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久しぶりのメキシカントレイン (No.2067 15/05/28)

 バウマンさんのところにアメリカからお客さんが来ているので、一緒にゲームを楽しまないかとお誘いを受けた。お客さんはカリフォルニアに住んでいるウイルソン夫妻で、以前日本にも住んだことがあり、日本語はペラペラ。彼らは沖縄にもいたことがあり、沖縄の方言もわかるのだそうだ。彼らと話しているとジョークでときどき沖縄言葉が出てくる。これが私にはちんぷんかんぷん。ある意味では我々以上に日本を知っている人たちである。
 ご主人のマイクは現役時代、NASAの専属カメラマンでカリフォルニア州パサデナのジェット推進研究所で仕事をしていたという。NASAといえば世界最先端の宇宙研究機関。スペースシャトルやアポロ宇宙船など抜群に面白い被写体を仕事で撮っていたのだろう。
 カメラ小僧の私も一度でいいからこうした宇宙ロケットの写真を撮りたいと思っていた。しかし関係者以外は遠くからロケット打ち上げの様子を見るしかない。それをすぐ近くでしかも仕事として撮影できるのだ。そんな撮影ができるとはなんて素晴らしいことだろうか。私はかなり興奮気味にマイクの話を聞かせてもらった。彼は仕事を離れたプライベートでもハッセルブラッドやシノゴ(フィルムサイズが4インチx5インチの大型)カメラを持ってヨセミテなどを撮って歩いたという。
 しかし、デジタルになった今は iPhone を愛用していて、デジカメはやらない。これまで納得のいく写真をフィルムで沢山撮ったから、もう iPhone で十分なのだろう。リタイア後は悠々自適の老後を楽しんでいるようだ。
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 右がマイク、その隣が夫人のメアリー・ジョーさん。バウマンさんが作ってくれた本格的なアメリカンハンバーガーをごちそうになったあと、久しぶりに6人でメキシカントレインのオセロゲームをやった。テーブルの上に転がっている白い牌の数字を合わせていくゲームで、麻雀に似ていてなかなか頭を使う。この日の私は、ハンバーガーがおいしくてついつい食べ過ぎてしまったせいか、頭がうまく回転しなかったが、何とか二位で終わった。一位優勝はマイク。さすがである。しかし、私は二位で、いつもやられっぱなしの宿敵だった妻を撃破したのだから上出来だった。
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by Weltgeist | 2015-05-28 17:36

高山病と幻覚 (No.2066 15/05/24)

 以前カシミールでマハラジャウスバシロチョウという高山蝶を採っていて高山病にかかったことがある。それまで自分は何度も5000mを越える山を歩いていて何ともなかったから、高山病には強い体質かもしれないと過信していた。それが全くの思い違いであったことがわかり、かなり危ない思いをしたのだ。
 カシミール特産のマハラジャウスバシロチョウは標高が5000mを越えるガレ場にいるパルナシウスと呼ばれるウスバシロチョウの仲間で、大きさは 5㎝くらい。採るのが難しいレアな蝶である。なぜレアかというと、この蝶が生息する高所まで登っていくのがまずたいへん。そして登ったところで簡単にはいかない。ヒマラヤ方面からくる特有の強い風に乗って地面すれすれをすごい早さで飛んで来るのでよほど目をこらしていないと見つけられないうえに、蝶はどちらの方向から飛んで来るか分からないからしっかり目を見開いて、360度、全方向にたえず注意を払っている必要がある。それでも気づくのが遅れると採り逃がす難しい蝶なのだ。
 だが、この日の私は十分に睡眠をとって、ファイト満々にマハラジャが生息する5300mの高所まで登って行った。ところが登っていくうちに、なぜか猛烈な睡魔が襲ってきて、目を開けていられなくなったのである。こんな情けない状態では蝶を見つけることはできない。「頑張れ。眠るんじゃねぇ」と自分に叱咤激励してみたが、まぶたが自然に降りてくるねぼけ状態から脱出できない。
 ちょうど居眠り運転で一瞬意識がなくなるように、うつらうつらしてどんなに頑張っても居眠りしてしまうのだ。ところが、そのとき5mほど先に白い蝶が飛んで来たのが見えた。マハラジャが飛んで来たのだ。ついにみつけたぞ、ここで眠ている場合ではない。そう思ってしっかり目を開いて捕虫網を構えると、ついいましがたまで見えていたマハラジャがいない。
 チャンス到来だというのに、ヤツはどこへ行ってしまったのか。こんな絶好のときなのに猛烈な睡魔は相変わらずで、まぶたが上下にくっついて眠ってしまいたくなる。「なにくそ、眠るものか」と意識して目を見開こうとするが、先ほど見えた場所に蝶の姿はない。だが、不思議なことに目をつぶるとまたマハラジャウスバシロチョウが飛んでいるのが見える。
 本来、物を見るには目を開けているのが当たり前で、つぶっていては何も見えない。ところが、目をつぶっているとき見えるということは夢を見ているのと同じだ。現実には何もいないのに、まぶたの内側に焼き付いたマハラジャをつかまえようとして、必死に目を開けようとしていたのである。
 この時の私はマハラジャの幻影を見ていたのにそのことに気がつかなかったのだ。もうこの時点で夢と現実が錯綜して、何が事実なのか分からなくなっていたのである。 あとになってこれが高山病なのかと気がついた。
 夢と現実が一体になって区別できない。この状態のままずっと山にとどまっていれば高山病が進行して、危ういことになったろう。私はかろうじて危険な状態に気がついて、あわてて高度の低い場所に、意識朦朧なまま下って事なきを得たのである。
 かくして、私はレアなこの蝶の幻影は見たけれど、現実にはいまだマハラジャを手にできない幻のままでいる。
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by Weltgeist | 2015-05-24 23:27

Bird of a feather flock together. (No.2065 15/05/09)

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 あるアメリカ人から Bird of a feather flock together.ということわざを教えてもらった。同じ色の羽を持つ鳥は群れて集まるという意味である。だが、そういう鳥は違う色の鳥を排除する傾向があるから注意せよという警告が含まれているのだという。鳥のような野生生物は同じ羽の色から同種であることを確認し、他の鳥たちとは交わらない。それが自然の知恵である。鳩と鷹はお互いに羽の色や姿形から異種であることを認識して、交わることはないのだ。しかし、この言葉を人間に当てはめてみると、その中に興味深い集合と排除の論理が垣間見えてくる。
 同じ色の鳥たちが群れて集まるように、同じ考え方の人が交わることはとても気持ちがいい。たとえば私は蝶や釣りが好きな人と会うと時間が経つのを忘れるくらい熱中する。だから彼ら同好の士と会うのはとても楽しい。しかし、それがたわいもない趣味程度の話なら、何の問題も起こらないが、もっと人間の根幹に関わるところになると複雑な問題が出てくる。人の色は多種多様で、その利害がぶっつかるとしばしば排除の論理が働いて、困ったことが生じてくるのだ。

 以前、ある知り合いが、めまぐるしく「友達」を取り替えているのを見てちょっと異常ではないかと思ったことがある。彼は新しい「友達」ができると最初はべた褒めで、「あんな良い人はいない」とこちらが驚くほどの絶賛ぶりをする。ところがしばらくすると、その「良い友達」とは分かれて、「あんなひどいヤツはいない」と、悪口を言い始める。最初の蜜月状態とは真逆な険悪な関係になって喧嘩別れするのである。面白いのは、そのあと彼が新たに見つけてきた「友達」が前の友達ととてもよく似たタイプだということだ。
 知り合いは「友達」のなかに自分の好むカラーを見いだし、その色が自分と同じと幻想しているのである。しかし、現実にはどの人にも「個性」があり、絶対に同じ色ではない。だからしばらくつきあうと違いが目についてきて、わがままな彼は我慢できなくなる。しかし、孤独な彼はひとりぼっちではいられないから、もう一度同じ色の羽を持っていると思われる(錯覚であるが)新しい「友達」を見つけてくる。こうして彼は虚しい作業を一生涯続けるのである。
 ここにあるのは真の友情関係ではない。オブラートにくるんだ自分の欲望を相手に投影しているだけで、それ以外の色は頑ななまでに拒んだ「偽りの友情」にすぎない。人と人を結びつける「絆・きずな」は他者へのリスペクト、尊敬、尊重から生まれる。他の人にも彼なりの人格があり、色がある。それを心から尊重してあげるところに真のきずなができるのである。これは自己中心的な「私我」があると作り出し得ない。お互いがそれぞれのカラーを捨てた「無私」によってできるものである。
 お互いが対等で相手の立場、個性を心から認め合うこと。どんな色に染まった人でも分け隔てなく集うのが成熟した人間のやるべきことである。決して自分の心の底にうごめく「私の色」の投影だけで徒党を組んではならないのだ。
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by Weltgeist | 2015-05-09 23:59

ご無沙汰中のうわさ話 (No.2064 15/05/04)

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 このところすっかりブログの更新をしないでいたら、その間にとんでもないうわさがひろまっていた。以前親しくしていた古い友人から電話があり、開口一番「良かったーっ」と言う。どうやら私が死んでいるといううわさ話が友人の間で広まっていてその確認に電話をしてきたらしい。うわさの出所をたどると、昨年の秋に私が救急車で担ぎ込まれて、二ヶ月間入院したことが、「死んだ」ところまで発展したようだ。
 友人は無責任なうわさを信じたことを詫びた。そして私が今なおこの世で頑張っていることを喜んでくれた。しかし、これは逆である。私の方こそまだ自分が生きながらえて、命の大切さを再確認させてくれた友人に感謝しなければならないのだろう。
 しかし、それでもこうしたうわさが流れるということは、いつあの世からお呼びがかかってきてもおかしくない年齢に達したということでもある。明日そのようになっても全然不思議でない年代ということだ。とすれば私をこの歳まで生かしてくれた神に感謝するしかない。なぜなら、人の生死の決定権は私本人にはない。それは神様の専任事項だと信じているからだ。
 今になってつくづく思うのは、自分は神様に生かされているということだ。思い出してみれば自分はこれまで何度死にかかったことがあっただろうか。まだ20代前半の頃、ロッククライミング中にハーケンが抜けて50m以上墜落したときも、北穂高滝谷で落石がほんのわずかにそれて落ちていったときも、友人の運転する車が正面衝突して車が一回転する大事故に巻き込まれたときも、さらには二度にわたる心臓弁膜症の手術(第一回目は昭和40年で、この頃の心臓手術の死亡率は20%と言われた)も無事乗り切ってきた。それ以外にもエトセトラ、エトセトラ、ここではとても書けないような絶体絶命、紙一重の危機を何度も経験してきた。よくここまで生きながらえてこられたのか、自分でも驚くほどである。
 そんな修羅場を紙一重でパスしてきた私は、やはり神様が「お前は生きろ。生きて人のために何かをなせ」と命じている気がしてならない。使命感というようなものを今の私はひしひしと感じている。生意気な言い方を許してもらえば、若い頃考えても考えても分からなかった人生の意味が、この歳になってようやく分かってきた気がするのだ。
 私がつかんだ意味は幻想であるかもしれない。しかし、それでもいい。私は自分がつかんだ「使命感」に基づいてこれから残された人生を力の続く限り生き抜いていこうと思っている。
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こんな美しい蝶やのどかに戯れる猫たちを見ていると、生命とはなんと素晴らしく、輝かしいものであるかと思ってしまう。生きていることは素晴らしい。この世に生まれてきた以上、それをたっぷり味わい尽くしたいものだ。
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by Weltgeist | 2015-05-04 23:35