人気ブログランキング |

オマル・ハイヤーム、ルバーイヤート (No.908 10/12/04)

d0151247_2071197.jpg一生を、よき友と穏やかに過ごしても、
一生を、この世の栄華のうちに送っても、
とどのつまりは旅立つ身、
なにを見たとて、一生は夢にすぎぬ。          (ルバーイヤート・17)


 昨日まで書いていた良寛の辞世の句、「散る桜 残る桜も 散る桜。」とどこか通じるものがある気がする上の詩は、11世紀から12世紀にペルシャ(現在のイラン)で活躍した詩人、オマル・ハイヤームが書いた「ルバーイヤート」の中にある四行詩の一つである。ルバイヤートとはペルシア語で「四行詩」を意味する「ルバーイイ」の複数形で、「四行詩集」(ウイッキペディア)という意味である。
 ルバーイヤートを最初に読んだのは18歳の時である。だが、若くてまだ前途に希望を持っていた小生は、この四行詩集を読んで、あまり感銘を受けなかった。というか作者の気持ちが理解できなかったのである。それが人生を総括できる年齢になった今、この本を再び読むとオマル・ハイヤームが言っている意味がストレートに分かる気がしてきている。
 それで今日はこのルバーイヤート(テキストは平凡社ライブラリー版、岡田恵美子訳を使用)を取り上げてみたいが、今回はいつものように小生のくどくどした解説、いや怪説することは止めて、ハイヤームが語る詩のいくつかをそのまま紹介したいと思う。
 ただ、読むに当たって、イスラム教徒の生死観をあらかじめ頭の隅に置いておくと、理解の助けになるかもしれない。イスラムでは人は神が土をこねくり回した粘度から造られもので、死ぬとまた土に帰り、その土が次の生命の肉体になるという天地創造の思想がある。ハイヤームにとって土は神聖なものである。だから壺や盃にしてもそれは過去の死んだ人の生まれ変わりかもしれないと思っているのである。詩の中で土とか壺、盃などの言葉がしばしば出てくるときは、それを造った神について語っているのだと思えばいい。


われらが消えても、永遠に世はつづき、
われらの生の痕跡も、名ものこりはしまい。
られらが生まれるまえ、この世に欠けたものはなにもなく、
われらの死後、なんの変化もない。                        (ルバーイヤート・42)

われらが来て、立ち去っていくこの世には、
始まりも終わりも見えはしない
ここでは誰ひとり正しくいえる者はいない、
どこから来て、どこへ行くかと。                           (ルバーイヤート・9)

見よ、バラは朝風に裾をほころばせ、
その美しさに、鶯はたわむれとびかう。
バラの陰にすわるがよい。そのバラたちは、
土から咲き出て、また土にかえっていくもの。                   (ルバーイヤート・51)

なんの害もないその酒壺から、
盃についで飲め。おれにも一杯酌め、
さあ、若者よ、この流転の道で壺造りが、
おれたちの土から壺を造らぬうちに。                        (ルバーイヤート・57)

この壺もわたしのよう、嘆き悲しむ恋をして、
その昔、美女の黒髪にとらわれた身。
壺の首もとの把手を見てごらん、
恋する女の首に絡んだ腕なのだ。                          (ルバーイヤート・60)

死んだら酒で湯燗(かん)してくれ。
美酒を供えて、死者の祈りをしてくれ。
最後の審判の日におれに会いたかったら、
酒場の戸口で、土になっているおれを見つけてくれ。               (ルバーイヤート・64)

わたしが来たからとて、それでこの世がよくなったのか。
立ち去るからとて、それでこの世に輝きが増すのか。
この耳はだれの口からも聞きはしなかった。
わたしがなぜこの世に来て、そして立ち去っていくのかを。            (ルバーイヤート・2)

生とは何かを知る魂なら、
死、この最高の謎をも知っていよう。
己が身の中にいる今、お前は何も分からぬのに、
己が身の外に出た明日、お前に何がわかるというのか。              (ルバーイヤート・4)

大初の神秘を、お前もわたしも知りはしない。
その謎は、これから先も解けぬであろう。
この世の垂れ幕のこちら側でいかに語りあおうと、
幕がおちれば、われらはもうこの世にはいない。                   (ルバーイヤート・6)

創造主が自然の万象をつくりあげたとき、
なぜそこに、欠如し破損したものを入れたのか。
もし美しいものであったなら、なぜそれを壊すのか、
もし見事な形でなかったのなら、それは誰の咎(とが)。              (ルバーイヤート・10)

迷いの道から信仰まで、ただの一瞬、
疑惑の世界から確信まで、ただの一瞬、
かくも尊い一瞬を楽しむようにせよ、
この一瞬のうちにこそ、われらの人生の結晶がある。                (ルバーイヤート・78)


 皆さんはこの詩を読んでどう感じたろうか。18歳の時の小生はハイヤームの心の微妙なひだまで読むことができなかった。だが、今はとてもよくわかる。ただ、昨日まで読んでいた良寛に比べて、イスラム教徒はなんと刹那的な人生を送っていたのかと思ってしまう。神が土から人間を造ってこの世に送り込んだにしても、最後はそれを壊して元の土に返す。ここにはアラーの神の絶大なる力があり、人はその運命には逆らえない。
 死んだ先には天国があるのか、それとも地獄があるのか。そちら側に行って戻ってきた人はいないのだから、そんなことは何も分からない。とにかくこの世に生まれた以上、短い人生の間を目一杯楽しもうではないか。ハイヤームはそう歌っているのだ。昨日の良寛とも、またキリスト教徒・聖フランチェスカとも違った人生の生き方である。ハイヤームの人生は徹底した個人主義で、他者には出会わない。他者への奉仕を忘れたハイヤームに救いの道が閉ざされているのは当然と思えてならないのだ。
by weltgeist | 2010-12-04 21:40


<< 環境美化とはしょせん人間様の勝... 良寛和尚、その4、散る桜 残る... >>