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さようなら2015年 (No.2093 15/12/31)

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 もうすぐ2016年になる。2015年の干支(えと)は羊、来年は申(さる)年らしい。それで「さようなら2015年」を象徴する写真としてこの羊を選んでみた。暖かいセーターやコートでおなじみのカシミアの本場、カシミール、ゾジラ峠で我々のガイドがふざけ半分に歩いている羊を引き止めているところである。
 だが、羊は引き止められても時の流れは一瞬たりとも止めることはできない。どんなにあがいても羊年は終わり、まもなく2016年の申年に突入してしまう。こうした時間の経過は誰にも平等にやってくる。私にとっての1時間と米国大統領の1時間は同じ長さである。私の方が5分短いといった不公平はあり得ない。しかし、その1時間をどれだけの密度で過ごしたかとなると全然違ってくる。時間は量的な単位とともに質的にもとらえなければならない。
 とすれば人生一瞬たりとも無駄に過ごすことはできない。私の大好きなへそ曲がり哲学者、アルトゥール・ショーペンハウアーは「人間の幸福に対する二大敵手は苦痛と退屈だ」と言っている。苦痛のときはもちろん人は幸福とは感じない。しかし、退屈もいけない。一見すると満たされたゆとりのようにも見えるが、内から燃え上がる熱い思いがない。退屈は精神の内的空虚に根ざしているからだ。退屈で貴重な人生の時間を虚しく浪費しているのである。人生を質的に充実させることこそ幸せなのだ。

 私にとって2015年前半は化膿性脊椎炎という脊椎骨が腐ってしまう恐ろしい病気で、まともに歩くこともできず、苦痛に打ちのめされつつひたすらリハビリに専念した年だった。最初は30m歩くのがようやくのひどい状態だったが、毎日リハビリを欠かさずやったおかげで夏には北アルプス、白馬岳に登れるまで快復した。
 自分でも驚くほどの快復ぶりだ。そして、頑張ればここまで元気になれることに、人間がいかにしぶとい存在であるかを実感した。人は少々たたかれたところで挫けない。逆にそのことによって強くなるのである。しかし、元気を取り戻したころには大好きな鮎釣りもチョウチョ採りのシーズンも終わっていて、逆にやることを見失っていた。なまじ元気になったことで戦いの目標を無くし、退屈な日々を年後半は送ることになったのである。
 あらためてショーペンハウアーの言葉で2015年を思い起こせば、前半は傷めた脊椎の痛みとの戦いであり、後半は退屈との戦いで、結局一年中不幸ばかりで良いことが何もないことになる。だが、彼は苦痛も退屈も幸福への「敵手である」と言っている。敵だから戦えということである。苦痛があっても負けなければいいのだ。
 今年は苦しかったけれど、決して自らを虚しいとは思わなかった。むしろリハビリを頑張れば良くなると自分に言い聞かせ、奮い立たせていたから心は充実していた。私は決して不幸ではなく、胸を張って2015年は幸せな年だったと思っている。
 日々の努力は微々たるものでも「良くなる」と信じて努力すれば、それはきっと実現されることを身をもって実感した一年であった。
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by Weltgeist | 2015-12-31 20:40

クリスマスイブ (No.2092 15/12/24)

 今日はクリスマスイブ。日本中の人がにわかクリスチャンに変身する特別な日である。しかしその意味について深く考えている日本人はとても少ない。一週間後には新しい年、2016年を迎え、人々は新年のお祝いに各地の神社に初詣に行く。わずか数日で信じるものを変える日本人の精神構造に、熱心な海外のクリスチャンやイスラム教徒は理解不能に陥ることだろう。
 要するに普通の日本人には何でも良いわけで、キリストも八百万の神も心から信じているわけではない。その場その場のご都合でどうにでもなる「イベント」で終わっている。だから死んでしまえばにわか仏教徒の戒名をもらって永遠の眠りにつく。それで人生を総括させて安心するのだ。そんな行き当たりばったりの人生で何となく済ませているのである。
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 しかし、少なくとも今夜だけでもクリスマスの意味くらい知ってみたらどうだろうか。言うまでもなくクリスマスはイエス・キリストが生まれた日とされている。彼は救世主として人間界に生まれてきた(受肉)とキリスト教徒は信じている。サンタクロースがトナカイのそりに乗ってプレゼントを配ってくれる記念日だけではないのだ。
 無限な世界の神が有限な人間の姿になって天上界から降りてきてくれた日。人類の苦しみを救う救世主の誕生日だから世界中の人にとってとても重要な日なのである。「そんなの俺に関係ない」と言う人もいるだろうが、実は関係大ありで、イエスが生まれた年が我々が使っている年号の基準ともなっているのだ。
 来年は西暦2016年。これはイエスが生まれて2016年経っているということで、西暦を示すときは”AD 2016”と表記される。ADとはラテン語の「 Anno Domini=アンノ・ドミニ 」の略で、ドミニは英語でいうドミナント、主(イエス・キリスト)のことであり、アンノは年、すなわち主の年という意味だ。またイエス誕生以前は BC ( Before Christ =キリスト以前 )と表記している。
 紀元後がラテン語の Anno Domini で紀元前が英語の Before Christ と別な言語で書かれる意味を不勉強な私は知らない。また、Anno Domini 、すなわちキリストが生まれた年が2016年前かどうかも実はよく分からないらしい。ルカ福音書に「全世界の住民登録をせよという勅令が皇帝アウグストスから出た」(2:1)ときベツレヘムでイエスが生まれたと書かれているが、歴史的に住民登録は紀元前( BC )4年に行われたとされているから、イエスが生まれたのは2016年より4年ほど前だったのかもしれない。
 2千年も前のことだから多少のアバウトさは仕方がない。とにかくこの頃に人の苦しみを救ってくれる救世主・メサイアが誕生した。それも処女であるマリアから生まれたと聖書には書いてある。「そんな馬鹿な」と言って信じない人もいれば、「神の御子なら処女から生まれても不思議ではない」と心から信じる人もいる。両者は水と油で、真っ向から対立するが、信仰とは理性で計れるものではない。理性的には絶対おかしいことを「信じる」こと、理性的思考を飛び越えてジャンプすることである。
 このジャンプが出来ない人は信仰を持てない。理性をジャンプした人を理性の場で論じることは最初から意味がない。世界中でキリスト教を信じる人は世界人口の33%、20億人以上いるという。今夜はそうした人たちが救い主への感謝を捧げている日だ。少なくともクリスマスの時だけでも救世主への祈りを捧げてみてはどうだろうか。
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by Weltgeist | 2015-12-24 22:06

ソクラテスとロバ (No.2091 15/12/18)

 偉そうにふるまう人に次々と論戦を挑み、相手の無知をあからさまにしたソクラテスはトラブルメーカーだったようだ。論争に負けた人を怒らせてしばしば暴力を受けたらしい。しかし、ソクラテスは暴力にも平然と耐えていたという。あるとき、彼は足で踏みつけられる屈辱を受けながら、抵抗することなくじっと耐えていた。それを見ていぶかる人に向かって「ロバに蹴られたからといって、私はそれを訴えるかね」とソクラテスが聞いた逸話が残っている。彼は真に訴えるべきものは何かが分かっていたのである。
 ソウル地裁は17日、産経新聞加藤前ソウル支局長が朴大統領の名誉を毀損した「罪」を問う裁判で無罪の判決を出した。人権が認められない北朝鮮ならともかく、民主主義国家と言われる韓国で、公人たる大統領のうわさ話をブログで書いたら訴えられた。この一件で「韓国は民主国家なのか」という疑問を感じた人は多かったのではないだろうか。幸いなことに今回の無罪判決でまだ韓国が民主主義国家にとどまってくれたことは喜ばしい。
 韓国の名誉毀損罪は名誉を毀損された当人が「そんなのいいよ」と問題視しなければ起訴されないのだそうだ。しかし、朴大統領は黙っていて裁判にまで進んでしまった。大統領は起訴を望んだと受け取れる。だが、いざ裁判が始まったら、韓国の民主主義に疑問符が投げかけられる困った状況に発展してしまった。朴大統領がソクラテス並の度量があればことなきを得たのに、日韓関係を悪い方向に持っていってしまったのである。
 さらに先月19日には「帝国の慰安婦」という本の出版で、虚偽の事実を載せ韓国慰安婦の名誉を傷つけたとして、著者の朴裕河(パク・ユハ)世宗大学教授が名誉毀損罪で在宅起訴されてもいる。朴教授は本の中で「家父長制と貧困のために苦痛を受ける女性たちを騙して慰安婦として連れて行った朝鮮人業者の役割を詳細に示し、慰安婦強制動員が”我々の内なる協力者”の犯罪だと強調し、天皇や日本政府に”法的責任”を問うことは難しい」()と主張したことが慰安婦の名誉を傷つけているとして起訴された。
 民主主義だからと言って何を言っても良いわけではない。しかし、歴史に対する評価は多様で、それを一つの方向だけが正しく、外れたものは罪だ、罰せよというのは危険な思想だ。民主主義とは多様な意見を認めあい、それを論議していくものではないだろうか。
 今の韓国の現状を見ていると、世論があまりにも感情的で異なる意見を排除する傾向が強すぎる。加藤記者がネタとした朝鮮日報のコラムを書いた記者は起訴されず、加藤氏だけが起訴されたり、慰安婦問題は日本だけでなく当時の朝鮮にも問題があったという朴裕河教授の主張も、反日というスタンスから起訴されているようにみえる。
 かりにソクラテスが蹴られたロバを蹴り返したところで何も生まれないだろう。何が正しいことなのか、異なる意見を冷静に問い直し、正しい解決点を見つけることこそ必要ではないだろうか。
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by Weltgeist | 2015-12-18 23:57

猫に小判 (No.2090 15/12/03)

 酒が飲めない私のことを「お前は人生の楽しさの半分を知らない不幸な男」と言われたことがある。酒は好きではないし、全然飲めない。体質的にアルコールを受け付けないらしく、ほんの少し口に入れただけで目が回ってくらくらしてくる。だから酒は嫌いだ。そんな私に「お前は安上がりでいいなぁ」と言われもする。飲兵衛は気分の良い酩酊状態になるために相当飲まなければならない。すぐに酔う私が羨やましいというのだ。
 そんなに羨ましいなら酒など飲まなければいいと思うのだが、バッカス状態が幸せと思う輩はその「幸せ」が絶対放棄できない。私は酔うと気持ちが悪くなるから嫌なのに、バッカス男は酔いこそ快なのである。価値観が根本的に違っていてその道は交わることがないのである。
 忘年会のこの時期、私の周囲は大概会費制である。酒をたらふく飲む人と飲まない人が同じ会費を取られるのは理不尽である。飲んべえは飲まない私のふところを当てにして会費以上の酒を飲もうとしている。だから誘われて断れない忘年会に参加する時はひたすら「食い気」で応戦することにしている。同じ会費を払っているのだ、元を取るためにも腹がパンクするくらいまで食う。ここでも価値観の違いが壮絶なバトルとなるのである。
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 そんな私に先日ある方が焼酎の一升瓶をくれた。くれた人も酒の価値はよく分かっていないようで「酒が飲めないからいらない」と固持する私に「うちにあっても同じ。誰か好きな人にあげて」と無理矢理押しつけられた。清酒も焼酎の区別も知らない私がもらったところで猫に小判である。こんなものが我が家にあっても何の価値もないから、早速酒好きな友人に差し上げることにした。
 しかし、人にあげるのにその価値も知らないでは失礼と、ネットで調べたら、何と1本が2万円以上するものであった。ギョエエーッである。そもそも焼酎は安物の酒と思っていた。それが2万円以上とは世の中どうなってるんだろうか。こんなものに2万もつぎ込む人の心理は私の理解力をはるかに超えている。しかし、現実にうきうきしながらこの値段で買う人がいるのだろう。
 世の中の楽しいことは多様、沢山ある。酒で天国の気分が味わえると思う人がいても全然問題無い。しかし、飲めない人を「不幸」と断定するするのは短絡的である。酒を知らない私は自分を不幸と思わないし、私なりの幸福感を沢山持っている。我が家の愛猫・イライだって人間の楽しい世界とは違ったイライなりの楽しさ、幸福があるはずだ。猫に小判は意味がなくても鰹節ならハッピーだろう。
 残念ながら今回の酒騒動で、発端となった高価な(私にとっては馬鹿げた値段の)酒の写真を撮るのを忘れてしまった。すでに酒好きの友人がきっと今夜も「幸せだな~ぁ・・」と言いつつちびりちびりとやっていることだろう。それで、今日の一枚は酒の瓶ではなく、おいしい餌が食べたいなぁと哲学者風に思索していると思われるイライにしてみた。
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by Weltgeist | 2015-12-03 23:54