であり、直観であり、また他の一面においてはこの直観を生々とした、血にあふれた現実に盛り込む、作品の現実として閉じこめる強靱な力でなければなりません。 個々の作品の有つ芸術家の直観、むしろ実現を希求する、というより、彼の直観を感覚の上に表現しようと希求する真の芸術家の熱狂的な努力に対して、科学的な思考はただ限定された関心しか持っていません。・・・今日の音楽の生命を脅かす危機はどこにあるかといえば、一辺倒の科学的な思考だけが突如として、とめどもなくふくれあがってきて、その他の一切を犠牲にしてしまったということです」(新潮社、芳賀檀訳、PP.15-17) 最初から分かりにくい文章だが、フルトヴェングラーが言いたいのは、ベートーベンのような音楽家は一人の有限な存在にもかかわらず、優れた者にだけ特別に与えられた「恩寵」によって作品を無限な全体的なものに仕上げる偉大な存在である。こうしたことで作曲された作品は芸術家の持つ直観から生まれたものであって、科学的、論理的に頭で考えられたものではない。それは天才的な芸術家の全的な「直観・インスピレーション」から生まれたものなのだ。だから「以前は指揮者やピアニスト等の努力はただ徹頭徹尾偉大な作品をあらゆる豊かな生命をもって再現することに向かっていれば良かった。」(P.18)つまり演奏者は作曲者の直観を全身全霊で追体験する演奏をしていればそれで良かったのである。 しかし、それが20世紀の20~30年代頃から変わってしまった。「我々は個々の芸術作品を”体験”しようとはしません。それに我々の身を任せきってしまおうなどとはしなくなりました。それをただ”知識”とし、それによって支配(理解)しようとします。それはつまり科学の用いる方法」(PP.19~20)で聴くようになってしまったのである。 音楽の生命は一つの有機的な全体をなすものであるにもかかわらず、「今日の音楽界はもう個々の作品に徹することもその内容に沈潜することも要求しない」(P.20)「音楽の演奏に対する要求がまるで変わってきたのです。・・実に細かな細部に至るまで意識的になり、何か決められた形象(様式)とか方法に支配されている。そういうものが個々の作品に押しつけられるのですが、それは作品とはおよそ何のつながりもないのです」(P.22)作曲者そのものに立ち返ることをせず、「ベートーベンらしい」といった形にはめることばかりこだわったり、一方でこれまで誰も出せなかった解釈や音を出したりすることで斬新な演奏ができたと思う現代の演奏者をここで嘆いているのである。 「すべての作品自体がそれぞれ違った理想とする音調から出発している。そういうことも今日はもう考える人さえなくなりました。むしろその反対に人はすべてこれら千差万別の作品をいつも同じ一つ覚えの大げさな”様式にふさわしく”とか、"楽譜に忠実な”とかいうかけ声をもった演出でもってさっさと演奏をすませてしまう。まことに理論万歳で、その内容が愚劣で、幼稚であればあるほどいよいよ大衆に迎えられるものになる」(P.24)のである。そうしたことで「レコードやラジオを聴くことからはびこることになったあのはき違え歪められた音感、精神を喪失した、ただうわべだけをつくろう単純なきれいさ」(P.24)しかないものになってしまったのである。 フルトヴェングラーから見れば同時代の演奏家は「ベートーベンらしい」とか「ブラームスぽい」といった様式化にこだわった演奏ばかりしていると思っているのだ。むしろ作曲者が抱いた「恩寵、直観」を全的に追体験することこそ演奏者が目指すべきものだと言いたいのである。ここで言う「楽譜に忠実な」とはライバルであったトスカニーニへの当てつけだろう。また当時から録音にこだわり、「ただうわべだけをつくろうきれいな音」を出すことで今風な演奏スタイルを確立したカラヤンに対する警告の意味を込めたものともとれる。指揮台に立つフルトヴェングラーは、あらゆる先入観を排除して、ひたすら作曲者が曲を作った時に感じた「直観」を追体験し、聴衆の前に差し出そうとしたのである。 しかし、こうした演奏が現代に通用するかというと、それはたいへん難しい。今はフルトヴェングラーがあれほど反対した「科学的思考」全盛の時代だからだ。一回限りの再現不可能な生演奏ではなく、優れた録音技術で記録された美しい音をいつでも聴けて再現できる時代である。そうした立場からみればやはりフルトヴェングラーは時代遅れな指揮者として過去の人間となっているのである。 かっての名指揮者・フルトヴェングラーも時代の流れには勝てない。激安な百円ショップには、フルトヴェングラーの名演奏が百円のCDで売られていた。ベートーベンのヴァイオリン協奏曲のラベルにはVOL10とあるから、少なくとも10種類以上のフルベンCDがそれぞれ百円で売られているのだろう。このCD、思ったより録音状態は良くカーステに入れて聴くには十分である。
by Weltgeist
| 2011-09-19 23:07
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