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It's all Greek to me (No.2072 15/06/30)

 注目されていたギリシャ危機、19か国財務相会議でユーロ圏諸国は6月30日から先、ギリシャの支援をしないと決定した。今日中にIMFに返さなければならない借金が15億4000ユーロ(約2200億円)あるが、ギリシャは金がないから払えない。そのための支援をしてくれとユーロ圏諸国と交渉してきていたがこれがどうやら物別れになったようだ。
 これまでユーロ圏諸国は総額で3130億ユーロ(日本円で42兆円余り)も援助してきたにもかかわらず、一向に状況が良くならないから「援助してもいいけど、それならお前たちももう少し節制ある態度をしろ」と痛みを伴う緊縮財政案をギリシャに突きつけたのである。これに対してギリシャのチプラス首相は「ギリシャ国民に年金引き下げなどの痛みのある政策をやっていいかどうか、来月5日に国民投票で問うから待ってくれ」と逆提案してきた。
 しかし、チプラス首相の本音はユーロ諸国からの借金を返す気などサラサラないように見える。「こんな巨大な借金は返せない。支援を停止してデフォルトになっても俺は知らないぜ」という態度である。
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 質実剛健なドイツ人は困っているギリシャを助けるためにこれまで560億ユーロ(約7兆8000億円)もギリシャ国債を買ってあげているのに、ギリシャ人たちは贅沢なことを続けている。これが面白くない。何しろ金がないと言っているギリシャ国民の4人に一人が高給とりの公務員で、彼らの給料は民間の3倍、年金生活者でさえ日本の年金より倍以上多い金額をもらっているのである。金はないくせに贅沢なキリギリス的生活を借金でやっているとドイツ人には見えてしまうのである。
 だが、それだからこそチプラスは強気になっている。もしギリシャがデフォルトにでもなれば、ドイツさん、困るのはお宅の方ですよ。これまで支援した560億ユーロが消えて無くなりますよ、と足下をみているのだ。ここでは債務者と債権者の立場が逆転しちまっている。借りた方が借金取りより強くなっているのだ。上の写真を見ればチプラス(左)とメルケル(右)の関係が分かる。チプラスは「借金なんてあったけ・・」ととぼけた顔をしているのに、メルケルは笑顔の下に苦々しい引きつりが垣間見える。

写真は本日の The Economist 電子版 ”Greece's debt negotiations.The neverending story” からDLしました。 

 ギリシャは西欧文明発祥の地で、色々な学問はここから生じた由緒ある国である。だから西欧の学者たちは学問の基礎をギリシャら学び取ろうとしていた。ギリシャは欧州文明の祖として深く尊敬されていたのである。だが、時代は変わった。今やギリシャはEUのお荷物で、欧州の面汚しのような扱いを受けている。チプラスの態度もそうだし、国民は身の程をわきまえずに借金で贅沢な暮らしをし、国民の義務である税金を払わない人がゴマンといるという。何でここまでひどい状態に落ちぶれてしまったのだろうか。
 以前 It's all Greek to me という言う方を教わった。これは「私にはさっぱりわけが分からない。ちんぷんかんぷんです」という意味である。Greek ギリシャ人 という言葉にはいかさま師、詐欺師、チンプンカンプンというひどい意味がある。また、greek gift と言えば、受取人に災害をもたらす贈り物という最悪に馬鹿にされた意味で使われている。もし英語の Japanese に詐欺師というような意味を持たせるとすれば、日本人なら誰だって怒り出すだろう。しかし、英語の Greek にはいつしかこのような悪い意味が込められてしまい、西欧の人たちに芳しくない国民と見られているのである。
 私のような経済の素人にはこれからギリシャ危機がどうなっていくのか予測できないが、最悪の結果でデフォルトから世界経済がリーマンショック以来の新たな危機にまで発展しないことを願うのみである。そしてギリシャ人はぜひこの不名誉な言葉の意味を実際の行動で示して良い意味に改善してもらいたいものである。
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by Weltgeist | 2015-06-30 23:58

Windows8.1 ってひどく使いにくい、駄目OS じゃないか? (No.2071 15/06/26)

 我が家を飛び跳ねる二匹のいたずら猫が、妻のノートパソコンの上にお茶をぶちまけてしまった。私も妻も現場を見ていないからどのような状態で惨事が起こったのかは分からない。濡れたパソコンをあわてて拭いてみたが、いくら乾かしてもウンともスーとも言わないので、壊れてしまったようだ。
 そして悪いことには光ファイバーのルーターもそのとき動かなくなってしまった。猫がルーターもひっくり返して電源稼働中の無線LANカードが抜け落ちてしまいカードが壊れてしまったのだ。今の時代にデジタル環境から引きはがされたら生活はできない。年金生活者には痛い出費だが、しかたなくパソコンとルーターを新しい物にとり換えることにしたのである。
 幸いルーターはNTTが無料で最新の物に取り替えてくれたが、ノートはそうはいかない。近所のY電気へ行って、安いWindows8.1のノートパソコンを買った。しかし、安いということは楽にセットアップできるものではないということでもある。面倒なソフトウエアのインストールなど、全部自分でやらなければならないが、MS-DOSの時代からパソコンを使ってきた私は、そんなことは簡単、お茶の子さいさいだと思っていたのだ。だが、最新のデジタル機器の設定は想像以上に面倒だったのである。
 購入したパソコンを箱から取り出して、セットアップマニュアルに沿って立ち上げていく。しかし、Windows8.1 というのは何と分かりにくいOSだろうか。これまで使ってきたWindowsXP や 7 とはまったくインターフェースが違う。Windows7 ならデスクトップ上にあるアイコンをクリックすればアプリが立ち上がるのだが、スタートの画面から全然異なったもので、どうやったらいいのか分からないのだ。
 さらに「泣きっ面に蜂」のような問題が起こった。セットアップの途中でインターネットに接続していないとパソコンが使えるようにならないのだが、その大元であるルーターの設定は、パソコン側からやらなければならない。それなのにパソコンの設定ができていないからルーターも設定できない。卵が先か鶏が先かと同じで、どちらもうまくいかないのである。
 しかし、丸一日これととっくみあいをして、何とか使える段階までもっていくことはできた。その間に四つもアカウントを設定させられて、四つのパスワードを作らされるなど面倒な作業を分かりにくいWindows8.1の画面でやらなければならず、ほとほとこの最新OSの使い憎さに嫌気がさしてしまった。
 作業の手順を調べるためしばしばネットでセットアップのやり方を検索したら、沢山の人が「Windows8.1は使いにくい」とか「くそソフトだ」といった批難の言葉が載っていた。慣れの問題もあるかもしれないが、私もこれはその通りだと思った。最新の物ほど便利で使いやすいと思っているととんでもない目に遭うと言っておきたい。
 はっきり言って、Windows8.1、これは駄目OSである。何でこんな使いにくいOSにしたのか、マイクロソフトに尋ねたい気持ちだ。
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by Weltgeist | 2015-06-26 23:59

懐かしい本、ヘルマン・ヘッセ 「シッダールダ」 (No.2070 15/06/19)

 ヘルマン・ヘッセのシッダールダは私がまだ10代だった頃に読んだ懐かしい小説である。しかし、当時名作と評判になっていた割には、読んでみてそれほどの感銘を受けた記憶がない。語られる内容が人生の究極的な悟りのことだから、すごいことなのだろうが、それは若かった私の理解の範囲を越えていた。「フーン、悟りの世界ってこんなものなのか」という程度の漠然とした感想しか受けなかったのである。
 しかし、人生を総括できる年齢にまで達した今の私なら、昔と違った印象を得るかもしれないと、先日もう一度読み返してみた。残念なことに再読しても昔の記憶がなかなかよみがえってこず、随所に散らばっているはずの私のかすかな記憶の痕跡さえ見つけられなかった。しかし、それだからこそ私はまるで初めて読むような新鮮な思いでヘッセの考える人生の究極の意味を自分なりに理解することができたつもりある。
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 インド最高階級であるバラモンに生まれたシッダールダは、若い頃から聡明で、誰からも愛される幸せな人物だったが、なぜか自分に満たされないものを感じ、沙門(しゃもん)という修行僧に身を投じる。彼は「自分の中に持っている自我の最も奥深い中にある究極のもの・・・世界を創った真我(アートマン)」を追求していきたいという思いに駆られて修行僧の世界に飛び込んで行くのである。
 そしてシッダールダは必死に修行を続け、真理を見つけようとする。だが、それはどうしても見つけられない。それどころか60歳にもなる先輩修行僧でも迷いの中をもがいているのを見て、一緒に修行に出た親友のゴーヴィンダに、ああした先輩たちが「70歳になり、80歳になっても、彼らが涅槃に達することはないだろう」と懐疑的なことを言いはじめる。ゴーヴィンダは「あれほど多くのひたむきに励む人々のうち、誰一人も道の中の道を見いだせないなどということがあり得るだろうか」と反論するが、失望したシッダールダの気持ちを止めることはできない。
 そして沙門を諦めたシッダールダとゴーヴィンダは舎衛城の町で世尊仏陀と出会う。仏陀、すなわち釈迦の本名はガウタマ・シッダールダである。ヘッセが主人公のバラモンをシッダールダと名付けたのは彼が釈迦と同じく究極的な悟りの世界への道を歩む人と見なしているからである。
 釈迦はシッダールダの前に完璧なまでの姿で現れる。親友のゴーヴィンダはそれに感銘して釈迦に帰依する決心をする。しかし、シッダールダは釈迦が涅槃に達したのは分かったが、それは釈迦自身の「悟りの体験」があったからで、自身はそうした体験を経ていない。だから、自らが涅槃に到達するための旅に出ると釈迦に言って友とも離れて町に戻っていく。
 だが、町に戻った彼は激変する。遊女・カマラーと知り合い、商人として成功の道を歩み始め、大金持ちになるのだ。しかし、そのことが彼の精神を蝕む。彼は愛欲に溺れ、金、金とあくなき欲望を追求するが、ある日その醜さに耐えられなくなって突然町を飛び出す。財産も愛人であるカマラーも捨てて、みすぼらしい乞食の身で森の中に入っていく。そして何日も食事をしていない彼は大きな河のほとりで行き倒れになる。だが朦朧とした意識の中で河が語りかけてくる言葉を聞いて、忽然と悟りを得るのである。河は次のように語っている。
 「世界は不完全なものではない。徐々に完全なものになりつつあるのではない。世界はあらゆる瞬間において完全なのだ。・・・一切の存在した生命を同時に見られるときがある。そのときこの世にあるすべてのものはすべて善であり、すべて完全であり、すべて梵なのだ」(臨川書店発行、ヘルマン・ヘッセ全集12巻シッダールダ P.112)と。世の中は不幸なことばかり続く出来損ないのひどい所のように見えるが、実は世界は完璧で調和に満ちている。だが、煩悩に囚われた人にはその真理が見えない。それをシッダールダはついに分かったのだ。彼はここにおいて釈迦と同じ涅槃に到達するのである。
 シッダールダはこの世のあらゆる真理を河が語る言葉から理解する。そして「知識は伝えることはできるけど、叡智は伝えることができない。それは見いだすことができるし、それを生きることはできる」と禅宗がいう悟りのようなことを言い出す。そして「あらゆる真理はその反対も同様に真理である、ということだ。つまり、真理というものはそれが一面的である場合にのみ表現することができる言葉につつまれ得るのだ。思想で考えられ、言葉で表現できるものはすべて全体を欠き、完全を欠き、全一を欠いている」と、まさに西田幾多郎が言う絶対矛盾的自己同一の位置にまで上り詰めるのである。言葉はどんなに優れていても真理の一面しか示せない。言葉で真理は語り得ないのだ。真理はただ涅槃を自ら体験するしか知り得ないのである。
 この小説の冒頭には「敬愛する友ロマン・ロランに捧げる」とある。ここまで読んだとき、なぜヘッセがロランにシッダールダを捧げたかが分かった。それはロランの「魅せられたる魂」の中で語られるアンネット・リビエールの思想、すなわち人生は河のように流れて、最後は母なる海に流れ着くという思想と呼応しているからだ。
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by Weltgeist | 2015-06-19 23:59

俺は俺だ (No.2069 15/06/11)

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 若い頃は人が自分をどのように見ているのかとても気にしながら生きてきた。自分の信念通りに生きるというより、人が私をどのように見ているのか、彼らに気に入られるように生きてきたと言っていい。いつも他人の評価に縛り付けられた自主性のない生き方である。
 ところがそうでありながら、人から見られていない場所では、自分のエゴ丸出しのかなり自分勝手なことばかりやってきた。まるでジキルとハイドのような矛盾した生活だ。それでいて不思議なことにその矛盾に違和感を感じない。見えないところでは一番大事なのは「俺様」となり、人の評価などどうでもよかったのである。
 実際の私は他人のことなど少しも考えない、自分勝手な人間であった。だから人の目があるところで「良い子」を演じても、見えなくなるとすぐさま自分勝手になる。他人の目に触れるときだけ人を気にする「良い子」は、決して他人を尊重しているわけではない。他人を認めているようでいて、あくまでも鏡に映った自分を見ているに過ぎないのだった。
 ところがそんな私が最近になって世間からどのように見られようとどうでもいい心境に変わってきている。自分を格好良く見せようとも思わない年齢になってきたからだろうか。猫と同じように人の目を気にすることなく自分のやりたいように生きている。それでいて若い頃の自分勝手とは全然違う「自分」を見つけた。
 しかし、世間の評価を気にしないといっても、自分のわがままを押し通すことではない。自分に自信があれば人がどう思おうとそれに左右されることはない。人の目を気にするのは自分ができていないからだ。人に何かを言われてもビクともしない強固な自分を持てればいいのである。
 そうした強固な自分の獲得とは、徹底的な自己追求の果てに得られる「私・自分自身」の否定、私を抹消した「無私」である。本当の意味で自分を確立すれば、そこに至って初めて本当の意味での他人も見えてくる。自分だけの色眼鏡を通さない他人だ。
 自分を追求していけば無私に行き着くというのはひどく逆説的で矛盾しているが、自分の確立とは実は自分を無にすること、空しくすることである。私が無なら、見えてくるのは他人ばかりである。自分とは他人を認め尊重するということの自覚だ。他人に何事かを要求するのではなく、他人が望むことをやってあげる。相手を認め、自分をその人のために与えてあげようと決心すれば、世界は全く違った様相に見えてくるのである。
 若い頃禅寺に通って無心になろうと、せっせと座禅を組んだ。しかし、老師がいう無の境地にはついぞ達せられなかった。いまは自分を無にするのにむずかしい座禅を組む必要はないと思っている。すなおに自分を控えさせ、他者を認めてあげればいい。ここで見える世界こそ禅で言う無の境地と同じものではないのかと思えているのだ。
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by Weltgeist | 2015-06-11 23:59

猫額庭の戦い (No.2068 15/06/05)

 我が家には猫の額ほどの貧弱な庭がある。庭と誇れるほどの代物ではないが、とにかく少しは植木や花が植えられている。そのわずかな庭のスペースで今、私と妻が占有権を巡って火花を散らせている。いままで庭は妻のささやかな憩いの場であった。そこに私がチョウチョの餌となる様々な草木を植え始めたからだ。私がチョウチョの採集に目覚めたのは2008年。それまで彼女が育てる庭の花にさしたる興味もなく、庭いじりなどもやったことがない。それがチョウチョの採集に凝りだしたら、突然様々な「チョウチョの餌」を庭に植え始めた。そのことで軋轢が生じたのである。
 蝶は完全変態といって、卵→幼虫→蛹→成虫と姿を変えて最後に蝶となる。ここで問題になるのは幼虫の時代だ。彼らは美しい蝶とはまるで違う気持ちの悪い芋虫、毛虫の姿をして、植物をせっせと食べ尽くす。それでも美しき蝶に変身するのだが、毛虫=蝶であることを知らない世間の人たちは「害虫」としてこれを嫌うのである。
 小学校の理科で習った完全変態を忘れた人は短絡的に「害虫」と思うが、私は嫌われ者が最後はチョウチョに変身するところを見たい。そのため庭のすみの方で彼らの餌となる「食草」を遠慮がちに鉢植えし、幼虫を飼育していたのである。しかし、最初は細々だったのが、育てる蝶の種類が増えるにつれて年々種類も数も増えてきた。これが妻の憩いの場を圧迫してきたのである。彼女が「庭をいじるのはやめてください」と言ってきた。といっても私がそれを止めればいま飼育している幼虫は餓死することになる。私はなるべく妻を刺激しないようにしながらも、馬の耳に念仏で食草を育てることをやめなかった。
 かくして猫額庭の静かな戦争が勃発した。さすがに妻も私の食草を捨ててしまうまでの強硬手段はとらないが、食草の植わっている鉢に彼女がお気に入りの花を知らんぷりして植えることで反撃してきた。彼女が得意なのはアジサイの枝を鉢に挿しておくことだ。すると挿された枝からたちまち新しい根が出て、勢いよく葉っぱを広げてくる。これまで庭いじりや植木の世話などやったことのない私は、植物の育て方はまるっきりの素人。ベテランの妻が食草の鉢に挿したアジサイは、たちまち成長して食草を圧倒する。
 こうなると根の付いた挿し木を鉢から抜くわけにもいかず、食草は枯れてしまう。私は連戦連敗で分の悪い戦争を強いられているのである。
 我が家の庭が広大なら何の問題も起こらないだろう。小さな小競り合い程度の争いは窮乏から生まれる。余裕のない貧乏人はこんな些細なことでも苦労しなければならないのである。
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日当たりの悪い庭のすみの方に居候状態で置かれている私の食草。ブナはフジミドリシジミの食草。その前にあるベンケイソウは中国にいるオオアカボシウスバシロチョウ用。シオジはウラキンシジミ、マンサクはウラクロシジミ、キジムシロはチャマダラセセリの餌である。こんな小さな鉢植えでも妻が大事にしているハーブやブナの後ろにある葉っぱの大きい草(多分シュウメイギクではないかと思う)を圧迫していると文句を言われ、肩身の狭い思いをしている。
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by Weltgeist | 2015-06-05 23:42