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感謝祭に思うこと (No.568 09/11/26)

 先週の日曜日に前倒しで感謝祭を祝ったが、今日が本物の感謝祭、サンクス・ギビングデーである。米国では今日は休日で各地でターキーを食べるお祝いが行われることだろう。さて、感謝祭というのは、誰かに何かを感謝する日である。問題は誰に何を感謝するかだ。そもそも皆さんは感謝するようなことがおありだろうか。感謝というより、あまりの不景気、殺伐とした世の中に怒りの気持ちを持った人の方が多かったのではないだろうか。
 小生にとっても、この一年は病気続きで散々であった。胃潰瘍、脳梗塞、腰痛と連続した体の変調に、感謝の気持ちを失いそうな時が多かった。
 今の小生にとっての大問題は足と腰の激痛だ。「何で俺がこんな目に会わねばならないのか」と、少し打ちひしがれていた。しかし、今日、向かいの小高い森に足の痛いのを我慢して散歩に行ったところで自分の間違いに気づいた。森を歩きながら、「自分にとって感謝すべきことは何だろうか」と考えてみて、体が痛いことこそ感謝すべきことではないのかと、思えたのである。
 自分が死にそうなくらい重い病気に罹ったことを想定してみれば、今の自分が何と恵まれているかが分かる気がした。足が痛くて外も歩けない人、寝たきりの人もいるだろう。そんな人から見れば、小生は足が痛いと言っても杖に頼ることもなく森を歩くことが出来る。周囲には辛い病気の人が沢山いる中で、このくらいの軽傷で済んだことに感謝すべきではないかと思ったのである。そして、病気になったことで別な視点、弱者の立場から物事を見れるようになったことへの感謝も感じた。
 まだ万全ではない足と腰の痛みをこらえて森に分け入ったら、道に落ちた落ち葉が折り重なって、黄色く染まった絨毯のようになっていた。そして、目を上げれば木々の葉は黄色く色づいていた。東京近郊の小さな森でもこんな見事な紅葉の景色が展開し、四季の美しさを味わえたことに感謝の気持ちを感じたのである。
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 振り返って見れば、今の小生、豊かではないが、毎日ご飯も食べることは出来るし、暖かい布団で眠ることも出来る。頭もまだ認知症まで至っていないから、普通の生活、人付き合いも出来る。こんな当たり前の生活が出来ることこそありがたく、感謝に値すると思うのだ。なぜなら、当たり前の生活さえままならない人が世界には溢れているからだ。
 だが、それは下を見て己の状態に安心するというような比較の問題ではない。「お前よりもっとひどい奴がいるのだから、納得しろ」という意見には同意出来ない。そもそも他人と比較しようとするからこういう発想が出てくるのだ。自分は自分と思えば、すべては自分の中だけの問題として完結する。他人を羨むから卑しい気持ちが生じ、不満も出てくるのである。感謝の気持ちを失わせる根源はこうした他人との無意味な比較ではないかと思うのである。
 現代は欲望の時代である。ありとあらゆる商品が消費者の欲望をかき立て、飢餓感を植え付ける。まるで、その商品を買わなければ不幸がくるかのように人は思い込まされ、絶えざる欲求不満のなかであえいでいる。あれも買いたい、これも買いたいと思わされながら、一向に満足感を得ることはない。なぜなら、ここには自分をコントロールしようとする意志が欠けているからだ。現在の自分で十分と感謝し「足(た)るを知る」気持ちがないのである。
 むしろ今、自分はこの世の中に生かせてもらっていると思うだけで十分ではないだろうか。生きているからこそすべてのことが可能なのだ。もちろん、生かせてもらっているにしても様々である。仕事にも家族にも恵まれた人もいれば、夜眠る家もなく寒空をさまよっている苦しい人もいるだろう。しかし、家族や仕事に恵まれていても幸せであるとは限らないし、寝る場所も持てない人が不幸であるとも限らない。
 我々が生きている有限な人生の時間の中では嬉しいこともあれば悲しいこともある。嬉しいこと、良いことがあれば感謝するのは当たり前である。だが、必要なことは辛いこと、苦しいこと、悲しいことにおいても感謝の念を持つことである。苦しいことがあると、それから逃げたくなる。しかし、もし自分の身に辛いことが降りかかってきたとすれば、それは自分を高めてくれる試練と思い、感謝の思いで積極的に受け入れろと言いたい。
 小生の信念ともなっているのは「人は変わることが出来る」である。苦しいことがあってもそれは必ず乗り越えられるはずである。そして、困難を克服して乗り越えた先で得られるものは、深みを増した人間性であり、限りない喜びであると思う。逃げ出した人に待ち受けるのは、屈辱と敗北感だけである。
 世の中には恐ろしく不幸な星の下に生まれたと思われる人がいる。しかし、それは我々が外側からの基準で判断しているからで、本人にとってはそんな基準は意味を持たない。幸せはどの瞬間においても、また誰の元にもあると思う。それがたとえ、死に赴く瞬間であってもだ。なぜなら命の価値は生きた時間の長さや、その人の外的なこと、すなわち財産とか名誉とか、家柄といったことではなく、その人がどう生きたかで決まるからだ。
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by weltgeist | 2009-11-26 23:57


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