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良き読書家 (No.2083 15/10/12)

 沢山本を読むことは良いことだと言われるが、これは必ずしも正しくはない。世の中で広く信じられている広い知識の獲得は、その受け手である読む人の「心」がなければ、無意味な知識の洪水の中を流されるだけである。本を沢山読めば問題が解決されると思うのは幻想だ。むしろ、ほんのわずかしか世間の日の目を浴びていないものの中から、本当の良書を探しだし、それを心を込めて深く読むことの方を勧めたい。
 批判する目を持たない人が間違った視点で書かれた本を読めば間違ったことを植え付けられるかもしれない。もちろん沢山読むことは悪いことではないが、盲目はいただけない。少数の良書を深く読み込んで、そこから何事かを学び取ることこそ望ましい。従って、単に読書量を誇るだけの人はむしろ滑稽でさえある。
 人間はハンターと同じでなにか事をなす場合、狙いを定めたターゲットというものがある。多くの人はその意識が希薄で、なんとなくという程度の軽い気持ちで本を読む。だが本を読むと言うことは作者との対話であり、彼との真剣勝負である。サムライが刀を抜いて生死を賭けた戦いをするくらいの気構えが欲しい。その気構えを構築しているのが読者の心である。
 本を読むとは自分と著者との心の対話なのだ。その解は本の著者でもなければ自分でもない。両者の接点から生まれる新たな知だ。「知識」ではない。知恵、Wisdom だ。それをどのように料理するかを読者は問われている。こうやって人は自らの精神を深めていくのである。
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# by Weltgeist | 2015-10-12 22:43

燃え尽きていく命の最後の輝き (No.2082 15/10/07)

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 いまヒサマツミドリシジミという小さな蝶を飼育している。ゼフィルスと呼ばれるミドリシジミの仲間で、長らく生活史も分からない謎に包まれていた蝶である。この蝶が不思議なのは、6月頃とんでもない場所で雄の姿が目撃されるが、どういうわけかその場所に雌がいないことだ。ごくまれに目撃されることはあるが、それでも雌は極端に少ない。ヒサマツミドリシジミの雌は、雄に比べて少ないのだろうか。それとも雌はどこか違う場所に隠れているのだろうか。それが長い間謎とされていた。
 ただ、分かってきたのは、9月後半からの産卵期になると雌だけが食草であるウラジロガシのある場所でごくまれに目撃されることである。その頃になると雄は全くいない。羽化から3ヶ月以上たっているから、おそらく雄はボロボロになって全部死んでしまったであろう。ところが、この時期の雌はまだ羽化したばかりのようなきれいな翅のままであることだ。
 この謎多き蝶は雄と雌が別行動をするらしい。だから、雌のヒサマツミドリシジミをつかまえることは極めて難しいと言われていた。ところが今回私は、いくつかの幸運から生きた雌を採ることができ、それを我が家に持ち帰って産卵行動を観察している。
 私のまわりには蝶の飼育に詳しい先輩が沢山いる。彼らのアドバイスで、産卵用の観察ケースの作り方から、水を湿らせたオアシスに刺すウラジロガシの本数や長さまで事細かに教えてもらい、越冬芽がついたウラジロガシを設置したケースにヒサマツの雌を入れてみたのである。
 ケースの縁には餌としてポカリを薄めたティッシュを置くと、彼女はそれをおいしそうに吸い、しばらくしたらウラジロガシに止まって産卵を開始した。
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 自分は男だから産みの苦しみというものを知らない。最近は医学の発達でお産もさほど苦痛でなくなったというが、それでも男には絶対分からないものすごい苦しみがあるのだろう。同じように蝶とて卵を産むということはたいへんな苦痛のようだ。産卵ケースに入れて餌を与えておけば、あとは勝手に蝶が卵を産んでくれると、単純に考えていたが、そんな甘いものではないことが分かってきた。
 ケースに入れられた蝶は、枝に止まってお尻をこすりつけるようにして産卵していくが、まずこの段階までもっていくのがたいへん。そして、ようやく1卵産み終えるとケース内を激しく飛び交い、またしばらくして次の卵を産む。困惑したのは産み終わるごとにウラジロガシの枝に体をぶっつけるように飛び回り、自分の翅を傷つけていくことだ。
 蝶という生き物は自らを傷つけながら生きていくしかないのだろうか。羽化した直後は傷一つ無い美しい姿をしているのに、みるみるうちに翅が破れ、最後は上の写真のようにボロボロにまでなっていく。
 ケースに入れてしばらくしたとき、あの美しかったヒサマツミドリシジミがあまりに情けない姿に変わり果てたのを見て、ケースから取り出してやった。すでに遠くへ飛ぶ力もないようで、まもなく彼女の生は燃え尽きて終結するのは間違いなかった。自然とは美しくもあるけれど、なんと残酷でもあることだろうか。
 だが、彼女が旅立っていったケースの中には素晴らしい贈り物が残されていた。次の世代を担う卵がウラジロガシ頭頂芽基部に白く輝いていたのである。こうして彼女は自分の生を全うし、次の世代への跡継ぎを残して生命の最後の灯火を消していったのである。
 全身全霊で命を燃焼させたヒサマツミドリシジミの一生を見て、私は自らの人生のはかなさを思わせられた。人生の歩みは人も蝶も変わらない。必死に生きて最後はみんなこのように燃え尽きて、土に帰っていくのだ。
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# by Weltgeist | 2015-10-07 23:47

怒りと恨み (No.2081 15/09/25)

 若い頃の私は「瞬間湯沸かし器」とあだ名され、しばしば頭に血が上って他の人と大喧嘩をしたことがある。しかし、最近は不愉快なことがあっても、極力怒らないように心がけている。もちろん弱い人間であるからうまくことが運ばないこともある。実は先日も我が家の同居人にひどく腹を立ててしまった。このようにどんなに意識してもときどき気持ちをコントロールできない事態に直面することがあるのだ。しかし、怒ったところで結局は自分自身の不愉快さが増幅されていっそう気分が悪くなるだけなことを長い人生経験からたっぷりと学び取った。
 そうしたことの反省から、怒りは極力抑えて、平穏にやり過ごすことが最終的には一番利口な処世術だと悟るようになった。だから最初は憤り感で興奮しても、次第にそれを忘れ、もとの静かな日常に戻ることができるように心がけている。穏やかな気持ちでいれば怒りは次第に忘れ去っていくからだ。
 だが、怒りは本当に忘却の彼方に消え去ったのだろうか。フロイトに言わせると忘れたと思うのはとんだ間違いで、怒りは忘却したのではなく、無意識の領域に追いやられて抑圧されただけだという。そして、無意識に抑圧された怒りは夢の中で爆発するだけでなく、時折人の正常な精神を蝕む悪さをするという。
 どちらにしても怒るということは人の精神にあまり良いことをもたらさないのは事実である。そして忘れることができないほど強い怒りは、それを恨みに変えてしまう。理不尽な悪に直面したとき、意志の強い人は問題に全力で立ち向かい、怒りの矛を収めることができる。しかし、それができないうえに、いつまでも忘れられない弱い人の怒りは恨みとなる。恨みとはその場で解決できなかった自分の弱さの逃避場にすぎない。自分の弱さを恨みという形で他人に責任転嫁しているのである。だから、恨みはいつまでも残って人の気持ちを暗くさせる。
 人様を恨む気持ちは、ただ自分自身を強くすることでしか克服できない。どんなことがあってもビクともしない強靱な自己の確立。強い信念と自分を強めていく意識だけが恨みを克服できるのである。
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# by Weltgeist | 2015-09-25 23:48

自然災害との付き合い方 (No.2080 15/09/12)

自然災害との付き合い方 (No.2080 15/09/12)

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 鬼怒川堤防決壊は東日本大震災以来のたいへんな災害で、惨状を刻々と伝えるテレビの生中継に釘付けになってしまった。濁流に呑み込まれそうになりながら、ヘリコプターで救出される人たちを日本中の人が祈るような気持ちで見ていたことだろう。自衛隊などの懸命な救助活動を見ていると、日本の救助能力の高さに頼もしささえ感じた。不幸な出来事ではあったが、彼らが頑張ったから、犠牲者も少なくすんだ。困難な状況下に救助にあたった人たちにお疲れ様、ありがとうと感謝の気持ちを伝えたい。
 鮎釣りが好きな私にとって鬼怒川は馴染みの川であるが、あの広い河原全面が水で埋まり、あふれ出てきたというのは驚きである。ここまでの増水だと通常の防災システムで防げなくても仕方がなかったといえる。
 我々はこうした事態に備えて様々な防災方法を準備しているが、それも限度がある。想定を越えた災害まで対処するのは難しい。長い間には限度を超えたどえらい災害が必ず起こる。それは防ぎようがないのだ。理想を言えば、そうした危険な場所には住むべきでないのかもしれない。しかし、そんなことを言ってられない。潜在的な危険に面していながらも、だましだまし生活していくしかないのが人間の宿命なのだ。
 東京だって荒川が氾濫すれば東半分は水に埋まってしまうし、直下型地震が起これば、東京が壊滅するほどの災害が発生する。しかし、そんな危ない場所に住むなとは言えない。人間は時々起こる自然界の反乱をだましだまし、うまく対処していくしかないのである。
 自然の力はすごい。ひとたび暴れ始めれば人間などひとたまりもないだろう。そんな危険な自然の中で生きて行くには、ただ静かに共生の道を探すしかない。自然への畏敬の念を持ち、上手に自然を相手にしていくしかないのだ。奢らず、我々は自然に生かされているという謙虚な気持ちになること。そのような危うさの中で生きている。いや生かされているのである。
 人は自然の中にささやかな場所をもらって生きているにすぎない。油断してはいけないのだ。自然を支配しようなどと思うのはとんでもない間違いである。
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*使用した画像は、11日、NHKテレビのライブ中継からキャプチャーしたものです。
# by Weltgeist | 2015-09-12 23:45

疑惑と盗用 (No.2079 15/09/02)

 盗用疑惑にゆれていた佐野研二郎氏デザインのオリンピックエンブレムがついに白紙撤回、使用中止に追い込まれてしまった。この一件で賛否両方の意見があるだろうが、前の国立競技場建設問題と続けて起こると、2020年東京オリンピックが何かうさんくさい物に見えて、心から歓迎したい気持ちになれないでいた。その意味では今回の仕切り直しで少しはすっきりできるかもしれない。
 佐野氏は人の作品をパクルような真似はしないと胸を張っていたが、疑惑の発端となった作品を見ると微妙で判断が難しい。似ているとも似ていないともいえる。単純化したデザインならこれまであった物と類似性が出ることは十分ありうるから佐野氏の主張も認めてあげたい気もする。
 どんな最先端な事柄でもどこかに過去を引きずっている。過去の集大成として最新の物も生まれてくるのである。過去の実績と切り離してそれだけで存在することはできないのだ。だから、今回のデザインとはまったく別な世界、たとえば独創的なパン屋さんがいたとしても、彼が作るパンが100%オリジナルであることは不可能だ。長い人類の歴史の過程でイースト菌による発酵とか、小麦粉の粘り具合、焼くときの温度管理など様々なことが研究され、その成果があるから初めて独創的なパンもできるのである。
 芸術分野で言えば有名画家だって修行時代は先輩巨匠を模写して練習するのが当たり前である。ルーブルにはいまでも沢山の画家の卵が模写をしている。他人を真似た模写のあとどれだけオリジナリティが出せたかで画家の評価は決まる。佐野氏がベルギー人のデザインを真似したとかしないと言うより、どこまで彼のオリジナリティがあるのかが重要である。
 学術論文などでは、参考文献を書くのは常識である。論文作成で他人の研究を参考にしたことは恥でもなんでもない。問題は参考にした、あるいは剽窃したことを隠し、「これは俺のオリジナルだ」と言い張ることだ。佐野氏はこの点でミスした。佐野氏が一言「参考にしました。でも最終的には自分のオリジナリティを加えて完成させました」と言っておけば波風はたたなかったろうし、国民も納得したはずだ。
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 人が苦労して創り出した成果を、コピー&ペーストするのは残念ながら現代の悪しき趨勢である。私のブログとてこれまで何度かコピペされている。2000回も書いているから、そうした目にあうのは避けられないのかもしれない。ひどかった例では私の文章から添付写真まで1ページ全部をコピペして、さも自分が書いたようなブログを見つけたことがある。このときは本文に挿入したドイツ語のスペルミスまで同じで、笑いたくなる例だが、メールで注意したら、すぐに謝罪してそれを削除してくれた。
 こんな例がどのくらいあるのだろうか。全部を見つけることは不可能である。ま、コピペされるということは、引用するだけの価値を認めてくれているのかもしれないと思って諦めているところもある。
 しかし、人のものをコピペするなら、せめて引用先を示すくらいは礼儀として必要であろう。だが剽窃屋の常套句は「知りません」である。そして、このことを指摘しないでいると、軒を貸して母屋を乗っ取られる恐れもある。以前パリの魅力(No33 08/03/05) というテーマで書いたものが、他の人に引用のクレジットもなしにコピペされたことがある。そのけしからん剽窃先は以下のサイトだが、ご覧になれば分かるように私が書いたパリの話を上手にパクって今も掲載を続けている。
 これは6年も前に書いたものだから時間的にはどちらが先に書いたオリジナルなのか読む人は分からなくなっている。下手をすると私がこのブログの文章を真似したともとられかねない。その意味でも、せめて「この文章は**から入手しました」くらいのクレジットを付けるのは最低の礼儀だと思うのだが・・・。
# by Weltgeist | 2015-09-02 22:25