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愛国主義と民族主義の違い (No.2054 15/02/25)

 今日、2月25日の朝日新聞朝刊に、米国の人類学者、パトリック・ルーカスの「中華民族復興」というインタビュー記事が載っていた。その中で中国の愛国主義と民族主義の違いを面白い観点から論じていたので今日はそれについて考えてみたい。
 愛国主義には健康的な部分もあり、必ずしも他者を傷つけるわけではないとルーカスは言う。しかし民族主義は愛国主義と違って根底に差別意識がある。「俺は優れた特別なもの、だからやりたいことができる」という選良意識が中国民族主義のなかにうごめいていると言うのである。中華思想、すなわち中国は世界一と思う優越観が他者を傷つけることにつながりやすいのだ。
 中国では1995年頃から江沢民が愛国主義教育を強めていった。ところが、そこから生まれて来たものは愛国主義というより民族主義的なものだった。かっての日本や西欧から受けた被害の歴史を強調し、日本人などの侵略行為の記憶が呼び起こされたのだ。このことから「ほかの民族は堕落して野蛮であり、自分たちは善良無辜(むこ)である」という偏った民族主義が形成されていく。こうした民族主義の根底にあるのは被害者意識である。
 中華人民共和国が建国した頃の毛沢東時代、「中華民族は勝利者の物語」を持っていた。80年代まで統治者(共産党)は「被害者の物語」を必要としていなかったのである。しかし、共産党の指導に従えば自転車もミシン、テレビも持てるようになりますよと指導し、それを実現すると人々は変わってくる。物質的な欲望がある程度満足した人々は次には精神的な欲求も満足したいと考え始めるのである。すると立ちはだかるのは社会の不平等だ。権力者や金持ちが思いのままにふるまうのに、そうでない人々は満たされずに不満がたかまる。これが被害者意識を増幅するのである。
 それなのに共産党は何もしてくれない。人々は共産党に期待しなくなる一方で、何も社会的な貢献をしない人々が生まれてくるというのである。指導者が何を言おうが自分の人生には関係ないと思ってしまう人々が出現してきたのである。
 こうした統治の空洞化に危機感を持った共産党は愛国主義という言葉を使いながら民族主義という新しい帽子で統治するようになっていく。民族主義とは実は中身のない空っぽなものだから、ここに「歴史問題」などを入れ込めば為政者は容易に統治に利用できるのだ。中国共産党は民族主義をこのようにして自分たちの地位保全として利用していくのである。
 しかも生まれてきた民族主義は数ある少数民族を含む全中国民のものではなく「漢民族の主義」、すなわち漢民族主義だった。多民族国家の中国で漢民族だけが優遇された支配階級になれるという矛盾。これがチベットや新疆ウイグル自治区などで民族紛争を生じさせている。中国は民族主義を煽りすぎたことで、コントロールできないほど危険で難しい袋小路に入り込んでしまったのである。
 愛国主義と民族主義は似ているようでいて、根底にあるものが全然違う。国が発展していくことを心から喜ぶ愛国主義と、「わが民族は選良だ。だから何をやっても許される。愛国無罪」と誤解する民族主義とは水と油のように違っていることを今日の記事で教えてもらった。そうした目で現在の東アジア情勢を見ると、中国の反日思想も、韓国の歴史問題も、日本のヘイトスピーチ問題もその足下が見えてくる。自国だけが優れていて他国を見下す褊狭な民族主義は結局為政者の巧妙な人民支配の道具として利用されるだけで、他国との対立しか生み出さない不毛なものなのである。
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昨日、エンジェルの写真を掲載したとき、「これでどちらかの手を上げてくれれば招き猫のポーズになるのだが」と書いたら、今日、招き猫ポーズをした写真を見つけた。ちょっと姿勢に無理があるが、これでも「福はこちらへ」と呼び込みしている招き猫のように猫馬鹿の私には見えるのである。
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by Weltgeist | 2015-02-25 23:56

エンジェルは可愛い子猫の段階を卒業しちゃった (No.2053 15/02/24)

 最近サボり癖がついてこのブログの更新をずっと放っている。いつまでも何も書かないでいると次第に蜘蛛の巣が張った廃屋みたいになって誰からも顧みられることがなくなるだろう。そうならないためにもせっせとブログを書き続ける必要があるが、どうも書き続けるだけのガッツがない。それと、今はアメリカの言語学者、ノーム・チョムスキーを読んでいて個人的にこちらが忙しい。読み終えたらチョムスキーについて書いてみようと思っているが、今日のところはまだそこまでも行っていない。それで蜘蛛の巣廃にならないためのつなぎとしてエンジェルの写真をまた掲載することにした。
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 昨年の8月に我が家の庭に捨てられていたエンジェル、子猫のときは可愛くてどこを撮ってもサマになったが、最近急激に大きくなって、普通の猫と同じになってしまった。こうなるとなかなか可愛い仕草を撮るのが難しくなる。今回、撮って見たらちょっときつそうな目で私の方を見ていて、子猫時代のような可愛さはなくなっている。それでもこの格好でどちらかの手を上げてくれれば招き猫のような愛くるしいポーズになるのだが、しばらく待っていてもこちらの期待するまねはしてくれない。
 やはり猫は自主性が強いから、簡単には飼い主好みのポーズなどやってはくれないのだ。そのくせエンジェルは猛烈に食いしん坊で、すぐに腹が減るらしくミャーミャーと泣いて餌をせがむ。自分の要求を押し通すときだけ主人様である私に嘆願し、食べ終わるとさっさとどこかへ行ってしまう。まことに勝手気ままに自分を押し通すことが許される羨ましき生き物である。まあ、私が猫好きなのはそれがあるからだが・・・。
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by Weltgeist | 2015-02-24 23:57

他人の後ばかり追う物まね屋さんたち (No.2052 15/02/16)

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 世に天才と言われる人は誰の手助けもなしに、すごいことをやってしまう。思いもかけないことを自分の能力だけでやり遂げて、われわれをアッと言わせるからこそ天才と言われるのである。しかし、先行する人の尻ばかり追いかける物まね屋は絶対に天才になれない。彼らは他人の成果をお手本にする以外に先頭を走ることができないのである。いつも物まねから抜け出せない亜流のセカンドランナーから一流と呼ばれる人は出ないのだ。
 誰もがやったことのない未知の世界への挑戦は何の明かりもなければ標識もない暗闇との戦いである。お手本なしに真っ暗な未来を手探りで突き進むにはものすごい能力が要求されることだろう。天才はそれを生まれながらに授かった力でやり遂げてしまう。
 天才にはわれわれがとうてい持ち合わせていない驚異的な才能がある。これは凡人がいくら努力を重ねても得ることができない。天才だけに与えられた神様からの特別なギフトである。われわれがいくら欲しいと望んでもこれだけはどうしようもないことなのである。
 それでもわれわれ凡人は天才から多くのことを学ぶことができる。まず第一にやらなければならないのは人の尻を追いかける物まね屋を止めることである。キョロキョロと他人を見つめることまではいい。しかし、盲目の追随はいただけない。他人の優れたところを学んだ後は、自分の信じる道を進む。
 人と同じ事をやっていてはいつまでたっても凡庸さから抜け出せないだろう。人が右と言ったら左にも何かあるのではないかと思う天の邪鬼さ。要するに世間の常識にとらわれない柔軟な思考力が独創的なことを産む必須の前提条件ではないかと思うのだ。もちろん、それには猛烈な努力を続けて、少しでも優れたものを目指すことが裏付けであるのは言うまでもないが・・・。
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by Weltgeist | 2015-02-16 23:57

今日の一枚 (No.2051 15/02/14)

 まだ万全ではない病人の身だが、リハビリと体力増強を兼ねて前の山を歩き始めている。片手に杖、首からはカメラをかけて寒い中、本日もお出かけをしてみた。杖は歩くときの強い味方だから絶対手放せないが、カメラは歩くのに邪魔である。でも、カメラ小僧の私は出かけるときたいていカメラを持って出る。いつ何時良いシャッターチャンスに巡り会えるとも限らないのでカメラが手放せないのだ。
 といっても歩き慣れた前の山は見飽きた平凡な風景ばかりで、目新しい雰囲気のある被写体を見つけることはほとんどない。新鮮なイメージの写真などいつもの散歩コースで見つけるのは無理なのだ。それでもカメラを持ち出すのは、カメラ小僧だったときの習性が残っていて、カメラなしで歩くと不安になるのである。

 それでエディーバウアーのダウンジャケットで防寒対策万全な完全武装をしていざ出撃。まだ長い距離を歩けない私は、病気になる前、勝手に「初心者コース」と名付けていた全行程1㎞ちょいの簡単な林間コースを歩くことにした。
 このコースは、まず我が家の窓から見えている高低差30mほどの稜線まで登って、そこから今度はダラダラした下り坂で反対側の斜面を降りていく。そして、500mくらい歩いた所にある鳥撮りバードウオッチャーが集まるポイントのすぐ先で同じ道を引き返す。
 これでちょうど1㎞ちょっと、元気なころなら鼻歌交じりで歩けた楽勝コースである。だが、今日は稜線までの最初の登りで一度小休止を入れないと登れなかった。足がもつれるようで、運動不足による筋力低下は相当進んでいる感じだ。
 稜線からは下り坂で、折り返し点である鳥撮り屋さんたちのポイントをちょっとのぞいてみる。数人の鳥を狙うカメラマンが大砲のような超望遠レンズで盛んに小さな鳥を撮っている。彼らの望遠レンズは100万円を超える高価なものである。お金をかけた高いレンズを担いで彼らは遠い所からわざわざ鳥の撮影のためにここまでやって来ているのである。
 私の方は15分もあれば歩いて来れる近場に住んでいる。鳥撮りさんたちから見れば羨ましい環境にいるのだろうけれど、その良さを私は全く活用していない。そもそも私は鳥が苦手で鳥の撮影にまったく興味を持っていないのだ。だから鳥の写真はよほどのことがないと撮らないし、馬鹿高い超望遠レンズも持っていない。
 鳥を追うカメラマンさんたちは夢中で木々の間にいる鳥を撮っていた。しかし、私にとって鳥は自分の気に入った被写体ではない。だから、しばらく皆さんの撮影を見学してから家の方向に戻ることにした。カメラを持っているくせに鳥を撮らない私を鳥撮り屋さんは、きっと「変なやつだ」と思ったことだろう。
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 本日撮ったのは、公園の縁にある丸太に木の葉の陰が映ったこれである。どこにでもある何気ないもので、カメラを持たないで歩いていたらきっと気づかずに通り過ぎてしまったことだろう。しかし、撮る人の視点が変われば、歩き慣れた場所でも思いもしない被写体を見つけることができる。
 私はこの陰の形に何となく感性を刺激され、自分なりのイメージを固めて撮ってみた。決して自慢できるような写真ではないが、思わぬところにあった被写体を見つけられたことに自分なりに満足はしている。
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by Weltgeist | 2015-02-14 22:13

久しぶりの都内で思わぬことを体験 (No.2050 15/02/11)

d0151247_20371191.jpg エジプトのピラミッド近くに半分崩れかかった巨大なスフィンクスの石像がある。頭から胸は人間の女性、体はライオン、背中は鷲の翼を持つとされるギリシャ神話の怪物だ。ダクテュロス・ヘクサメトロスの5行詩によれば、スフィンクスは通りかかった者に次のような謎をかけたという
一つの声をもち、二つ足にしてまた四つ足にしてまた三つ足なるものが地上にいる。
地を這い、空を飛び海を泳ぐものどものうち、これほど姿、背丈を変えるものはない。
それがもっとも多く(3本)の足に支えられて歩くとき、肢体の力はもっとも弱く、その速さはもっとも遅いものは何ーんだ?
 」と。そしてこの謎を解けなかった者は殺してしまう困った怪物だった。
 この謎を解いたのは、No.2045で書いたオイディプス王である。一つの声をもち、二つ足にも四つ足にも三つ足にもなって、姿を変えるものとは人間のことだ、とオイディプスは答えた。赤ん坊のときは4本の手足でハイハイ、大人になると2本足で立ち、体力もなく歩くのが遅い老人は杖を必要とするので3本足となるからだ。

 
 オイディプスが言うように確かに人間は生まれてきたときは四つ足だが、大人になると二本足となり、最後は杖をついて三本になる。しかし、老人になっても杖に頼らない人もいるはずだ。杖をつくから三本足というスフィンクスの謎かけに若い頃の私は、「これは正確さを欠いた謎だ」と思っていた。
 だが、化膿性脊柱炎というとんでもなくやっかいな病気にかかってオイディプスのいうことの正しさがが分かってきた。私自身が病気になって杖がなければうまく歩けない人間となったからだ。
 最初は体をまったく動かせない状態だったが、退院してリハビリに励んだ結果、今は少しずつ歩けるようになった。しかし、まだ杖は必携な品で、それなしにはうまく歩ける段階までなっていない。
 それでもできるだけ体を動かして、体力をつけろという主治医の言葉に従って、近所で杖をついて歩く練習をしている。そして、先日、自分の快復具合を試す意味も込めて思いきって都内まで一人で外出してみた。前よりかなり歩けるようにはなったが、それでも自分にとっては初めての「遠征大旅行」。大丈夫だろうか。もよりの駅までは妻に車で送ってもらって、あとは全部一人でやらなければならない。最初の難関は駅の階段だが、最近はエスカレーターがあってこれは問題なくクリアできた。次は電車。
 ホームに入ってきた電車はかなり混んでいる。ドアが開き降りる人がドッと出てきたとき一瞬押し倒されそうになったが、なんとかセーフ。これも三本足の杖があったからだ。そして後ろから押されるように車内に入る。結構混んでいるからもちろん座ることはできない。ところが、目の前に座っていた人が私の杖を見て「どうぞ」と言って席を譲ってくれたのだ。立っているのが辛かったので、この親切がとてもありがたかった。
 私はこの日、都内の地下鉄も含めて4回も席を譲ってもらった。4回というのは私が乗ったすべての電車でである。譲ってくれた人はみんな私の杖を見て「この人は弱い人だから助けなければ」と思ったのだろう。杖の効用は素晴らしかった。そして日本人は杖に見事なまでの公徳心を発揮してくれたのだった。杖に頼り、席を譲ってもらう身にまで成り下がった自分が情けなかったが、日本人の心の温かさにふれることができた。日本はまだまだ捨てたものではない。素晴らしい国だ。 

*写真・Gustave Moreau / Oedipus and the Sphinx / 1864 / Metropolitan Museum of Art, New York. オイディプスに謎かけをしてくるスフィンクスをギュスターヴ・モローはこんな風に描いている。実はスフィンクスはテーバイ王だったラーイオスの娘がなったもので、二人は兄弟だったという。スフィンクスの神話で2500年前のオイディプスの時代から老人は杖を使っていたことが私にも分かった。
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by Weltgeist | 2015-02-11 23:16

勝手にしやがれ (No.2049 15/02/10)

 そんな題名のフランス映画が昔あった。ジャン=リュック・ゴダールが監督、主演はジャン=ポール・ベルモンドである。といっても1959年の白黒映画だから、今の人たちは監督の名前もベルモンドなんて俳優も絶対知らないだろう。そう思っていたら、沢田研二が映画からとった同名の歌を歌っていたことを思い出した。こちらは1977年だから40歳より上の人は覚えているだろう。
 勝手にしやがれっていう言い方は、「お前は自由に何をやってもいいけど、俺は知らないぜ」という意味である。この短い言葉の中には深刻な人間関係の亀裂が垣間見える。いままで仲の良かった恋人が別れ話をして、バイバイするとか、いくら忠告しても言うことを聞かない人を見限った最後のせりふである。勝手にしやがれと言った時点で、二人の親密な関係はお終いになる。分かれて行く人間にこのあと「お前は**せよ」などと指示や忠告を言うのは余計なお世話である。もはやあなたと関係ないのだから、「自由にしなさい」しかないのである。
 そう、人間は自由である。だから他人の生き方にあれこれ口をはさむのは自由の侵害である。前回取り上げた遠藤周作の沈黙では、主人公・ロドリゴがひどく苦しんで祈りを捧げているのに神は沈黙していた。ロドリゴは「あなたはなぜ黙っているのですか」と神に問うたが、彼は自由の意味が分かっていない。神が声をかけることは「お前は**をせよ」と指図することだから、神自らが人間に与えた自由を否定することになる。だからどんなにひどい状況に人間が置かれても神は沈黙を通すのである。
 まだ頼りない小学生にお母さんが「途中で道草しないでまっすぐ学校へいくのよ」とか「知らない人に声をかけられてもついていかないで」と忠告をするのは、子供の「自由」は未熟で何をしでかすか分からないからだ。お母さんは幼い子供が心配なのである。しかし、同じことを成熟した大人に言ったら余計なお世話となる。お節介な事を言われたと反発し、自分の自由が認められていなかったことに失望するのである。
 人間は自分の行く道を勝手に選べる。人にとやかく指図されるものではない。それが自由というものである。ただし自由の代価はとても苦しい。沈黙のロドリゴが「踏み絵を踏まなければ信者を殺す」と人間として耐えられない苦難にあわされたときも、神は黙っていた。カラマーゾフの大審問官も黙って口づけしただけで、お節介なことはしない。人間は自由である限り人生で出会った苦しみを自ら引き受け、試練として乗り越えて行くしかないのである。
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by Weltgeist | 2015-02-10 23:56

神の沈黙と裏切り者の救い。遠藤周作・沈黙、その2 (No.2048 15/02/07)

 遠藤周作の沈黙を取り上げたが、昨日は字数が多くなったので、今日はその続き。
 沈黙の主人公、ポルトガルの宣教師、セバスチャン・ロドリゴはヨハネ福音書に書かれたイエス・キリストがユダに向かって言った「去れ、行きて汝のなすことをなせ」(ヨハネ福音書、13:27)と言う言葉につまづく。みんなはユダを裏切り者と批難するが、もしそうならイエスは裏切りを勧めるようなことをなぜ言ったのだろう。もしかしたら、これも神の計画ではないのかと思い、悩むのである。
 沈黙には副主人公として「鼠のような小さな眼を持つ薄汚れた」(新潮文庫、P.109)キチジローという気の弱い転び切支丹が出てくる。彼は日本のユダとも言える人物で、切支丹弾圧に耐えられず棄教し、ロドリゴをも役人に売る裏切り者である。しかし、裏切ったにもかかわらず彼はなぜかロドリゴの近くにいつも隠れるように潜んでいて何か言いたげである。
 人を裏切るとは何か。ロドリゴはキチジローの密告で囚われの身となったことで、ユダの裏切りをあらためて考えてみる。「いかなる感情で基督は銀三十枚のために自分(イエス)を売った男(ユダ)に去れという言葉を投げつけたのだろう。怒りと憎しみのためか。それともこれは愛から出た言葉か。怒りならばそのとき、基督は世界のすべての人間の中からこの男の救いだけは除いてしまったことになる。基督の怒りの言葉をまともに受けたユダは永遠に救われることはない。・・・しかし、そんなはずはない。基督はユダさえ救おうとされていたのである。でなければ彼は弟子の一人に加えられるはずはなかった。それなのにこの時になって道を踏み外した彼を基督はなぜ止められなかったのか」(P.116 )と考えるのだ。
 イエスを捕らえようとパリサイ人や兵士がやってきたとき、ユダはイエスに口づけして「この人がイエスだ」と売った。だが、その後彼は後悔して、もらった銀貨を神殿に投げ込んで首をつって自殺(マタイ福音書27:3-5)する。一方キチジローはロドリゴが彼の密告で捕らえられたとき「”パードレ(ポルトガル語で司祭)。ゆるしておつかわさい” キチジローは地面に跪いたまま泣くように叫びました。”わしは弱か。わしは(棄教を拒否して殺された)モキチやイチゾウんごったっつよか者(もん)にはなりきりまっせん。”・・・」(P.123)と言いロドリゴに許しを請うているのだ。しかし、ロドリゴには彼を軽蔑の眼で見ることしかできない。
 だが、その後で彼自身が目の前で拷問される信者たちを役人から見せられると心が動顛してしまう。そして「(転んでいい。転んでいい。)・・・(私は転ぶ、転ぶから)その言葉はのどもとまでもう出かかっていた。歯を食いしばって言葉が声を伴うのに耐えた」(PP.209-210)ところまで追い詰められる。現実の弾圧の悲惨さに負けたロドリゴもこのあと棄教し、キチジローと同じ立場になるのである。彼があれほど疑問に思っていたユダと同じ裏切り者になるのだ。だが、そんなところにまで追い込まれながら相変わらず神は黙ったままである。
 ところが、小説の最後でロドリゴは自分が踏み絵を踏んだことを回想するなかに現れた「人」とついに言葉を交わす。その人は次のように言う。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう十分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいといっているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから
」(P.294)と。
 神は沈黙していながら、ずっとロドリゴやキチジローを見て一緒に苦しんでいたとロドリゴは受け取る。人間とはかくも弱く、罪深い存在なのである。だが、神は人が苦しんでいる場に直接出て来て彼らを助けるようなことはしない。人々の苦しみは神の苦しみでもあるが、それはお前たち人間が自分で乗り越えねばならない試練なのだ。あくまでもそれぞれの実存が引き受けなければならないことで、神は心の中でくじけないよう支えているだけなのである。
 カラマーゾフの兄弟の「大審問官とキリストとの対決」でも神は沈黙したままだった。しかし、そのことで峻烈なまでに明らかになったのは人間の自由と実存の問題である。人が自由であることは苦しみを伴うが、神が手を貸したり人の生き方に指図することはしない。自由で人間らしく生きるとはそういうことである。遠藤周作は沈黙で自由と実存の問題をこのように解釈したのだと私は読んだ。深くて難しい問題を扱う実に読みごたえのある小説であった。
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by Weltgeist | 2015-02-07 23:41

遠藤周作・沈黙 ((No.2047 15/02/06)

d0151247_2250339.jpg 昨日後藤健二さん殺害報道から遠藤周作の「沈黙」を思い起こしたと書いた。今日はその「沈黙」を取り上げてみたい。沈黙は17世紀にポルトガルの宣教師、セバスチャン・ロドリゴがキリスト教布教のためアフリカ喜望峰からインドを経て、マカオ経由で日本に潜入して捕らえられ、最後は拷問に耐えられなくなって棄教する話である。
 そのメインテーマはイエス・キリストの使徒であったユダの裏切りについての疑問である。彼が裏切る直前にイエスがユダに語った聖書の言葉「そこでイエスは彼(ユダ)に言われた。あなたがしようとしていることを今すぐにしなさい」(ヨハネ福音書、13:27)にロドリゴは引っかかりを覚える。ロドリゴはユダが裏切ることを神なら知っていたのではないか、それなのになぜ「今すぐそれをしなさい」と裏切りを奨励する言葉を言ったのか理解できないのだ。
 皆はユダは主を裏切った男だと簡単に断定しているが、それなら、なぜイエスは「それをしなさい」と言ったすぐ後に「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました」(13:31)とユダの裏切りで神の栄光が実現したようなことを言ったのか。
 ユダは裏切り者として「永遠の罪人のままに放っておいたのか。そんなことはない。キリストはユダさえ救おうとされていた。でなければ彼を弟子の一人にくわえらるはずはなかった」(新潮文庫、P.116)とロドリゴはつぶやくのである。しかし、その答えはない。なぜなら主はいつまでたっても沈黙を保っていて答えを教えてくれないからだ。
 神が全能なら、ユダが裏切ることも予測できていたはずだ。むしろユダの裏切りそのものが神の計画だったのではないかとロドリゴは考え始めるのである。ユダが裏切ったからからこそイエスは十字架にかけられて、全人類の罪をあがなう受難を達成できた。いわば神の否定的な黒子の役をユダはやっているのではないかと思い始めているのだ。
 イエスの一番弟子であったペテロでさえイエスが逮捕されそうになったとき逃げ出して、追っ手に「お前もイエスの仲間か」と聞かれて「違う」と嘘をついていた。ペテロのような人でも嘘をつき、イエスを裏切る。ユダもペテロも裏切り者という点では違いがないのだ。それなのにユダだけが永遠に救われない地獄に落ちていくのはなぜなのか。
 沈黙はここから日本の切支丹弾圧によって、貧しい信者たちが恐ろしい拷問にあい、踏み絵を踏んでキリスト教を裏切っていく葛藤を書いていく。狡智に長けた役人たちは、信仰を捨てないロドリゴの前に貧しく善良そうな切支丹信者を連れてきて、お前がキリスト教信仰を捨てなければ、前に並ぶ信者を殺すと脅すのである。その光景を見てロドリゴは「神様、あなたはこんなひどい状況に信者があっているのになぜ黙っているのですか」、と神に祈る。しかし、答えはなく、神は沈黙し続けているのだ。ロドリゴも切支丹の人々も悲惨きわまりない世界のなかに放り込まれていながら、神からの救済はないのである。「主よ、なぜあなたは黙っているのですか」と問うても沈黙しかないのである。
 現実の苦しさを直接神に訴える展開って、実はドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟でイワンが出した「大審問官」の問いかけと同じである。イワンは現世が懐かしくなって出て来たイエス・キリストに「この世は幼い子供まで輪禍に遭う苦しみに満ちたひどい世界だ。それなのにお前(イエス)は何もしないでそれを放っている。こんな世の中を作ってどうしてくれるのか」と神・キリストに「人間の自由と実存の問題を」問い詰める有名な箇所だ。
 しかし、大審問官の問いかけに対して、キリストは何も答えず、大審問官に口づけしただけで去っていく。神は大審問官の前でも沈黙しているのだ。一方、ポルトガルの宣教師・ロドリゴの方でも世界は耐えがたい悲惨さに満ちていて、人々は現実的な救いを求めているのに、イワンと同じように神は沈黙したままである。「神様、あなたはなぜ黙っているのですか」といくら叫んでも救いの手は差し伸べられないのである。

長くなったので以下は次に続けます。
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by Weltgeist | 2015-02-06 23:51

いまも生きる宗教的蛮行、ISILの後藤健二さん殺害と殉教 (No.2046 15/02/05)

 イスラム国=ISIL に人質となって惨殺された後藤健二さんの死に限りなき哀悼の意を捧げたい。戦火に追われた人々に救済の手を差し伸べようとしていた人間味豊かな人にかくも残虐な仕打ちをしたISIL に激しい怒りをおぼえる。彼らは「アラーの名において」という「宗教的な大義」で後藤さんを死に追いやった。そのうえヨルダン人捕虜、カサースベ中尉は生きたまま焼き殺しにしている。そんなことを誇らしげに宣伝する連中の狂信的な考え方が私にはどうしても理解できない。
 どんな宗教の目的も人間の救済にあるはずだ。宗教を信じれば真の命(いのち)を得られるのであって、命を奪うものは宗教ではない。殺人を正当化する「宗教」はカルトでしかないのだ。ところがISILには自分たちの「宗教」以外を信じる者は全部殲滅すべき敵に見えるようだ。自分の信仰のためなら人を殺すこともいとわない。こんなものが「宗教」と言えるだろうか。
 しかし、これは現代の特有な問題ではない。信じる神が違えば、宗派間の対立が深い憎悪を生み、情け容赦なく「異教徒」が殺されていくことは歴史上何度も繰り返されているのである。
 十字軍のエルサレム奪還や、スペインのレコンキスタ、宗教改革をなしたあのマルティン・ルターさえ反抗する農民を「しめ殺せ」と叫んでいる。16世紀の宗教家は、魔女狩りと称して生きた人間を火あぶりの刑にしている。かっては宗教がこうした人間性の逸脱を背後から煽っていたのだ。カソリックの聖人と言われる人たちを見れば異教徒との戦いで棄教を迫られながら拒否して殉教していった人ばかりである。西洋の歴史はこのような蛮行で血塗られたものなのだ。しかし、それでは日本はどうだったのかと言えば、全く同じことが行われていた。日本も例外ではない。今のISILと変わらない恐ろしい殺戮を宗教の名においてやってきているのだ。
 今回のISIL後藤さん殺害から私は、遠藤周作の「沈黙」を思いだした。17世紀初め長崎でポルトガルの宣教師が捕らえられ、厳しい拷問の末に棄教させられる話だ。切支丹弾圧で、人々がキリスト教を捨てる証として、踏み絵を強要されたという知識だけは持っていたが、それが実際にどんなにひどいことだったのか、イメージは持っていなかった。
 遠藤周作は「沈黙」の中で哀れな日本人切支丹が生きたまま海岸に立てた柱にしばりつけられて、潮の満ち干で長い時間をかけて死なせる処刑や、逆さ吊りしても血が頭に下がりすぎて早く死なない工夫をした拷問などをリアルなタッチで書いている。そのような恐ろしいことを昔の人たちがやっていたのを沈黙を読むまで私は知らなかったのである。長崎で捕まったポルトガルの宣教師は、後藤健二さんと同じように、切支丹信者を目の前に突きだされ「キリスト教を棄教すれば許すが、棄教しなければここにいる信者を殺す」と脅される。そうして信仰を捨てなかった信者たちは虫けらのように殺されていくのである。今のISILとあまり変わらないことを日本も昔は公然とやっていたのだ。
 こうした愚かな行為は、400年という長い歴史を経てようやく「良くないことだ」と自覚され、改められるようになった。どの宗教も人の命は信仰より高いことを学び、殺し合いを止めたのだ。しかし、歴史は繰り返すと言われるように、ISILは17世紀の野蛮人と変わらぬ思想を振り回して世界を恐怖におとしめている。相も変わらず学ぶことができない者が生まれてくるのを見ると、人間とは何と救いがたき存在かとつくづく思ってしまう。
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マティアス・グリューネバルト、「イーゼンハイム祭壇画、センターパネル左下のプレデッラ」(1511‐15年頃制作)。十字架で処刑されたキリストに涙を流して悲しむマグダラのマリアをグリューネバルトはごく普通の女として描くことで、殉教の悲しさが余計印象強く伝わるようにしている。仏・コルマール、ウンターリンデン美術館にて撮影。
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by Weltgeist | 2015-02-05 23:59