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良寛和尚、その2、無一物の思想 (No.905 10/12/01)

d0151247_2031023.jpg 出雲崎の名主の息子に生まれ、家を継いでいれば安定した生活ができたはずの良寛が、なぜそれを望まず出家して僧になったのか。それも風来坊のような乞食僧になる道を選んだのはなぜだろうか。晩年には長岡藩主である牧野忠精が直々に五合庵まで来て、長岡に寺を建ててお迎えするからと、請願したのさえ断っているのである。なぜそこまで自分に厳しくしたのか。良寛は自分の心境を次のように書いている。
 
無欲一切足      欲なければ一切足り
有求万事窮      求むる有りて万事窮す。


 欲があるかぎりいつまでたっても人は満足できない。欲しいと思う気持ちには限りがなく、足るを知ることができないから、最後は行き詰まる。欲に走れば万事窮すると良寛は信じているのだ。だから何も欲しがらない、何も望まない。ただ与えられた自分をそのまま満足して受け入れるというのである。
 だが、人間から欲望をすべてそぎ落とすことなどできるのだろうか。むしろ欲望があるからこそそれを充足できたときの喜びもある。人間がここまで進歩してきたのも欲望があったからではないか。欲望を否定することは人間であることの否定でもある。赤貧に甘んじ、我慢することは人間本来の姿ではないのだ。また人はむしろ他人と比較し、彼を羨ましがると共に、劣っていることを自覚するから自分を磨くことができるのである。
 こう信じて人はこれまでの社会を築いてきた。欲望は人間の原動力である。だから人がストレスに悩まされることは人間にとっては不可欠なもので仕方がないのだ。だが、良寛はそれを追い求めることは結局人を不幸にするだけだと信じているのである。その意味で良寛がいうことが正しいとすれば、人間には救いがないことになる。地獄のような劫火に焼き尽くされる苦悩に満ちた存在、それが人間の真実の姿ということになるのである。
 良寛は人間が欲望にとらわれている限り救いはないと信じた。彼は「無一物になっても足りる」という貧の生活でそれを乗り越えたのである。それは昨日書いた「学道の人はまず須(すべから)く貧なるべし。財におぼれれば必ずその志を失う」という道元の教えを深く信じ、参禅することで欲望を徹底的にそぎ落とした無一物の世界に至ったのである。
 だが、それは簡単な道のりではない。人間の欲望は限りがなく、否定しても否定しても次々とわき起こる。人間である限り欲望を消し去ることなどできない。良寛は強い信念を持ってそれを乗り越えたのである。「無一物の暮らしとは、人がよほど強い意志を持ってそれを心掛けぬかぎり保持することはむずかしい。棄てるという行為を可能にするのは意志あるのみ、人間は放っておけばたちまち欲望の跳梁する所となる」(中野孝次著、風の良寛、集英社刊、P.146 ) からだ。
 欲望、禅の言葉で言えば煩悩を棄てて、無の境地に至ることは、決して棚ぼた的に自然にやってきたものではない。身心脱落して無の境地に至るには不断に自分との闘いをして初めて得られるのだ。逆説的だが欲望は人間が乗り越えなければならない試練、障壁として必要なものなのである。だから自分を無にするとは、そうした試練を乗り越える自分を徹底的に強くしていくことであるのだ。弱い者として自己否定することではない。自分が無になるとは、実は完全な意味での「自分」が確立することである。自分が無となることで初めて「自己」も「他者」もが立ってくるのだ。自己が他者になり、その区別がなくなる。鏡のように無心な自分の中に、外の世界がそのまま輝いてくるのである。

以下明日に続く。

by weltgeist | 2010-12-01 23:47


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