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美とは何ぞや (No.1100 11/06/22)

美とは何ぞや (No.1100 11/06/22)_d0151247_2049947.jpg 左の写真はボルネオ島コタキナバルで撮った地元の踊り子である。この女性を美しいと思うか、そうではないと思うかは人様ざまだろう。小生は美しい女性と思ったからシャッターを押したが、「こんな整形女のどこが美しいのか。お前の審美眼はおかしい」と言われるかもしれない。
 「蓼食う虫も好き好き」と言われるように、美とは非常に主観的なものである。これだという決まりはないと言っていいかもしれない。ある女性を美しいかどうかアンケートをとれば、百人百葉の答えが返ってくるだろう。誰が見てもあの人は美人だというような人でも100%の評価はない。どんなにきれいな女優さんでも「駄目だ」と評価する人はいる。好みが違えばお眼鏡に叶わないのである。
 これは自然の美でも同じである。今を盛りに咲きそろっている花菖蒲を多くの人は美しいと思うだろうが、それでも100%ではない。朝焼けに輝く富士山を見ても感激しない人がいる。芸術はどうだろうか。レンブラントの「夜警」は彼の最高傑作と言われているが、小生は評価していない。ピカソを小生は高く評価するが、彼を駄目という人は数限りなくいる。
 美とはこのように非常に曖昧で、絶対的なものはないと言えるのかもしれない。そんな曖昧な美の概念を哲学者はどう考えているのだろうか。カントは彼の第三批判書、判断力批判( Kritik der Urteilskraft / 1790 ) の中で、美とは「趣味がある対象を利害に関わりなく判断したとき、満足が得られるもの」と言っている。美とは趣味の判断であり、厳密な認識の妥当性を追求する客観的な認識判断ではないことになる。この場合の趣味とは感性(構想力)で感じたものと悟性の概念がマッチしたときに偶然に美しいと感じることである。
 とすれば美は対象にあるのではなく、人間の悟性、理性の中にあることになる。これを押しすすめたのがヘーゲルだ。彼は美学講義 ( Vorlesungen über die Ästhetik / 1835-1838 ) の冒頭で、芸術美こそ優れたもので、自然美は程度の低い物と述べている。「芸術美は精神から生まれたものであるから、自然美より高級なものである。精神が自然よりはるかに高いだけ、それだけその所産ははるかに高く、芸術の所産もそうである。従って芸術美は自然美よりはるかに高いのである。」(岩波書店、ヘーゲル全集18a、「美学」第一巻の上、竹内敏雄訳)と言う。
 花菖蒲は確かに美しい。しかし、それはある季節にだけ開花するものであって永遠の美とは言い難い。美は精神が発露したものであるが、自然のなかにある精神は低い段階にすぎない。「芸術美と自然美の関係は単なる量的差別の意味に解すべきではない。・・・精神的なものこそ真実なものである。存在するものは、この精神性を有する点においてのみ存在するのである。自然美はかくして精神の反映である。自然美はその高級な分子たる精神にあずかる点においてのみ美なのである。」( P.5 )
 カントにとってもヘーゲルにとっても美は精神の反映であるとされた。ここで言われる精神とはそれでは何か。それは自ら思う働きであろう。美は「私が美しいと思うから美しいのだ」ということである。とすれば、「蓼食う虫も好き好き」は十分その正当性を得ることができる。
 「あんなブスの女を彼女にして」という批判は意味がない。本人が最高の美人と思えばそれでもう十分なのである。
 ちなみに美学はドイツ語でÄsthetik=エステーティック、英語でAesthetic、いまはやりのエステサロンはこれから来た言葉である。
by weltgeist | 2011-06-22 23:12


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