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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、「音と言葉」その1 (No.1169 11/09/18)

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、「音と言葉」その1 (No.1169 11/09/18)_d0151247_1758827.jpg 20世紀を代表する指揮者は誰か。小生はその筆頭にヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler / 1886-1954年)をあげたい。恐らくこの評価に異論を唱える人は少ないだろう。ベルリンフィルを率いたこのドイツ人指揮者の演奏は他の誰よりもずば抜けていて、圧倒的な力に満ちていたからだ。とくに小生より以前の世代の人は、彼の演奏に強い感銘を受けているはずである。
 フルトヴェングラーは第二次大戦中に一時ナチに協力したことがあり、戦後しばらくは謹慎状態にあった。しかし、ハイデガーのようなナチにべったりの人ではなかった。1934年にはヒンデミットがマチアス・グリューネバルトを素材に作曲したオペラ「画家マチス」が「反ナチ的退廃音楽」と糾弾するナチとやり合い、彼らナチとは袂を分かっている。フルトヴェングラーはその後ドイツ国内のユダヤ人保護に力を貸して、最後はスイスに亡命しているのである。小生がクラシック音楽を聴き始めたころにはすでに謹慎が解け、LPレコードで彼の演奏も聴けるようになっていた。
 そのころのフルトヴェングラーは日本でも超人気な指揮者として「フルベン」の愛称で親しまれていた。印象に残っているのは、何と言ってもベートーベンとワーグナーで、とくに「第九交響曲合唱付き」はすごかった。
 まだ大学一年生(1961年)くらいのころ、東京高円寺の「犬が寝そべる名曲喫茶・ネルケン(寝る犬)」で彼が演奏したベートーベンの第九を初めて聴いた。録音の悪いこもったような音の演奏は重々しく、いかにもドイツ人らしい指揮の仕方だと思った。それがいよいよ「歓喜の歌」の合唱が始まる第四楽章に入り、330小節目のフェルマータ(休符)まで来たところで驚いてしまったのである。普通なら10~15秒ほどの休符で次の節に入っていくのが、いつまでたっても次ぎが始まらない。まるでもうここでベートーベンは終わりといっているかのような長い間合いに、当時の音質の悪いLPレコードの録音がうまくいかなかったのではないかと思ったほどである。
 フルトヴェングラーにすればこの休符の後にくる沈黙の中にもベートーベンの音の息吹があることを長い休符で伝えたかったのだろう。ここに彼の総譜(Partitur)に対する哲学的とも言える深い読み込み、解釈が端的に表れていたのだ。まだ若造だった小生はこうした常識破りの演奏に戸惑いながらも、何故か聴いているうちに「ベートーベン音楽の神髄」ともいえるところまで知らず知らずに引き込まれて行くのだった。つかみどころのないけれど激しい情念が曲全体を包んでいて、その中に入った人は夢遊病者のようにフルトヴェングラーの世界の虜(とりこ)にされてしまうのだ。
 
 フルトヴェングラーは今ではあまりに古典的すぎて、現代人には好まれない演奏家の部類に入っているかもしれない。しかし、それでも聴く人の心をグリグリにこね回して得体の知れない世界に迷い込ませる魅力は今でも残っている。そうしたフルトヴェングラーの秘密がどこにあるのか。「音と言葉」(Ton und Wort / 1956年) はフルトヴェングラーが様々な雑誌に寄稿したものや講演会で語ったものを彼の没後にまとめた本の翻訳である。ここに書かれているのは、フルトヴェングラーが語る音楽及び音楽家論であり、彼がそれをどのように考えていたのか書かれているのである。

本論に入る前にイントロが長くなりすぎたため、「音と言葉」の本題については明日続けて書きます。
by Weltgeist | 2011-09-18 20:41


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