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西田幾多郎(にしだ きたろう)の無、最終回、絶対矛盾的自己同一 (No.662 10/03/04)

 いよいよ今回で、このスレッドも最終回を迎える。とにかく西田の言ってることは、メチャ難しくて、読んでいる方も頭が混乱してくる。このブログを読まれている人も「こんなへんちくりんな話」は早く終わってくれないかと思っていることだろう。実は今日で不気味な西田沼からはい出せると思って小生もホッとしているのである。

 さて、西田の思索は純粋経験から自覚を経て、場所、それも無の場所というところまでやって来た。この後に出てくるのは絶対無と絶対矛盾的自己同一である。絶対無について西田は次のように書いている。
 
絶対無の自覚といへば、絶対に無なるものが如何にして自覚するかなどといはれるかも知らぬが、私の絶対無といふのは単に何物もないといふ意味ではない。我々の自覚といふのは自己が自己に於いて見るといふことである。しかも自己として何物かが見られるかぎり、それは真の自己ではない、自己自身が見られなくなる時、即ち無にして自己自身を限定すると考へられる時、真の自己を見るのである。即ち真に自覚するのである。かかる意味に於いて絶対に無にして自己自身を限定するのを絶対無の自覚といふのである。そこに我々は真の自己を見るのである。」(西田幾多郎全集第六巻、「私の絶対無の自覚的限定といふもの」6-117)

d0151247_1422565.jpg いきなり何の予備知識も無しに上の文章を読んでもきっとチンプンカンプンであろう。自覚とは自己が自己を見ることだという。ここまでは従来の言い方だからいい。問題は次の「自己として何物かが見られるかぎり、それは真の自己ではない、自己自身が見られなくなる時、即ち無にして自己自身を限定すると考へられる時、真の自己を見るのである」という言葉の意味だ。
 ここで以前、道元の座禅法、只管打座について書いたことを思いだしていただきたい。道元の禅はもちろん、自己が自己を見ることで、真の自己(道元の場合は仏)を見ることを目指す。しかし、そのとき、「真の仏を見たい」という思いをも捨て去った全くの無心にならないと、それは見えてこないものであった。自分が座禅していることさえ思わない無心、それと同じことを西田は考えているのだ。そのような自分自身を完全に「無」としたときに真の自己が見えてくるのである。「自己自身が見られなくなる時、つまり自己を無にして自己自身を限定する時、そこに我々は真の自己を見るのである」と言うのはそのような意味である。
 この時点において西田の考えは「おのれが無になれば真理が見えてくる」という禅の思想と非常に近いところにある。しかし、両者には越えられない溝がある。禅の真理は言葉や思索でとらえられないことだ。むしろそうしたものを放棄したときに得られるのに、西田は思索を極限まで進めていく。絶対無などという言葉をいわれても、蚊帳の外にいる我々にはそれがどんなものかさっぱり分からない。だが、西田はそれをあえて哲学として成立すべく、さらに思索を続けていく。
我々の自己の底には何処までも自己を越えたものがある。しかもそれは単に自己に他なるものではない。自己の外にあるものではない。そこに我々の自己の矛盾がある。此に我々は自己の在処に迷う。しかも我々の自己がどこまでも矛盾的自己同一的に、真の自己自身を見いだすところに、宗教的信仰というものが成立する」(「実践哲学序論」 10-332 )ここにおいて、彼の哲学は宗教に行き当たるのである。自己を追究していって、自己を越えたものがあることを確信する。それは永遠なるもの(神)であり、絶対的な無であるのだ。
 「すべての時を限定する絶対的現在というべきものは、周辺なくして至る所に中心を有つ絶対無の自覚的限定ということができる。かかる意味に於いて絶対的現在と考えられるものは何処にでも始まり、瞬間毎に新たにいつでも無限の過去、無限の未来を現在の一点に引き寄せることのできる永遠の今ということができ、時は永遠の今の自己限定として成立すると考えることができる。」(6-188)もはや「善の研究」で言われた単純な純粋経験の「現在」など消え失せている。現在は「永遠の今」として無限につながっているのである。
 「自己自身の存在の底に他があり、他の存在の底に自己があるからである。私となんじとは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何等の一般者もない。但し私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である。私の底に汝があり、汝の底に私がある」(6-380-381)ここでは私と他人の区別もなくなる。いや、すべてのものの区別が区別しているようでいて、区別がなくなるのだ。それが絶対矛盾的自己同一である。
 「現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一といふのである。」(9-147)つまり、絶対無の場所では、あらゆるものが、他でありながら自でもある、矛盾・対立しているようでいながら一つであるということである。
 外面的にはどんなに対立しているように見えようと、絶対無の立場に立てば、それは矛盾のない同一のものであることが分かる。私とあなたは他人のようだが、実は同一で、私はあなた、あなたは私でもあるというのが絶対矛盾的自己同一なのだ。しかし、それを実感できるのは、自らが無心になった人だけである。何故なら、現実にいる人はそれぞれ独立した個人であって、他の人と同一なんてあり得ないからだ。西田の絶対矛盾的自己同一は、修行して見性(悟り)した人だけにしか妥当しない特別な宗教的場でしかないのである。
 「私の絶対矛盾の自己同一といふのは、宗教家の所謂神に相当すると言ってよい。絶対矛盾の自己同一の世界に於いて私と汝が相対するのである。神はその像の如くに我々を造ったといふが、神を媒介として私が私であり汝が汝である。」(9-120)神を媒介としない限り、つまり悟りを得ていない限り絶対矛盾的自己同一もあり得ないのである。
 
 結局ここまで読んできて西田は何を言いたかったかが分かってくる。それは信仰、それも禅の修行を積んだ人にしか分からない「叡智的世界」(5-176)に至る道を語っているのである。禅を知らない人、いや知っていても悟りを開いていない人には絶対分からない世界を書いているのだ。我々門外漢は奇怪な禅問答を読んでいるのと同じ立場に立たされる。しかも、禅は読んで理解することはできない。読むこと、考えることを捨て去って初めて叡智的世界が得られるのに、西田はそれを最初からつかまえることができない思索でつかまえようとしている。底に穴が開いているひしゃくで水を汲もうとしているのである。
 このスレッドを4回に分けて書いたが、終わってみて正直、ホッとしている。なるべく分かりやすく書いたつもりだが、読んでくれた人のどのくらいが分かったか自信がない。4回のスレッドでも「えいきちさん」の「チンプンカンプンです」というコメントを一ついただいただけで、他に何の反応もないことを見ると、書いている本人(小生)も何か無駄なことをやっているのかな、という思いに常につきまとわれていた。とりあえず、明日から別なことを書く予定である。これをもって今後しばらくの間、西田を読むことは止めたいと思っている。


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by weltgeist | 2010-03-04 14:26


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