二階のベランダで洗濯物を干していた妻が、道の向こう側で何か異変があることに気づいて、騒ぎ出した。杖代わりに老人が使う手押しのシルバーカーの脇でおばあさんがうずくまっていて動かないのだ。すぐに妻が飛び出して行く。それまで本を読んでいた小生も慌てて出て行くと、すでにご近所の人が数名、おばあさんの様子を心配そうに見ていた。おばあさんの意識はあるようで、必死の顔をしてシルバーカーにつかまって立ち上がろうとしている。しかし、力が入らないのか、立ち上がることは出来ない。
シルバーカーは、支えなしに歩けない人のための補助道具である。おばあさんはわが家の前までそれを使って何とか歩いてきたようだ。ところがここまで来て何らかの体の不調、恐らくは発作のようなものが襲って動けなくなったのだろう。でもシルバーカーで歩いて来た程度だから、それほど遠くとも思えない。きっと近所の人に違いないと、「おばあさんはどこの人ですか」とか「家はどこなの」と周りの人が聞くが、返事がない。口もきけないほど弱っているようだ。 この暑さのなかそんな人をいつまでも放っておくとたいへんなことになると、携帯電話で救急車を呼ぼうとしていたら、80歳くらいのおじいさんが急ぎ足でこちらにやって来て「すみません、すみません、このまま家に連れて帰ります」と言い出した。どうやらおばあさんのご主人のようで心配して探しにきたらしい。 彼に「家はどこですか」と聞くと、ここから300mは離れていると言う。おばあさんの歩き具合から見て、よくぞそんな距離を歩けたと言えるほど遠い。だんなさんは、このまま家まで時間をかけて歩かせるというが、もうおばあさんは疲れ切っているようで、一歩も歩けないように見えた。 機転を利かせた妻がすぐに車を出して、おばあさんとおじいさんを乗せて、家まで運んだ。家に着き、ピンポンを押したが誰も出て来ない。おじいさんが「誰もいないのです」と言いながらドアの鍵を開けた。とても大きな一軒家だったがこの家はおじいさんとおばあさんの二人暮らしで、他には人がいないようだった。 別れ際におじいさんは「注意していても、黙って出て行って徘徊するんです」と言って困惑した顔をしていた。おばあさんは消え入りそうな小さな声で「ありがとう」と言ったが、こんな体でも、スキをみては家を出てしまうらしい。そしてそのつど近所を必死になって探すおじいさんの姿を想像し、自分の行く末を見る思いがした。 世の中にはこのような誰にも看取られなくひっそりと暮らしている人たちが沢山いることだろう。助けを求めながら、誰にも助けられず、孤独な中で亡くなって行く人もいる。それにくらべればこのおばあさんには、まだおじいさんが付いている。しかし、それとていつまで続くか分からない。不謹慎な言い方かもしれないが、おじいさんが亡くなれば、このおばあさんは生きていく術(すべ)を失うことだろう。 このおばあさんだって、若い頃があったはずである。若い娘時代はピチピチした肌で、体は健康そのもの、どんなにハードなことをやっても疲れなど感じない時代があったはずだ。しかし、それでも人は年老いていくのだ。体はがたがたになり、まともに動くこともままならない。頭はボケが始まり、最後は何も分からないまで痴呆が進み、死を迎える。これが人間の一生なのだ。 現在の小生は67歳。まだまだ時間はあるようにも見える。しかし、遅かれ早かれおばあさんと同じ立場になっていくことだろう。 うずくまっていたおばあさんは、小生から見ると気の毒な人である。しかし、別な視点、今にも死にかかった臨終直前の人から見ればなお「生きている」というアドバンテージがある幸福な人なのだ。生きている限り、人は幸福であり、そのことに率直に感謝すべきではないかと小生は、おばあさんを見て思った。 翌日、そのおばあさんの家の前を車で通ったら、昨日おばあさんが着ていた服が洗濯されて物干しに吊る下げられているのが見えた。きっとおじいさんが、おばあさんの汚れ物を洗濯してあげたのだろう。おばあさんが家から飛び出て徘徊するのではないかと、注意しながら慣れない手つきで洗濯機を操作しているおじいさんの姿を想像して、「明日はわが身」と身に積まされるような思いがしたのである。
by weltgeist
| 2010-07-20 21:31
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