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生類憐れみの令と生命の尊厳 (No.1145 11/08/25)

 夢枕獏さんの最新小説「大江戸釣客伝」で江戸幕府五代将軍徳川綱吉が発布した「生類憐(しょうるいあわ)れみの令」で釣りを禁じられた釣り好きな人達の困惑ぶりを昨日書いた。愛犬家だった綱吉は世間の人が犬を虐待するのに我慢がならず、生類憐れみの令で「犬をいじめてはならん」と言いたかったのだろう。しかし、犬は駄目でも猫はいいのか、鳥は? 魚は? とエスカレートして、ついには魚をいじめる釣りなどとんでもないというところまで行ってしまったようだ。
 おそらく最初は軽い気持ちで始めたお犬様保護運動が、成り行きで前代未聞の悪法となってしまった。しかし、犬猫をいじめるのはともかく、牛、馬、鳥、魚を殺すのもいけないとなると、これは行きすぎだ。 生きているものを何から何まで殺してはならないとなれば、人間の生活が立ち行かなくなる。人間も含めてこの世に住む生き物は互いに他の生き物を食うことでしか生きられないからだ。それが生き物の世界の宿命であり摂理なのだ。
 生命の尊厳を唱えたアルバート・シュバイツアーは、腕に止まって血を吸っている蚊を殺すことに躊躇し、薬でばい菌やウイルスを殺すのは人間の罪だと考えるようになったという。腕に止まった蚊はともかく、人間の体を冒す病原菌は殺さなければ、人間の方が死んでしまう。生命の尊厳で両方の命を助けることはできない。シュバイツアーは解決不能な矛盾に陥って悩んでいるのだ。だから無限の食物連鎖で構成された世界の現実を「罪」ととらえるしかなかったのである。
 この世に生まれ出てきたものの命はいずれも大切なものとして尊厳されなければならないというのはシュバイツアーの言う通りである。人間であろうと、蚊であろうと命という点では等価値である。どちらの方が大切かと考えることではない。しかし、それにも関わらず我々が生きていくうえでは他の生命を殺し、食べることを止めることはできない。人間が生きるためには他の生物を食べていくしかないのだ。その意味で血となり肉として死んでいった生物には感謝しなければ罰が当たる。生命の尊厳とはそういうことと小生は理解している。
 ところが、これが釣りとなると、少し違ってくる。釣りはハリを隠した餌を魚に食わせ、掛かったらその引きを十分堪能してから釣り上げる。この一連の動作が釣りの醍醐味である。それは魚にとってたいへんな恐怖だろう。そうして、釣り上げられたあとは殺され、食べられてしまう。つまり完全に生き物をなぶり殺して楽しんでいるのだ。そのことに釣り人自身が気がつかないどころか、喜びを感じているのである。
 しかし、現代においては釣りに「生き物の虐待だ」と非難を浴びせる人はほとんどいない。なぜだか分からないが、社会的にも釣りの権利は認められていると言っていい。ところが、同じようなことをやっている昆虫採集に世間は非常に厳しい目を向けている。小生も蝶を採って殺すなんてとんでもないという非難をこの数年の間に何度か浴びたことがある。
 釣りは良くて蝶は許せないという論理に納得できないものを感じるが、最近はそうしたことを言われると、反論もせずに静かに退却するようにしている。単純にしか物事を考えられない人に反論するのも面倒だからである。
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このくらいのサイズのマダイが掛かると釣り上げるまでに相当スリリングなファイトが楽しめる。釣り人は興奮し、最後に取り込まれたところで幸福の絶頂にまで登り詰める。だが、これが釣られたマダイの立場になって見ると状況は逆で、ひどい恐怖を味わった末に最後は殺されてしまう。人間とは実に残酷な存在なのだ。
by Weltgeist | 2011-08-25 23:53


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