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先頭走者の孤独 (No.723 10/05/12)

わたしは光だ。ああ、わたしが夜だったらいいのに。しかし、わたしの孤独は、わたしが光にとり囲まれているということ。ああ、わたしが暗くて、夜めいたものだったらいいのに、そうしたら、わたしはどんなに夜の乳房を吸うことだろう。
フリードリッヒ・ニーチェ 「ツアラトストラはかく語った」9、夜の歌


 最近、日本の物造りが危ういと言われている。韓国、中国の製造業に追い上げられ、このままでは日本は駄目になるのではないかという危機感が蔓延しているようだ。少し前は韓国、今は中国の怒濤のような力に圧倒されている感がある。だが、やっていることをよく見ると大半が先進国の物真似で、まだ真に先頭を走る画期的な製品を作れる段階までは行っていないと思われる。もちろん、彼らの潜在的な力を見ればいずれ日本を追い抜いて行くかもしれないが。
 昭和30年代頃の日本はまさに今の中国と同じで、よそ様(欧米)が作った物をちゃっかり真似て、せっせと稼いでいた。偽物天国と言われようが、鉄面皮に人の物真似をし、いつしか日本独自の物を作っていったのだ。そうした歴史を振り返ると、物真似、偽物天国の中国が日本やアメリカを追い越して、トップランナーの牽引役を担う時がくることことも遠い時期ではないかもしれない。
 だが、もし先頭に立ったとすれば、トップランナーとしての悩みが出てくる。先の見えない真っ暗闇の中に自分が進むべき道をはっきりと示し、誰もがなし得なかった「本物」を自信を持って造りだす能力を持って初めてトップと言えるのだ。先頭走者のゼッケンを見ながらついて行くだけの気楽な追随者、エピゴーネンとは違う厳しい現実に直面しなければならないことになるのである。
 コロンブスの卵、ニュートンの引力など、後になれば誰でも分かることである。しかし、それを最初に見つけるのが先頭走者の役割なのだ。人の物真似ばかりで終始する会社は、そこそこのところまで行っても、真似した会社を追い越すことは出来ない。先頭走者と肩が並ぶところまで来るのはたいへんかもしれないが、そこから先を走る能力がない者は挫折する。先頭走者は物真似屋とは比較にならないほど独創的な創造力と知見が要求されるのだ。追い越した者の前には、地図もなければ道路標識も信号もない。無限に広がる真っ暗闇の原野を自らの光で照らしながら、道を造って行くしかないのである。先頭として露払いをしながら猛烈に突き進むことが宿命づけられるのだ。そして振り返れば、それを真似て必死についてくる後続の鼻息がすぐ後ろに迫っている。追い越した者は今度は自分が真似され、追われる立場に逆転するのである。
 それは企業だけでなく、個人の場合も言える。世の中には凡人の能力を飛び越した天才が沢山いる。天才は誰もが届かなかった高みまで登り詰めているから、彼の仕事を助けるお手本もない。ただ、自らの力で独自の世界を切り開いていくしかないのだ。しかし、真に能力のある先頭走者、天才はそんなお手本を真似する必要などまったくない。むしろまだ誰も歩いたことのない処女地に自らの足跡を記すことに嬉々としながら歩む光栄をも得るのだ。
 ニーチェが「ツアラトストラはかく語った」で言うのは、そうした天才、高みに上り詰めた超人の孤独である。真っ暗な天空の中に光り輝く超人の姿はニーチェそのものである。それは誰にも近づき得ない輝かしい栄光でもある。しかし、それだけに苦しく孤独なものなのだ。彼は凡人が潜む夜の気楽さを思い、「わたしが夜めいたものだったらいいのに」と弱気なことをいいながらも、常に先頭走者を走らなければならない孤独感に苛(さいな)まれ、最後は狂気の中で溺れて行くのである。
先頭走者の孤独 (No.723 10/05/12)_d0151247_21163125.jpg
永遠の美女、ビーナス誕生を描いたボッティチェリもまた誰もが追いつけない高みまで登り詰めた天才の一人だ。フィレンツェにあるこの絵は、描かれてから500年以上経過しているのに、いまだにこれを追い越す者が出ていない。彼は恐るべき天才と言えよう。
by weltgeist | 2010-05-12 23:55


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