<   2015年 11月 ( 5 )   > この月の画像一覧

遠来なお客様から夫婦円満のコツを教えてもらった (No.2089 15/11/18)

d0151247_20404010.jpg
 パサデナのジェット推進研究所の専属カメラマンだったマイクと、婦人のメアリー・ジョーさんがまた日本にやってきたというので、我が家でお昼ご飯を一緒に食べた。彼らは沖縄に住んでいたことがあるので、達者な日本語を話す。その日本語能力はすごいもので、まったくストレスなく話ができる。それにくらべて私の英語能力のプアなことには目を覆いたくなるが、とにかく本日は英語をほとんど使わず日本語だけで話ができた。
 今日はお二人のなれそめから結婚、そして現在の夫婦生活までとても面白い話を教えてもらった。すでに大学生以上の大きな子供がいるというから結婚生活も長いだろうに、上の写真を見れば分かるようにまるで新婚と変わらない様子で寄り添っていて、とても仲が良い。きっとアメリカでも理想的な夫婦なのだろう。
 それに対して我が家は先々月に結婚生活40周年を迎え、新婚時代の輝きなど遠の昔に失われている。いまでは奥さんのことを「同居人」とか「いそうろう」と呼ぶ私にはとても恥ずかしくてこんな真似などできない。それで、夫婦円満のコツは何かと二人に聞いたら、マイクが言うには奥さんも含めて人の話をよく聞くことだそうだ。相手が何を考え、何を望んでいるのかを聞き取って、それに誠実に応えてあげることが大事なのだという。耳に手を当てるゼスチャーを交えてそのことを教えてくれた。
 これを聞いて私は少々耳が痛い思いをした。というのも最近の私は難聴の気があり、人の言葉がはっきり聞こえなくなっているからだ。これが原因でときどき我が家の同居人、すなわち奥さんと軋轢に発展することがある。彼女の言っていることが聞き取れず「エッ、何ッ? 」と聞き返してばかりいるからだ。あまりに聞き返すので、「あなたは人の話を聞いていない」と怒られているのである。
 さらに最近はオツムの回転が悪くなって、人の話がすぐには理解出来ない。耳の悪さと頭の悪さが相乗効果になっているのである。複雑な話に頭の回転がついていけないから、話をしていてもトンチンカンになってしまう。マイクが言うように人の言葉を聞いて親身にその人のことを考えてあげることが、すべての人と円満に交わる基本であるのはよく分かる。それなのに切れ切れにしか聞こえてこない私の悪い耳と、ぼけた頭がさらに話の理解を遠のかせるから困ってしまうのだ。
 これでは真に相手を理解することはできない。このままどんどん耳と頭が悪くなると、怒った同居人、いやもとい、奥さんからも見捨てられるかもしれない。そうならないためにも、マイクにならっていつも耳に手を当てて奥さんの声だけでも耳を傾けないと私は危ないのである。
[PR]
by Weltgeist | 2015-11-18 23:06

人生のはかなさ、唐木順三・無常(4 最終回) (No.2088 15/11/16)

 今日がこれまで続けてきた唐木順三著「無常」の最終回です。
 道元は悟りを得れば、山が流れ、川が止まるほど違った世界が見えてくると言っていた。しかし、悟りによって見えてくる世界とは、はたして山が流れ、川が止まるような変わったものだろうか。道元は別なところで「雪上に霜を加える」(正法眼蔵 菩提発心)ような世界とも言っている。雪の上に霜が降りてもちょっと見た目では変わらないけれど、それでも何かが変わっているはずだ。雪よりさらに白さが増している、これが真実の姿だと道元は言いたいのだろう。だが、そのためには意識は最高度に先鋭化されていなければ、白さの違いも見つけられない。
 では心身脱落して先鋭化した意識を得た人に世界は実際どのように見えているのか。道元は正法眼蔵第二十九、恁麼(いんも)で「身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされて、しばらくもとどめがたし。紅顔いづくへかさりにし、たずねんとするに跡形ない」と言っている。死が刻々と近づく無常な状況は悟りを得ても変わらないのだ。ここでいう恁麼という言葉の意味を、唐木は佛教辞典から、「そのまま、ありのままの意と解する」と言っている。そうなると、「何の因果もなく、理由もなく、起こり、滅する。生滅、生死には前後の脈略もない。前後祭壇である。忽然と起こり、忽然と滅する」P.310 世界そのままが悟りの後にも見えてくることになる。極楽浄土の救いを求めて参禅しても、無常な世界は変わらないと言う。そうなるとどこに救いがあるのだろうか。
 だが実際は雪の上に積もる霜のように、変わらないようでいて変わっている。「生まれる、死ぬる、咲く、散る、すべて起である。・・・花は衆法合成の場だから、まさに無常である。花ははかなくうつろふものである。しかし、その無常においてほかに花はありえない。・・・無常なる花において宇宙の全力が集中的に表現されてゐる。・・・一切が無常であるというところでは、無常への詠嘆は意味をもちえない」PP.349-350 という言葉は、「無意味なことの無限な反復であった虚無の時間を荘厳光明の時間」として受け入れることである。それによって「ニヒルこそがリアリティになる」PP.327-328 。我々には無常にしか見えない世界が身心脱落した人には極楽浄土にみえる。無常はもはや嘆きの対象ではない。ニヒルな現実、それを道元はニヒルに受け入れるのである。死人のように生きることの極致は、虚無的世界を全身全霊をもって虚無的に生きることだと唐木はとらえている。
d0151247_2084764.jpg
 人の世は無常である。花は咲き、しおれ、やがてそこに花があったことさえ忘れられていく。そんな無常な世を道元はこれが当たり前なのだと正面から受け入れる。私は唐木と道元のそうした言葉を読みながら、なぜかイザヤ書の言葉を思い出していた。
   すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
   主のいぶきがその上を吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。
   まことに民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。
   だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
    イザヤ書 40:6-8
 人は野の草のように一時期花を咲かせるが、預言者イザヤが言うようにそれははかなく枯れて消えて行く。しかし、神を信じる人はそのことを恐れない。なぜなら、彼の持つ「私」は神に捧げているからだ。民は草で消えていくとしても、神の恵みを信じる人は、永遠の安心感に包まれていて動揺することがない。それは禅でいう無私と同じ状態ではないかと想像する。禅もキリスト教も最終的には神を立たせることで自らが退く・無私に行き着く。
 禅では悟りのことを見性という。それは自分が無の境地に立ったとき見えてくる世界である。自分が無いとは他があることである。自分が一番ではない。他者こそ一番大切というパラダイムシフトが起こるのである。
 宗教が救いを求める民の心の叫び声とすれば、救いの究極は滅私、すなわち私を消して他者を尊重することである。**の神を信じればお金が儲かるとか、病気が治るといった御利益宗教など偽物にすぎない。むしろ神を信じても貧乏になるかもしれないし、病気が悪化するかもしれない。しかし、それでもいいのだ。なぜなら神を信じ私を捨てる人は、そのことで究極的に救いを得るからだ。心からそう信じれば何事も恐ろしくはないのである。
 道元の禅は私を捨てることを説いている。そして完全に私を捨てた人が解脱して無の境地に至る。しかし、人間が生きたいと思うのは本能の働きである。禅で無になっても、たとえば何か危険な状況に巻き込まれれば、体は本能的にそれを避ける動作をする。そうした人間の本能まで無くすことは不可能だと私は思う。そうなると完全な無はいつまで経っても到達できない。いったいどこまで身心脱落、放下したら完成するのかという疑問が残る。道元が言うようにこれは一生続けなければならない。そして最後に至ってもまだ完成しない永遠の課題なのである。

唐木順三の無常はこれで終わりです。最初から読む人はこちらをどうぞ。
[PR]
by Weltgeist | 2015-11-16 20:05

人生のはかなさ、唐木順三・無常(3) (No.2087 15/11/14)

 前回の唐木順三「無常」の続き。最初から読む人はこちらをどうぞ。
唐木順三は「無常」の中で「王朝女流文藝のはかなしの感情は、兵(つわもの)の世界、男性の感情にうつされるとき、無常観となった。・・・はかなしといふ宮廷内の女性的感情が、戦亂や動亂や、そこに起こる栄華盛衰、生者必滅の眼前の事実と、それを裏づけるために借用した仏教の無常観によって中世的な無常の文藝にうつされていった」P.298と書いている。
 王朝作家のはかなさは、無常観に変わり、そのあと至道無難禅師の「いきながら死人となりはてて、思ひのままにするわざぞよき」という禅の思想に行き着いたと前回書いた。世は無常だが嘆くのは間違いだ。無常な世は死人のように生きることで、かえって良きものとなるという逆転の思想である。しかし、死人のように生きるとは、暗いゾンビの世界を勧めているのではない。むしろ死人のごとく生きることで、人間が根本的に待つ死の恐怖を克服できるというのだ。そのことを徹底させたのが道元である。
d0151247_2223290.jpg

 禅とは自己の中核たる自我の放棄、すなわち無私、私を無にすることへの提唱である。道元は正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)随聞記第一で「貪欲なからんと思はば、先ず須く吾我を離るべきなり。吾我を離るるには、無常を観ずる、是第一の用心なり」と書いている。無常を身をもって観ることが、我れ、私を離(捨て)ることにつながるというのだ。彼の禅哲学の集大成、「正法眼蔵」では「よのすゑには、まことある道心者おほかたなし、しかあれどもしばらく心を無常にかけて、よのはかなく、人のいのちのあやうきことをわすれざるべし、われはよのはかなきことをおもふとしらざるべし。あひかまえて法をおもくして、わが身わがいのちをかろくすべし、法のためにはいのちををしまざるべし」正法眼蔵 道心 本山版 P.745 とある。
 人の世ははかなく、無常でいいのだ。むしろその無常を徹底的に無常として生きろ、命なぞ惜しむなというのである。そもそも人が死を恐れるのは「生きたい、死にたくない」という思いがあるからだ。生きることに執着するから死の恐怖がある。「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり、・・生すなわち不生といふ」正法眼蔵 生死、本山版 P.737 、つまり、死は生と対極にあるのではなく、生から自然に死に移行していく「ひととき」だけのことにすぎない。それを現実として受け入れれば死は怖くないのである。
 これは自分の煩悩を無くすこと、滅私、私の否定で達せられる。これが禅で言う無の境地である。だが、私が無くなれば世界は他者しか残っていない。無である私は他者でしかない。人間は煩悩によって心が曇らされている。いわば私という色眼鏡で世界を見ている。それが禅の悟りの境地に達すれば、色眼鏡のバリヤーがとれて真理の世界が見えてくるという。
 無の境地に達した人が渓流の音を聞き、山の色を見て「渓声便是広長舌、山色無非清浄身」と言ったと道元は正法眼蔵、渓声山色で書いている。谷川の音はなんと雄弁に真理を語っているか、山の色はなんと清らかであろうか。普通、山は動かず、谷川の水はせわしく流れる。しかし、自分を無にして悟りを得た人にはこれが世間の常識とは違って見えてくる。川の流れは止まり、山は流れるような驚きの姿で見えるというのだ。
 私という存在を成り立たせている自我の放棄、すなわち自己を放下する無私の提唱で自分が無くなれば世界にあるのは他者でしかない。無常を徹底させた無の境地で、逆に他者を認めることになる。そこに世界の真理が定立してくる。
 唐木のこうした説明を読みながら、私はなぜかイザヤ書で言う「民は草」という言葉を思い始めていた。しかし、長くなるので、それについては次回に続けて書きます
また、道元の正法眼蔵について、私の解釈を知りたい方はこちらをどうぞ。
[PR]
by Weltgeist | 2015-11-14 23:51

人生のはかなさ、唐木順三・無常(2) (No.2086 15/11/08)

d0151247_20135657.jpg
 前回の唐木順三「無常」の続き。最初から読む人はこちらをどうぞ。
 さて、王朝女流文学のモチーフは人生の「はかなさ」だと唐木順三は言う。「かげろふ(蜻蛉)日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」と続く王朝文学に出てくる「はかない」という言葉には、自分ではどうにもならない運命の重さ、人生への諦観がにじみ出ていると唐木は読んでいる。人の世はあまりにもはかない。しかし、それが日本人の人生観の根底に無常観を植え込んでいくのである。
 王朝期においては自然の変化や世のはかなさは絶対的なものであって、人間はただあきらめる(P.243)よりほかになかった。気まぐれで浮気な夫たちが戻ってくるのをひたすら待ち続け、じっと耐える貴族婦人の生活。そうやっていくうちに美しく咲き誇っていた花は萎れ、いつしか人生の終末が忍び寄ってくる。そしてどうあがいても花が萎れることを止めることはできない。抵抗は空しい試みで終わる。なすすべもなく萎れていく花のようなわが身を王朝女流作家たちは、嘆きの言葉で日記に綴るのである。
 しかし、いつまでもはかないと言って運命に翻弄されてばかりではいられない。死を避けられない宿命として受け入れた弱い人たちを乗り越える新たな世代が出てくる。死が人間の力を越えた出来事とすれば、それを逆手にとって積極的に受け入れようという強い思想だ。
 それを言ったのは吉田兼好である。兼好は「徒然草」十九段で「折節の写りかはるこそ、ものごとに哀れなれ」と書いているが、ここでいう「哀れ」は王朝女流作家のあわれではない。兼好は人の世の「一切が変化し、無常であるからこそ美しく、あはれだといふやうに、心のもち方によって無常を反ってよしとするに至る」P.243 生き方に達したと唐木は解釈している。というのも徒然草七十四段では「期する處、ただ老と死にあり。その来る事速かにして念々間に止まらず」とあるからだ。この意味は「自らを無常變化の中にあるものとして自覚し、自己の生存が、瞬間ごとに死によって切断されてゐることを自覚するとき、世界はおのづから無常の相において現れる。念々死、念々生として現れる」PP.251-252ことだと唐木は言う。
 では、無常な世を無常に生きるとはどのようなものだろうか。それは至道無難禅師の「いきながら死人となりはてて、思ひのままにするわざぞよき」という歌に端的に表れている。無難禅師はこの歌のあとに「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽、此歌のこころなり」と書き加へている(P.190)。生きながら死人となるとは、死んだように生きよということである。またもっと直接的に「いきながら死人(しびと)となりてなりはてて、おもひのままにするわざぞよき」とも歌っている。死は忌み嫌うものではない。死するがごとく生きる方が良いことになると発想を逆転させているのだ。
 至道無難禅師は臨済宗の祖といわれる白隠禅師の先輩に当たる禅僧である。はかない世の中ははかなくて良い。むしろはかなさを徹底的に生きること、死人のように生きることを提唱する禅の思想に行き着くのである。

この項、次に続きます。
[PR]
by Weltgeist | 2015-11-10 21:56

人生のはかなさ、唐木順三・無常(1) (No.2085 15/11/06)

d0151247_22381437.jpg 古い友人、H君が亡くなったことを知らせる喪中のはがきが来た。友人は72歳、昭和42年、大学院の修士課程に入学したときたった3人しかいなかった数少ない同級生の一人だ。当時は大学院まで進む人はあまりいなかったから、3人はお互いに仲良く研究を続け、修了した後も50年近く親交を結んでいた。そんな心の友が突然逝ってしまい、全身から力が抜けていくようなショックを受けている。実はもう一人の同級生、M君はすでに10年も前に亡くなっていたので、残っているのは私だけである。
 みんなの中で一番病弱であった私が残り、丈夫だった友が先に逝ってしまったのはなぜだろうか。見渡せば同世代の友人が消え果ててもう私の周りに同じ年回りの友人はほとんど残されていない。自分だけが一人長生きすることになってしまったのだ。運命を操る神の意図は分からないが、人生のはかなさを思わざるをえない。
 人が死ぬのはこの世に生を受けたときからすでに運命づけられていて避けることはできない。しかし、そうは言っても親しき者が一人ずつフェイドアウトしていくのはたまらなく寂しい。人の命とはなんとはかないものなのだろうか。

 H君の訃報を聞いてうちひしがれているとき、唐木順三の「無常」を思い出した。「人の世はあわれ、はかない」という嘆きの言葉が中世女流文学者の多くの作品に見られ、人生の無常さがにじみ出ていると唐木は書いている。私は若かった一時期、唐木の「無常論」に強い影響を受けたことがある。友の死で、人生のはかなさを身をもって感じているいま、この本を再び取り出して、若い頃読んだ痕跡をもう一度歩いてみたい気がする。人生が無常であるとはどのようなことなのか考えてみようと思っているのだ。
 「無常」の冒頭、序文には「あわれといふ言葉が源氏物語では千と四十いくつあると数へた好事家もあるが、はかなしといふ言葉、またその類語も王朝の女流文藝作品に實に多く使はれてゐる。」「私はこの言葉の意味内容を歴史的變遷の跡をたどってみたい。そして結論を先に書いてしまへば、はかなしという言葉がふくんでゐる王朝的な心理と情緒が、王朝末から中世にかけて無常に急勾配で傾斜してゆく跡を證してみたいのである」と書いてある。
 唐木はまず道綱母が書いたとされる「かげろふ(蜻蛉)日記」から「かくありしときすぎて、世の中にいともものはかなく、とにもかくにもつかで、よにふる人ありけり」や「和泉式部日記」の「夢よりはかなき世のなかを嘆きさわびつつ明かし暮らすほどに、四月十餘日にもなりぬれば、木のした暗がりもてゆく。」という文章など、公家の女性たちが人生の無常さを嘆き、「はかない」という言葉で表していたと書いている。
 実は私は日本古典文学は得意ではない。古文を読むのも苦手だったが、唐木は中世の無常観は究極的には「禅宗の無」に行き着くと書いていた。当時禅に傾倒していた私はそれだからこの本を特別な興味を持って読んだのである。そして、本の著者・唐木順三が明治大学文学部でやっていた講座に内緒で潜り込み彼の講義を直に聴講するところにまで突き進む思いきった行動に出たのである。

以下続きます。
[PR]
by Weltgeist | 2015-11-06 23:44