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メルキオール・ブルーデルラム、「シャンモル修道院祭壇画」、最終回 (No.1104 11/06/26)

d0151247_22363329.jpg メルキオール・ブルーデルラムの「シャンモル修道院祭壇画」について三日間にわたって書いてきたが、今日がその最終日である。
 シャンモル修道院祭壇画が描かれたのは西暦1393-1399年頃と言われている。西洋ではフランスとイギリスが百年戦争(1337~1453年)をやっていた時代だ。当時のフランドル地方はフランス側についたりイングランド側についたりする戦争の荒波のまっただ中で、王様はしばしば殺されたり、隠謀で交代させられた厳しい動乱の時代であった。同じ頃、日本は室町幕府(1336~1573年)足利義満の時代である。
 そんな世の中が騒然とした時代に、シャンモル修道院は当時ブルゴーニュ公国の首都だったディジョン郊外にフィリップ豪勇公(ブルゴーニュ公)がブルゴーニュ公爵家の墓所として建設したものである。着工は1383年で、1388年には主要な建造物がほぼ完成したという。ここの修道院にはふんだんなお金がかけられ、当時の普通の修道院は12人の修道士なのに対し、24人もの修道士を抱え、内部は様々な美術品で贅沢に飾られていたらしい。日本でも24人もの坊さんを抱えたお寺は相当大きな寺である。そこまでしたシャンモル修道院がいかに豪華でお金を掛けていたかが分かる。
 ブルーデルラムは1391年にフィリップ豪勇公の宮廷画家になっていて、修道院のためにせっせと作品を描かされていたことだろう。彼は豪勇公のあと、後継者となった長男のジャン1世(無怖公)にも引き続き仕えたが、1409年を最後にブルゴーニュ公家の記録からは姿を消しておりその後の消息は伝わっていないという。
 とここまでは分かったが、ここからはシャンモル祭壇画を見ての小生の推測の話である。この祭壇画が当時の美術界での最高水準を持つ傑作であるのは間違いないが、昨日も書いたように、これが聖書のイエス伝を表現したものだとすると、まずベツレヘムでの誕生と、羊飼い又は東方三博士の礼拝が欠落しているのは不思議である。
 また、イエスがエジプトに逃亡したところで終わっているのも中途半端だ。そもそもイエスのような聖者がエジプトに逃げたところで物語りを終えるのは、画家の仕事としても納得できないであろう。イエスが活躍する肝心の場面が出てこないのは前菜だけでメインがないディナーのようなものである。ブルーデルラムは多分、この祭壇画を一連の連作のスタートと考えたのではないかと思うのだ。つまり、エジプトから戻ると数々の奇蹟を起こし、十字架に架けられて最後は復活するまでの壮大ストーリーを描く構想を持っていたと考えられるのである。
 現在ブルーデルラムの真筆として残っているのは、この祭壇画しかないが、昔はもっとイエス伝を描いた作品があったたと考えるのが自然である。実際、フランス革命後の共和国政府はシャンモル修道院の美術品を破壊したり、略奪した記録が残っている。ブルーデルラムがこの祭壇画一点しか仕事をしなかったとは思えない。もちろん、これは古典美術に素人な小生の推測にすぎないのだが・・・・。

d0151247_23162776.jpg シャンモル修道院祭壇画があるディジョンはパリから310㎞、パリ・リヨン駅からTGVで1時間40分で行くことができる。パリを朝一番のTGVで出れば十分日帰りは可能である。ここの名産はディジョン・マスタード。町の中には専門店が沢山あり、様々なマスタードが売られていておみやげにもピッタリである。祭壇画のあるディジョン市立美術館は入場無料。ロベール・カンパンのキリスト降誕や、クラウス・スリューテルのフィリップ豪勇公の墓碑彫刻(も見ることができる。また、シャンモル修道院で「モーセの井戸」を見たり、ボーヌまで足を伸ばしてロヒール・ファン・デル・ウエイデンの最後の審判を見学できればパーフェクトなプチ旅行が堪能できるだろう。

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by weltgeist | 2011-06-26 23:24


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