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人が幸福であったかどうかは人生の最後で分かる・オイディプス王の悲劇 (No.2045 15/01/31)

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「死すべき人の身は、はるかにかの長期の日の、見きわめを待て。
何らの苦しみにもあわずして、この世のきわに至るまでは、何びとをも幸福とよぶなかれ」
ソポクレス、「オイディプス王」(藤沢令夫訳)


 アイスキュロス、エウリピデスと並ぶギリシャ三大悲劇作者の一人・ソポクレスの最高傑作と言われる「オイディプス王」は、今から2500年も昔、BC427年頃書かれた。その悲劇の最後の幕が降りる時に語られるのが、上の言葉だ。古代ギリシャという遠い世界の話なのに、オイディプス王のドラマチックな展開は今もまったく古さを感じさせないで強烈なインパクトを我々に与える。これはギリシャ悲劇の最高傑作なのだ。
 劇のストーリーを簡単に紹介すると、テーバイの王ラーイオスは、デルフォイの神託で、「お前は自分の息子に殺され、お前の妻との間に子を産む」と告げられ、生まれてきた男の子を山の中に捨てる。しかし、捨てられた子はコリントスの王夫妻に拾われて青年となる。ところがあるとき、青年はテーバイで見知らぬ老人と諍いになって彼を殺してしまう。それが実の父であるテーバイ王ラーイオスだったのだが、彼はそれに気づかず王の妻、つまり自分の本当の母親を妻として4人の子供を授かる。ラーイオスが実の子に殺され、妻との間に子をつくるというデルフォイの神託はこうして密かに成就される。
 さらにデルフォイの神託は「前王、ラーイオス殺害犯を捕らえ、テーバイから追放せよ。そうでないとテーバイの災いは続く」と新たなお告げをする。ラーイオス亡きあとテーバイ王となったオイディプスは新しい神託に従って前王を殺した犯人捜しを始めるが、その犯人は自分だったことが明らかになる。そして最初の神託通り息子と交わってしまった王妃は罪の意識から自殺。オイディプスは事がお告げ通りになっていたことをようやく知って「すべては紛うことなく果たされた。おお光よ、おんみを目にするのも、もはやこれまで。生まれるべかざる人から生まれ、まじわるべかざる人とまじわり、殺すべかざる人を殺したと知れたひとりの男」と自らを絶望。死んだ王妃のブローチをとって自分の目を刺しつぶしてしまう。彼が黄泉の国に行ったとき、死んだ父や母をこの目で見ることが耐えられないと思ったからだ。
 そして盲(めしい)の乞食となってテーバイから追放の身で出て行く。劇はここで終わるのだが、そのときの言葉が上の「この世のきわに至るまでは、何びとをも幸福とよぶなかれ」である。
 人はどんなに幸せであってもそれが最後まで続くとは限らない。真に私は幸せだったと言えるのは「この世のきわに至る」とき、すなわち生命が燃え尽きて死ぬときである。彼はテーバイ王という恵まれた立場にいて、とても幸福そうに見えていた。しかし、それはうわべだけのことで、実は自分の中にはとてつもない罪が隠されていたのだ。人の幸せとはこのように何が起こるか分からない不安定なものなのだ、とソポクレスは警告しているのである。
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by Weltgeist | 2015-01-31 22:24

トマ・ピケティと格差解消 (No.2044 15/01/27)

 今発売中の東洋経済「ピケティ完全理解」(2015年1/31号)を読んだ。世界的なベストセラーになっている彼の「21世紀の資本」は700ページにも及ぶ経済専門書である。経済に疎い私がそんな専門書まで読む時間はない。手っ取り早い解説書として東洋経済を読んだのだが、分かったことは「株や不動産、債券などの投資による資本収益率は経済成長率を常に上回る」から、資本主義では必然的に格差が拡大していくということだった。
 トマ・ピケティはそれを r > g という公式で説明する。r とは資本収益率、g は成長率である。たとえば現状に照らしてみると、収益率5%、成長率1%。これだと労働者がいくら働いても資産のある投資家の方が5倍も儲かる。額に汗するより、株や債券など資産を転がす方が儲かる富の不平等、その格差が拡大しているのだ。
 ピケティは豊富なデータからそれが今の資本主義の特性であることを説明していく。たとえば2010年度米国での所得配分を見ると分かる。最上位にいる人は国民の0.01%にすぎないが、その平均年収は8億5021万円、上位1%になっても4385万円、5%だと1850万円である。ところがこれから下になると信じられないほど低額になる。そして、上位1%の人(3億875万人分の1、すなわち3百万8750人)は所得が増え続けているのに残りの90%(2億7787万人)以上の人はこの20年間まったく所得が増えていない。現実に格差はここまで進んでいるのだ。
 しかし、このように資本主義は一部の人に富を集中させるという理論は決して目新しいものではない。マルクスは資本主義は格差の拡大に怒った労働者の革命によって共産主義になると予言した。だからいまさらピケティが格差は拡大すると言われても、フーンというしかない。問題は、それではどうしたらこの格差を解消するかだ。マルクスは暴力による革命を唱えたが、ピケティは富を集中させる特権階級に税金を課して、所得を平(均)準化せよという。しかし、世界が複雑に交わっている現代では、タックスヘイブンの島に逃げるなど、課税作戦は抜け穴が多い。そのためにも国際的なネットワークを敷いて、国際累進課税を断行せよというのが彼の解決策なのだそうだ。
 ここまで読んで、少々あほくさくなってきた。もちろん原著を読んでいないから早計な判断は控えるべきかもしれないが、人間に対する甘い幻想に基づく理論だと思った。いくら国際的なネットワークを築いても、金持ちはどんな手段を用いてでもその抜け道を見つけ出す。そのことは長い歴史が証明している。あなたは自分のサイフから他人がお金を引き出そうとしたらどうする。人間は自分のお金が勝手に減らされたら極めて強固に反抗するものである。それを決して容認はしないのだ。
 アダム・スミスは富が上層の人にもたらされれば、それは下層の人に落ちていくと信じた。だから資本家の私利私欲追求を奨励したのである。資本家が潤えばおこぼれが下にも落ちて皆が豊かになるというトリクルダウンの思想は、まさに今のアベノミクスと同じである。安倍首相は儲かった企業は労働者の賃金をあげて欲しいと経営者に「お願い」している。そうなれば下で働く90%の人々におこぼれを分け与えて景気がよくなるからだという。
 しかし、ふところが暖かくなった経営者が、首相のお願いを聞いて「それでは給料を上げましょう」と思うのは単純すぎる。労働者の賃金とはマルクスが指摘したように「生かさず、殺さず」で決められるのだ。ここで言う殺さずとは、給料を上げなければ優秀な人材が集まらないからで、仕方なく上げているにすぎない。金持ちが自分の取り分を貧しい人に配る優しさを持ち合わせているのか。むしろどうしたら他人に渡る富を横取りできるかしか考えない人ばかりではないか。お願いだけで給料が上がるとは思えない。
 仮に一部の大企業で従業員の所得が増えたとしても、その多くは貯蓄に回る。なぜなら、大多数の労働者が明日はどうなるかも知れぬ不安定なところに置かれているからだ。史上最低の低金利であっても将来の不安に備えて貯蓄に回す。消費はのびず、景気は浮上しない。格差はこれからも拡大していくと私は思っている。
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by Weltgeist | 2015-01-27 23:55

わが運命を変えた1頭の蝶 (No.2043 15/01/22)

 長い人生ではその歩みを変える重大な転換点のようなものに出会うことがある。そのときは分からなくても、後になって俺の人生はそれで変わったという転機はきっと誰もが持っていることだろう。私の場合、2008年7月に北海道大雪山に登ってある蝶に出会った時がそうである。このときからすっかりチョウチョ好き人間に変わってしまったのだ。
 前に何度も書いているように私は中学から高校にかけてチョウチョを追いかける「昆虫少年」だった。しかし、高校二年生(1959年)のとき北海道大雪山にウスバキチョウという蝶を採りに行ったのを最後に、山屋に転向してしまった。当時、ウスバキチョウは蝶を採集する人にとっては究極のターゲットと言われるほど憧れの蝶だったが、10数頭のウスバキチョウを採って、「もういい。十分だ」(このときはまだ採集は許可されていた)という気持ちになり、急速に蝶への関心が薄れてしまったのだ。
 それから50年以上ずっと蝶の世界とは無縁だった。ところが、2004年に仕事を辞めて毎日が日曜日人間となったとき、若い頃チョウチョを追いかけていた時代が妙に懐かしくなったのである。その気持ちは次第に高まり、2008年には北海道までもう一度あのウスバキチョウを見に行ってみたいと思うようになり、妻と再び大雪山に出かけたのである。
 このときのことは2008年7月26日のブログに書いてあるが、二日間続いた悪天候の後、最後の日にようやく大雪山コマクサ平で何とかその姿を目撃することができた。しかし、ウスバキチョウを見つける前に、霧の中から突然飛んで来て目の前に止まった別な蝶に釘付けになったのである。それが下に掲載したダイセツタカネヒカゲという蝶である。
 興味の無い人には地味で何の美しさも感じない普通の蝶に見えるかもしれないが、実はこれが大雪山だけにしかいない特別天然記念物の貴重な蝶なのだ。私は少し興奮しながらカメラを持ってこれが止まった場所まで行ってみた。幸運なことにその蝶は登山道のすぐ脇の草の上にじっとしていた。
 最初は刺激しないよう遠くから静かに写真を撮った。だが、カメラを持って少しずつ接近しても全然飛び立つ気配がない。天候が悪いのと気温が低いから動きも活発では無かったのだ。私は少しずつシャッターを切りながらじりじりと近づき、最後は30㎝くらいまで接近することができたのである。生きた蝶にここまで接近できているのに、彼は相変わらず動かない。
 そうなると「もしかしたら」と思う気持ちが出てきた。ファインダーをのぞきながら試しに左手を伸ばして逃げない蝶をつかんでみたのである。すると意外や意外、あっけなく特別天然記念物のダイセツタカネヒカゲを指でつまむことができたのだ。こんなことってあるだろうか。蝶を採集している人なら喉から手が出るほど採りたいダイセツタカネヒカゲが手づかみできたのである。
 私はあまりの意外さに狂喜しながらその蝶を妻の方に向かって差し出した。このときの私は50年前に捕虫網を持って蝶を追いかけていた「昆虫少年」に戻っていたのである。だが、妻はまるで犯罪者を見つめるような怖い顔になっていた。そして「逃がしなさい」と叫んだのである。現在は特別天然記念物になったダイセツタカネヒカゲを採ることは犯罪なのだ。
 2008年当時まだ蝶を採ることに何の執着もなかった私は、妻の言葉に従ってそれを放した。蝶はすぐに我々の視界から消えて行ったが、私の中には生きた蝶をつかまえた心の昂ぶりが残っていた。そして、それは遙か昔に置いてきた記憶を鮮明によみがえらせたのだ。
 東京に戻って私がやったことは、捕虫網など蝶を採る採集用具や標本を作る道具一式を購入することだった。私はダイセツタカネヒカゲを手でつまんだことで、チョウチョの魅力に虜になってしまったのである。そして、それまで毎週のように行っていた釣りを止めて蝶の採集にうつつをぬかすようになったのだ。
 結婚以来、釣り好きの私しか知らなかった妻は、その後、私が中央アジアにまで蝶を採りにいく豹変ぶりに驚き、大いなる不満を言い始めた。彼女は蝶の鱗粉には毒があると信じ、持病のアレルギーが出るからチョウチョは止めて欲しいと言い出したのだ。しかし、妻には申し訳ないが、私はあの大雪山でつまんだ1頭の蝶によって人生を変えるパンドラの箱を開けてしまったのである。

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2008年7月、私の運命を変えたダイセツタカネヒカゲ。最初は遠くからおそるおそる撮影していたが、最後は30㎝くらいまで接近して、手でつかまえることまでできた。そのとき私の心の中に遠く忘れていた蝶を採る魅力がよみがえってきた。この蝶がその後の私を蝶好き人間に変えてしまったのである。
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by Weltgeist | 2015-01-22 23:58

Je suis Charlie,ou Je ne suis pas Charlie ? 表現の自由と制約 (No.2042 15/01/19)

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 パリの新聞社・シャルリ・エブドがムハンマドの風刺画を描いたとしてイスラム教過激派に編集者や漫画家が殺された。これに反発したものすごい数の人々が「Je suis Charlie.=ジュスイ・シャルリ、私はシャルリ」と書いたプラカードを掲げて、パリの共和国広場を埋め尽くした。いまや「私はシャルリ」は犠牲になった人たちへの連帯とテロには屈しない意志表明の言葉となっている。
 私にとって共和国広場は一角にあるレオンというレストランでムール貝料理を食べた思い出の場所でもある。同じ場所が「自由、平等、博愛」のフランス三色旗を振りかざして「フランスは自由の国、それを銃で圧殺するなど認められない」と息巻く人々で埋め尽くされ、騒然となっていた。フランスは長い戦いを経て言論の自由、平等、博愛を勝ち取った国である。北朝鮮のように何か言えば投獄される野蛮国ではない。だから言論の自由を銃で抑圧するテロリストに反対するのは当然である。
 表現の自由は保障されなければならない。しかし、だからといって何をやっても良いわけではない。自由は博愛の精神があるから保たれる。表現する側には理性による自制心が必要だし、相手へのリスペクトがあってしかるべきだ。それも何らかの権威に強要されるものではなく、あくまでも自主的、自由な精神で運営されるべきものである。
 今回はイスラム教徒が嫌がるムハンマドの絵を書いたから襲撃された。もし自分とは異なる人の文化を認め、相手をリスペクトする気持ちがあれば、こんな記事は書かなかっただろう。シャルリ・エブドには相手を敬う博愛の精神が欠落しているように見える。だから翌週号でも同じムハンマドを無神経に書いている。これは「俺の書く記事に文句があるか」と言って相手に喧嘩を売っているのと同じである。当然ながら世界中のイスラム教徒から怒りの声が上がった。
 この新聞社は以前、福島原発のことでも放射能汚染から三本の足を持つ人と背中に第三の手を持つ奇形人間が相撲を取っているマンガを書いて、日本人に不快感を持たせた。「私はシャルリ」と言うのはいい。しかし、書かれた相手を不快に思わせる自由まで保障する必要があるのか。ムハンマドを侮辱する絵をもう一度載せることで、世界で16億人(世界人口の26%)もの人が信じているイスラム教をまた侮辱したのだ。
 モハンムドを侮辱するマンガをあえて掲載しなおしたのは「我々は負けない」と言う言葉を隠れ蓑に仲間の復讐を宣言しただけではないのか。この意味は重大である。「私はシャルリ」とプラカードを持った大多数の市民は、言論の自由が侵されたことにショックを受けただけなのに、ムハンマドの再掲載によってイスラム教徒の反感心を高める役割をさせられてしまったからだ。再掲載さえなければ純粋に言論の自由への支持ですんだところをである。
 私はシャルリと言うなら、私はシャルリではない=Je ne suis pas Charlie という立場も認められるべきだ。怒った人々は表現の自由として写真のようにペンを振りかざしている。「1本のペンが世界を変える」とマララさんは言った。しかし、フランスで差し出されているペンは戦いの布告になってしまった。言論の自由を守ろうと立ち上がった人々の正義心を、一部の人が間違った方向に変えてしまったのだ。再掲載がフランスの根幹をなす自由、平等、博愛の精神を狂わせた。とくに「博愛」が消え失わせたように見えるのである。
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by Weltgeist | 2015-01-19 23:21

プロカメラマンの技術と定義 (No.2041 15/01/15)

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 昨日BBCの電子版を読んでいたら上の写真が掲載されていた。目をこらして見ると飛行機が花火の間を飛んでいる。そのタイミングが絶妙で見ていて素晴らしい。少し飛行機が速く飛んだら花火と飛行機の間が離れすぎるし、遅ければ花火に当たって墜落する恐れがある。まさにパイロットは一番良い瞬間を飛んでいて、カメラマンはそれを見事にとらえている。抜群にナイスな瞬間をカメラで正確に切り取っていると感心したのである。
 だが、どうやって撮ったのかしばらく考えていたら、飛行機が自らこれらの花火を発射し、そこをすり抜けたのかもしれないと思えてきた。それならタイミングの妙も謎が解ける。しかし、写真の見事さからもう一つ別な疑問が出てきた。この写真はプロが撮ったものなのか、アマチュアが撮ったものかとても気になってきたのだ。
 というのも、最初はてっきりプロが撮ったものだと思い込んでいたが、BBCの記事を読むとアマチュアの作品らしいからだ。私は最初からこんな写真はアマには撮れない、プロが撮影する前にイメージを決めて、ひたすら計算したタイミングでシャッターを切ったはずと信じていた。頭からアマチュアには無理と決めつけていたのだが、アマでもスキルがあればこうした写真が撮れる時代なのである。
 最近のカメラは性能が良くなってある程度習熟すればオートでそこそこの写真が素人にも撮れてしまう。運良くいいチャンスに出会えばアマチュアでも傑作が撮れる。良い写真を撮りたいアマにとってはうれしい状況ではあるが、だからといって簡単に「本物プロ」になれるわけではない。
 アマに毛が生えた程度のセミプロは別として、本物のプロの仕事はそんなに甘い物ではない。以前にも書いたことがあるが、プロ写真家とはアマチュアが普通では撮れないものでも撮ってくる人と私は定義している。オマンマがかかっているからいい加減なものは撮れない。「俺は写真のプロなのだ」という自覚のもとに、アマには絶対撮れないような写真をなんとしてでも撮ってくるのがプロである。私はそうしたスキルを持たない人はプロと認めたくない。
 最近、良いカメラを買えば良い写真が撮れると単純に思い込む人があまりに多すぎる。良い写真とはカメラの性能だけで得られるものではない。それを使うカメラマンのスキル、センスが重要である。それなのにカメラの解像度だ、連射機能だといった機械の性能にばかり目を向けている。そうやってカメラメーカーの宣伝作戦にまんまと乗せられて、馬鹿高いカメラを買いたいと思う物欲の底なし沼にはまってしまう。
 カメラの進歩は誰にも傑作を撮れるチャンスを与えるのとともに、生半可な「自称プロ」はこれで淘汰される厳しい時代になった。しかし、真のプロはこのときだからこそかえって輝きを増すとも言えるのである。
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by Weltgeist | 2015-01-15 23:55

過度の健康志向に励む人に忠告 (No.2040 15/01/13)

「世界史上にはたくさんの病弱者が、病弱にもかかわらず、いや、ときには病弱なるがゆえに最も大きな事業をなしとげ、苦難に耐えたという事実がある。」
カール・ヒルティ、「眠られぬ夜のために」7月2日の言葉


 世間の人は健康であることにひどく気を使っている。しかし、多くの病に苦しむ人が偉大なことを成し遂げていることを忘れてはならない。過度な健康保持はむしろ豊かな創造的人生を歩むのに邪魔となることもあるのだ。ヒルティは上の文章に続けて「健康は疑いもなく大きな贈り物ではあるが、それをあまり重く見すぎてはいけない。むしろ、それを損なったり失った場合でも、立派にそれに堪えることを学ばねばならない」と書いて、病気になることはむしろ悪いことではない、それで得られるものもあると言っている。
 昨年末、私が突然得体の知れない激痛で病院に担ぎ込まれたとき、ヒルティの「眠られぬ夜のために」(岩波文庫、青638-1 )を読んで、大いなる希望の力を与えられた。ともすれば絶望の淵に落ち込み、人生の不運を嘆くところを上の言葉が引き留めてくれたのである。このときの私は身にしみてヒルティの思想の奥深さを感じたのである。
 現在の私は最悪の事態を脱して日々快復の過程にある。病気の百貨店と呼ばれるほど沢山の病気をやってきた私は、いま自分の人生を全的に俯瞰できる72歳という歳にまでなって、ようやくこうした病気が私を作った要因だったと気がつき始めている。病気とは人を育てる心の肥やしと分かったのだ。
 だから様々な病気に陥ることを恐れている人たちに言いたい。病気なんて怖がることはない。人間が病気になるのは当たり前だし、かりになったら辛くて苦しいけれど、それがあるからより人間らしく生きられるスパイスのようなものだと思って立ち向かえばいい、と。
 病気になれば死ぬのは怖い。しかし、遅かれ早かれ誰もが死ぬのだ。それより死ぬまでの間は、より人間らしく生きることに専念する方がずっと大事だと思う。もちろん健康であるにこしたことはないが、運悪く病気になっても現代医学の水準なら大部分の病気はいずれは治ると思うことだ。
 今度の病気で感じたのは病気になっても人は気分でどちらにも転べるということだ。暗い気持ちになれば快復も遅れる。しかし、人間の体は不思議なほどよく出来ていて、希望を失わずに頑張れば快復出来るものである。人は簡単には死なないしぶとい生き物なのだ。それでも人間は助からない病気にかかるけれど、そうなったらこれが自分の運命、寿命と思ってじたばたせず死を受け入れる。そのように生きれば良いのだ。
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パオロ・ヴェロネーゼ、エステルの失神。Paul Véronèse / L'Evanouissement d'Esther / 1576-1578 / Musée du Louvre, Paris. 
ペルシャ王アハシュエロスはバビロニア虜囚として捕らえられたユダヤ人の娘エステルをユダヤ人と知らずに王妃にする。ところが王の家臣がユダヤ人皆殺しのたくらみをしていることを知ったエステルは、自分がユダヤ人であることを王に告げ、神の選ばれた民とされるユダヤ人せん滅はエステルの告白で回避される。ヴェネチア派の巨匠・ヴェロネーゼはユダヤ人ジェノサイド作戦を知って動顛したエステルをこのようにドラマチックな場面で描いている。写真はパリ・ルーブル美術館で撮ったものだが、照明が強すぎて絵上部の反射光をどうしてもカットできなかった。

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by Weltgeist | 2015-01-13 23:56

幸せな猫と愛猫家 (No.2039 15/01/11)

 猫が自由奔放に生きられるのは飼い主が責任感をもって飼っているからである。もし連中の面倒を見てやらなければ一日で食べるものも暖かい寝床も失って、野良をさまよわなければならない。気ままな生活は我々飼い主がもたらしいるのである。だが幸せな猫たちはそんなことは一切分かっていない。だから飼い主へのリスペクトもなしに、自分勝手に思うがままに生きている。
 今朝の室温は6度。多分外の気温は氷点下だと思うのだが、雨戸を開けるときイライが一瞬のスキを狙って外に飛び出して行った。外には素晴らしい自由の楽園があると思って出たのだろうが、何か目新しいものがあるわけではない。それどころかぬくぬくした部屋から極寒の野外に飛び出したら寒がりの猫たちはたちまち自分がまずい失敗をしたことに気づく。
 案の定、10分もしないうちに寒い、寒い、こんなに寒い外などいられないからすぐに部屋に入れてくれと、イライが窓のガラスを前足でたたいて訴えている。勝手なもので自分から出たくせにすぐに部屋に入れてあげないとガラスを強くたたいて早くしろと催促するのである。こんなことをほぼ毎日繰り返している。
 隣の芝生は青く、バラの咲く花園には心地よい香りが漂っているように見える。普段は手にできない素晴らしい自由の楽園が家の外にはあると思っているのだ。しかし、これは猫だけの幻想ではない。人間の方がもっとひどい錯覚をしている。イライは家から飛び出てもすぐに自分が前日と同じ失敗をしていることに気がついて戻ってくる。ところが人間は一度青い鳥の幻想にはまるとそれから抜け出すことがむずかしい。一生ありもしない幻の幸せに向かって虚しいもがきを続けるのである。
 我が家にいるもう一匹の子猫・エンジェルはまだ外に出るだけの度胸がないからイライが外に飛び出すときでもおとなしく家の中に残っている。いまの彼女は外に出なくても家のなかだけで十分遊べる場が確保されている。ちっちゃい体をバネのようにして縦横無尽に飛び回れる室内で満足しているのだ。しかし、大きくなってある程度分別がつくようになると、「青い鳥を求めて」外に出たがるようになるだろう。
 いまはイライが戻ってくると、「どこをほっつき歩いてきたのよーっ」、という感じですぐに彼のお尻を嗅ぎ始める。本能的にイライが外で浮気をしてきたか臭いでチェックする嫉妬深い女房役をしているのである。(オー、コワ・・・!)でも色気づいてオスを恋しくなる大きさになればエンジェルも外に飛び出るだろう。そのとき我々飼い主は二匹の猫の管理でさらにてんてこ舞いをさせられることだろう。
 しかし、猫を飼う人は私も含めてそれがたまらなく楽しいと思うのだ。要するに矛盾した変な人たちが愛猫家なのである。
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この写真、我が家のいそうろうの分際でしかないエンジェルが、こともあろうに飼い主である我が輩に猫パンチを繰り出しているところである。家来が殿様をぶん殴る、そんな失礼なことを平気でやるのが猫で、それを喜ぶのが愛猫家である。
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by Weltgeist | 2015-01-11 23:27

韓国産業構造の悲劇 (No.2038 15/01/09)

 大韓航空副社長による「ナッツリターン」問題の騒動はいまだに収まる気配がない。検察当局に出頭してきた副社長を問い詰めるマスコミの姿勢は異常なほどで、日本とは異なる社会制度を垣間見る思いがする。正義心から悪を懲らしめるというより、甘い汁を独占する上流階級に、このときとばかり日頃の恨みをぶっつけているように見える。持てる者への怨念、嫉妬心がこの国では大きなモチーフになっているのだろうか。
 報道によれば財閥一族の生活は一般庶民には想像できないほど豪華なもので、そんな生活をしていた連中を苦々しく思っていた韓国国民の怒りがここで爆発したのだ。
 こうしたことに怒る人たちの気持ちも分からないではない。韓国では10大財閥だけで韓国GDPの76.5%(2011年度)を独占している。これ以外の中小企業は無いに等しい独占ぶりである。猛烈に格差が広がっていて、ごく一部の人が富を収奪している。多くの国民は不満が鬱積しているのだ。
 激しい競争社会である韓国では大学を卒業したら財閥に入ることが大学生たちの最大幸福目標とされている。しかし、最大財閥・サムスンに就職するには700倍の競争率を勝ち抜かなければならない。当然全員が入れるわけではない。韓国はOECD加盟34カ国の中で第一位の大学進学率なのに、就職率は最下位。大学を出ても4割が就職できないというから異常である。
 また、財閥に入ったところで幸せになれるかどうかも分からない。社内の競争は熾烈を極め、役員まで上り詰める人はほんのわずかである。さらに、過酷な競争に敗れた人がそのまま会社に居残れるほど甘くはない。多くの人が定年前に肩たたきにあって会社を去っていかざるをえないらしい。人が羨む財閥に勤めても、無能と判定されれば40代から失業者の群れに投げ込まれかねないのだ。
 一方で、財閥家族の子供や孫たちは入社試験も受けることなく親の会社に入って、30代前半には役員にまで昇格していく。世間の苦労も知らずに育った温室人間が権力意識だけを振り回すからナッツ事件のようなことが起こるのである。こんな人たちが企業のトップを占めれば、会社は大丈夫かと心配せざるを得ない。
 こうした親族優遇社会の行き着く先はどうなるのか。二代目、三代目が事業を継ぐ同族企業は日本でもあるが、日本では三代目は親の財産を食いつぶすという言い伝えがある。社長の子供として生まれただけで、何の能力もない人が要職を占めていくとすれば、その企業の将来は極めて暗いと言えよう。人の能力が正しく評価され、生かされる社会こそ希望の持てる理想的な国なのである。
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韓国の田舎を旅していたら、こんな観光バスが駐車場に入って来て、乗っている人たちがいきなり外にシートを敷いて宴会を始めた。文化の違いだろうか、冬の非常に寒い日にも関わらず、何でわざわざ寒空の下で酒を飲み交わすのか、この不思議な光景が理解出来なかった。
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by Weltgeist | 2015-01-09 23:49

マーラー・交響曲第三番で歌う「ペテロの罪は晴れた」の意味は (No.2037 15/01/08)

 昨晩マーラーの交響曲第三番を聴いた。とてつもなく長い曲で最後まで聞くと1時間40分(100分)かかる。一般に交響曲は第4楽章で終わりになるのが相場だが、この三番は第6楽章まであるのだ。最初はもっと長くて第7楽章まであったらしいが、あまりに長すぎるからとマーラー自身が第7楽章を割愛した経緯があるのだそうだ。そんなに長い曲だからずっと神経を集中させて聴くのは難しく、さすがに途中で眠くなってしまう。しかし、それでもマーラー好きの私は、この日、アバド指揮、ベルリンフィルの演奏を居眠りもせず(少しあくびはしたが・・・)最後まで聴いていた。
 曲は第4楽章でアルトのアンナ・ラーソンがニーチェの「ツアラトゥストラ・夜の歌」の詞からとった「おお人間よ、よく聞け。深い真夜中は何を語っているのか。世界は深い。世界の苦悩は深い・・」と、世界が苦悩に満ちていることを暗く絶望的に歌う。そして、第5楽章に入ると一転して「ビム・バム。ビム、バム」という鐘の音で三人の天使が幸福に満ちて「ペテロの罪は晴れた・・・Daß Petrus sei von Sünden frei.」と明るく歌いだす。
 ここでいうペテロの罪とはどのようなことだろうか。ペテロはキリスト12使徒の一人で、キリストから天国の鍵を預かった(マタイ福音書16:19)とされ、初代ローマ法王とまでなった重要人物である。しかし、キリストからお前に天国の鍵をあげると信頼されるほどの人がどんな罪を、なぜ犯したのだろうか。
 ペテロの罪とはユダヤ人たちが自分を処刑しようとしているのを知ったキリストが、「お前(ペテロ)もあの男(キリスト)の仲間かと聞かれたとき、知らないと三度答えるだろう。すると鶏が鳴く」とペテロに語った裏切りのことである。
 一番大切なあなたを絶対守ると言っていながら、窮地に陥ればペテロは裏切ることをキリストは予言していた。実際、キリストが捕らえられると一目散に逃げ出して、追っ手から三度追求される度に、そんな男は知らないと嘘をつく。ところがそのとき予言通り鶏が鳴き、彼は自分の罪の深さを知って涙するのである。これがペテロの罪である。いざとなると自分可愛さから人を裏切る。人間とはそんなものである。だが、ここでマーラーは「ペテロの罪は晴れた」と言っている。
 「晴れた」とはペテロの罪が許されたという意味ではない。ペテロの罪は事実として消すことはできないのだ。ところが福音書が書くようにそんな罪人ペテロに神は天国の鍵を与えている。神は罪深い人間であろうと、神を信じる人には救いの手を差し伸べてくれるということである。人間は誰もがみんな罪人、法王までなったペテロも私もその点では同じ。五十歩百歩で変わらないのである。罪の深さ浅さなど神の判断基準からみれば取るに足らないものなのだ。
 ペテロの罪は晴れたというが、それで人間の罪深さが無くなったわけではない。人間はどうしようもなく罪深い連中だと思って、神が救いの手を差し伸べてくれているだけなのである。「罪は晴れた」のドイツ語は von Sünden frei となっている。直訳すれば「罪から自由」である。許されたわけではない。だから、この場合の「罪は晴れた」というのは、実に微妙な機微を表現した適訳なのだ。人は罪から逃れられない。しかし、信仰によってその呪縛から自由にはなれるのである。

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by Weltgeist | 2015-01-08 23:56

もったいないが問題だ (No.2036 15/01/06)

 物が無かった時代に育った我々にはもったいないという思いが体にしみついている。子供の頃ご飯粒を残すと、「お米はお百姓さんの汗の結晶だから、一粒残らず食べなさい」と教育された。物は大事にしなければならない。粗末に扱えば罰(バチ)が当たると心底教え込まれているのだ。しかし、物があふれる現代にあって時代は変わってきている。
 我が家の中には使いもしない物が山のようになってあふれかえっている。とりわけ私がいる部屋はすごい。机兼用こたつの周囲だけわずかなスペースがあり、それ以外はものすごい量の本や物が転がっていて歩くスペースもない。何でここまで物があふれたかといえば私がもったいないと思って物を捨てないからだ。
 もったいないと思う気持ちがあるから捨てないでとっておく。それで部屋に物があふれ、結局は使いこなすことなく死蔵させる。購入したときはお宝のように思えた物が、数回使ってあとは放りっぱなしにしていた。それががらくたと化して私自身の生活をも圧迫しているのである。
 使いもしない物をあふれさせるくらいなら、思い切って捨ててしまうほうがずっとすっきりするし、快適な空間も戻ってくる。残しておいても価値がない物など捨てる方がいいのだ。だが、それができない。
 ということは「もったいない」と思うことが間違っていたのだろうか。もったいないって、何だろうか。もったいないと思うことは絶対正しい主張であるはずだ。人はこの考えを捨てると道を誤るとは思う。しかし、豊かな現代にあっては「もったいない」は転落の可能性を秘めた危うい主張でもあるのだ。
 今の物飽和は異常なまでな物欲の追求で行き着いた結果である。すてきな物を手に入れることは幸せになる道だ。そう信じて我々は次々と「画期的で便利な新製品」を購入し続けてきた。しかし、新製品を購入したとしても幸せな思いはほんの一瞬だけですぐに飽きてしまう。だが、もったいないからそれを捨てることまではしない。忘れさられて、さらに別な新しい物が欲しくなる。物欲の権化と化して、それから逃れられないのだ。欲しい物を手に入れれば幸せになれるという幻想に囚われて永久に物を買い続けるのである。
 しかし、普通の人間の購買力は限りがあるから、外的条件がその暴走を止めてくれる。金がなくなれば買いたくても買えないから諦めるしかない。人はそれを「貧」と呼ぶ。しかし、貧しいことが本当に不幸な状態なのだろうか?
 最近、諸悪の根源はこの物欲にあるのではないかとつくづく思い始めている。仏教で言う煩悩、これを捨て去ることが救済の道ではないかと思うのだ。だが、そうなるともったいないとはどう折り合わなければならないのだろうか。
 時々自分がゴミの山にいることに気がついて頭がおかしくなることがある。思い切ってこれらを全部捨てたらどんなにすっきりするだろうかと思う。しかし、全部捨ててきれいにしても、同じことを繰り返すのではないか。リセットしてももったいないがあるかぎりまた同じ間違いを犯す気がする。人間とは何と矛盾したしょうがない生き物なのだろうかと考えてしまうのだ。
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私のことを「ひげ爺」と呼んでいるk君が正月に遊びに来た。早いもので彼も今年は小学校一年生になるという。初めて見た子猫のエンジェルがすっかり気にいったようで、二人で遊んでいた。エンジェルは自分の長い天然毛皮のコート以外は何の財産も持っていない身軽な姿だからすこぶる軽快に飛び回る。これを追いかけ回すK君も身軽ではあるが、お母さんから新しいランドセルを買ってもらったから、今後少しずつ財産を殖やす「物持ち」になって次第に身軽ではなくなっていくことだろう。
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by Weltgeist | 2015-01-06 23:58