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西田幾多郎(にしだ きたろう)の無、その2、自覚と場所 (No.660 10/03/02)

初めに・今日の内容は少しややっこしい文章なってしまいました。たいへん申し訳ありませんが、こうした内容に興味のない方は今回のスレッドが終わるまでスルーしてくださるようお願いいたします。

西田幾多郎(にしだ きたろう)の無、その2、自覚と場所 (No.660 10/03/02)_d0151247_1872246.jpg 「善の研究」で言われる純粋経験とは、いまだ主観(私)と客観(世界)とが区別されないで一体化して結びついている経験であった。純粋経験においては、主観も客観もない実在と相対しているだけ、つまり何も手を加えていない生の実在が目の前にあるだけのことである。もし主観と客観という形でそれをとらえようとすれば、それは純粋経験の統一が失われたことを意味することになる。
 主観も客観もない実在とは、言葉における言い回しもまだないことである。純粋経験における事実は主語も述語もないから、言葉で表すことは出来ないのである。たとえばピアノの音がしていたとしたら、ピアノの「音」だけがそこにあって、それを聞いている私は「音そのもの」でもあり、「音が私となる」のである。「ピアノの音」という具合に、ピアノという主語と音という述語に事実を言葉で区分すると、純粋経験の一部だけを取り出すことになり、純粋経験そのものは失われていくことになるのだ。
 ピアノの音は私に一瞬一瞬「現在」として現れている。音は「現在」が一連のつながった事象として純粋経験を形成している。現在とはそれぞれのものが一連をなした「流れ」となっていると言ってもいい。音を聞く私はずっとそれを聞き続けるという点で、現在の一瞬一瞬が連続的に結びついたものとして現れるのである。現在の私は知覚の一連の「流れ」として音(メロディ)を聞いているのである。
 また、私が庭に咲くきれいなバラの花を見ているとすれば、バラは「バラそのもの」として、私と一体化してとらえている。きれいとか、庭といったことから切り離されて、私は「バラ」そのものをとらえる。庭に咲くきれいなバラは、バラそのものとなる。しかし、実際にはバラは庭にあり、きれいである。さらにバラが植えられている庭の外には森が広がって見えている。このように、純粋経験は無限に広がっている世界の内にある一本のバラを切り出しているのである。
 それは時間的にも無限に広がっていくことになる。純粋経験は現在の経験であるが、それは現在が自ら未来に向かって瞬間瞬間を変転させていくという時間的な継続のなかにある。ピアノの音はこうして連続したメロディになるのである。それゆえ、西田は「現在とは過去と未来を含む幅のあるもの」と考える。現在は瞬間であるとともに過去を背負いつつ未来に進む不断の流れであるのだ。
 純粋経験で述べられた私と世界の同一化は「自覚」を通して「実践性」へと置き変わってくる。無限に広がった世界と同一化した私が、無限に一体化した運動性のなかで自己が何であるか切り分けていくのである。このように切り分けることによって私も世界も現れてくるのだ。自覚とはこのような切り分けの実践に他ならない。
 西田は「自覚に於ける直感と反省」の中で「我々が自己以外の或物を考へる場合には考へるものと、考へられるものとが別になって居る。即ち判断作用とその内容とが異なったものである、独り自覚に於いてはこの両者が一であると考へねばならぬ、自己が自己を考へるのである」(2-23)と言っている。
 すなわち、自覚とは自己が自己を考えること、自己の中に自己を映すことに他ならない。まだはっきりしてもいない私が、形あるものとして私を私のなかに映し出していくという意味である。分かりにくい表現だが、自覚とは直感と反省の結びつきで生じることである。つまり、無限の流れである実在を合一する直感と、時間的な流れである経験を空間的に把握しなおす反省とで純粋経験を「自覚する」ことである。無限の流れを生きる純粋経験において、「私であるもの」と、「世界であるもの」とを切り分けるようにしていく働き、それが自覚である。「私」は直感している「私」と反省された対象としての「私」になっていることを「自覚」するのである。
 純粋経験とは私と世界が同一化の基盤の上で流れとしてあるものであった。しかし、そうしたものがあるためにはそれらすべてが包まれる基盤のようなものが考えられなければならない。それが「場所」である。「我々が物事を考える時、之を映す如き場所という如きものがなければならならぬ。先ず意識の野というものを考えることができる」4-210と西田は言っている。そのような「意識の野原」のような場所では有と無は対立するものではなく、むしろ有と無の対立を越えて、有と無をその中に成立せしめる「無の場所」として現れるのである。

 ここにおいてますます西田の主張は禅の無の考えに軸を置いていることが明らかになってきた。しかし、禅の無は言葉で表現出来ない不立文字であった。西田においてもそれは主語と述語という言語形式ではとらえられないものであった。西田はそうした文字で表せないものを「哲学する」のである。彼の考えが分かりにくいのはこの点にある。哲学は哲学者が考えた思想を他の人に伝えるものである。だが、西田の哲学は、彼自身が「考えて行くこと」であり、人に伝えることではないのだ。我々はただ西田の思索の後を追体験するだけなのである。
以下明日に続く
by weltgeist | 2010-03-02 18:40


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