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ついに2000回になりました。でも、これから7月17日まで休みます (No.2000 14/06/30)

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 目標としていたブログ掲載2000回についに到達しました。2008年1月から始めて約6年半での達成です。最初はリタイア爺さんの暇つぶしのつもりだったので、あまり深く考えることもなく軽い気持ちで書いていました。最初のころはなにもかもが新鮮で、書きたいことが一杯あって、書いていても毎日が楽しかったです。しかし、1500回を越えるころから次第に更新のペースが落ちてきました。
 これまでの自分が書いてきたものをときどき読み返すと、何かテーマを変えて書いているようでいても実体は似たようなことをダラダラ書いているだけではないかと思い始めたのです。優秀な人間なら1000回だろうと2000回だろうと、毎回新鮮でざっくり掘り下げたテーマを書けるのでしょうが、小生には自分の限界が見えてきてしまったのです。そうなると、これ以上ブログを書くことに意義があるのか疑問に感じるようになりました。次第に毎日更新することが嫌になってきたのです。こういう状態がマンネリなのかもしれません。
 しかし、これってよく考えてみると人が生きている意味を問うことと同じではないかとも思います。あなたは人生にどんな意義を感じて生きていますかと聞かれて、明確な答えを言える人はいないでしょう。昨日と今日でまったく違った人生を毎日送ることなどできません。日々がマンネリの連続なのだから、ただ漫然と生きているとしか言えないのと同じではないか。
 だから、ブログも始めた以上、多少マンネリでも2000回までは何とか頑張ってみようと思い、ここまで来ました。おそらく小生がブログを書く意味、意義は人生の意味と同じで、永遠に分からないでしょう。乗りかかった船だからずっと乗り続けるしかない、そんな気持ちになっています。でも人はマンネリでも自分の思いを発信する意義はある。人生とはこういうことなのかもしれません。
 しかし、2000回を過ぎたので、これからは一つの区切りとして毎日更新は止めます。というのも2000回も書いていて、自分の言いたいことは書き尽くしたと思うからです。今後は本当に書きたいことが心の中にわき起こったときだけ発信しようと決めました。もちろんそうした気持ちが毎日あって、結果として連続更新になるかもしれないし、長い休止が続くかもしれません。
 幸いというか、好都合にも小生これからある国に旅に出て留守をするので、しばらくブログは休まざるを得ません。どこの国へ行くかは帰ってきてのお楽しみとさせてください。帰国するのは7月中旬。無事に帰って来れれば7月17日に帰国報告だけはやるつもりでいます。日本では経験できない目新しいことを見聞できればブログに続けて書くかもしれないし、やらないかもしれません。たぶん、ポツンポツンと続けていくのではないかと思いますが、人生と同じで先のことは分かりません。


そんなわけで、7月17日までブログはお休みします。

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こんな異国情緒のおじさんが今回の旅で写真に撮れればカメラ小僧の小生は最高にうれしいです。


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by Weltgeist | 2014-06-29 22:15

ウエアラブル端末なんて要らない (No.1999 14/06/28)

 昨日のニュースで洋服のように体にまとって使えるウエアラブルコンピュータ端末が発売されたことを報じていた。以前から開発されていた眼鏡に小さなディスプレイをがつけたものや、腕時計型、中には腕のリストバンド型のものまで出て、人間はますます便利になっていくようである。
 小生が初めてコンピュータを使い始めたのは1985年ころである。一回ずつコマンドを打ち込むMS-DOSは使いにくく、液晶はモノクロ、本体は重くて持ち運ぶこともたいへんだった。いまはそんな時代とは様変わりの発展ぶりで、小さくて軽いコンピュータが誰にでも気楽に使えるようになった。まさにバラ色の素晴らしい社会が実現してくるように見える。
 携帯電話がスマホになり、iPadやタブレットがさらに進出してついにウエアラブル端末時代の到来となった。ほんの数年前にスマホが出て、みんながIT革命のまっただ中に放り込まれてしまったのを見ると、時代の進む速さは驚異的である。
 今では電車の中を見渡せばほとんどの人がスマホの画面にかじりついている。一日せいぜい数時間しかコンピュータを開けない小生にとっては、のべつまくなしにスマホやタブレット端末を見ている人を見ると、何でそこまで一生懸命して端末を見ているのか、聞きたくなってしまう。もちろんネットだけでなく、メール、ゲーム、ワンセグテレビ鑑賞と様々な用途で使っているだろうが、この人たちがやがてウエアラブル端末になだれ込んでいくのは間違いない。
 ずうっとスマホにかじりついて一日を終えてしまう人を見ていると、ちょっと情けない気持ちになる。IT中毒になっていて、瞬時もスマホを放せないのではないか。これは一種の病気である。それがウエアラブル端末登場でさらに進行しそうだ。大量のデータはクラウドに置き、端末操作で様々な転用ができる。おそらく5年もすれば途方もない使い方で、人間の生活様式はまたまた大きく変わってくるだろう。しかし、それが人間にとって良いことであるのか、小生には分からないでいる。
 ここまでコンピュータが発達してくると、人は考えることを停止する。何か知りたいことがあったとしても検索すればあらゆる事柄が瞬時に分かってしまう。昔は沢山の本を読み、勉強し、それを基に物事を考えていた。しかし、これからは考える必要などない。お手軽にネットにある情報をただでいただき、それで少し利口になった気になれるのである。
 これは人間の痴呆化への道である。機械の発展は人の仕事を楽にしてくれた。しかし、その結果昔のように沢山の人間は要らなくなる。便利な機械がリストラをもたらし、人の価値を下げる。それと同じようにITに頼りっきりで、ものを考えなくなった人間の脳みそはどんどん退化していく。便利さを得ることで、人の価値は下がるばかりなのである。
 だから小生はスマホも買わない。携帯でインターネットを見ることもないから、昔ながらのガラケーで十分である。ましてやウエアラブル端末なんて全然欲しいとも思わない。そんなこと言ってると時流から取り残される恐れがあるよ、と人は言うだろう。しかし、小生は人間の価値を下げていくそんな社会の発展なら、波に乗りたいとも思わないのである。
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by Weltgeist | 2014-06-28 22:35

鯉のおいしさに目からうろこが落ちた (No.1998 14/06/26)

 ノングルメで食べることにあまり興味のない小生なのに、このところ食べ物の話ばかりです。先日東北の珍味・ホヤについて話しました。今日は長野県佐久で食べてきた鯉の話です。
 渓流釣りが好きな小生にとって、鯉のような平地の池沼にいる魚はあまり釣った経験がない。イワナやヤマメがすむ山奥の渓流では鯉が外道として釣れてくることもないからだ。ところが、最近もっと下流のいわゆる本流域での大型ヤマメ釣りをやることが多くなって鯉が外道として釣れてくることがときどきあるようになった。
 本流のヤマメ釣りをやっていて鯉が掛かるととんでもないことになる。引きの強さに一瞬化け物のような大ヤマメが掛かったのかとドキドキするが、スピード感はないのに猛烈に重量感のある魚の暴れ方ですぐに鯉だと分かる。散々暴れ回った末に、水面に鯉の丸い口が見えてくるとヤマメでなくてがっくりするのである。
 小生にとって鯉はいつまでたっても釣りの対象魚にはなれない外道である。こんな奴がきたら早くハリから外れて逃げて欲しいと思う。暴れ回れば細い渓流竿などポッキリ折られる恐れがあるからだ。歓迎せざる外道は釣れてきても早く逃がすことばかり考えてしまうのである。
 ところが、いつも一緒に渓流釣りに行く釣友のTK君はなぜか鯉が大好きだ。だから、小生が鯉をハリに掛けて、そのあと逃がしてやったというと、ひどく残念そうな顔をする。彼に言わせれば鯉は最高においしい魚だから、釣れたらリリースなんてとんでもない。おいしく、おいしく食べてやるのだと言っていた。
 だがこれまで小生は鯉をおいしい魚と思ったことは一度もない。何か泥臭くて食べる気のしない魚をTK君がおいしいというのが信じられなかった。TK君の鯉好きは特別だろうと思っていたのである。
 それが先日、長野県佐久地方にドライブに行って昼食を何にしようか迷ったとき、TK君がわざわざ佐久まで鯉を食べにくるということを思いだした。彼は「**さん、鯉がおいしくないというのは間違っている。一度佐久へ行って本場の鯉を食べてみてほしい」と言っていたことを思い出したのである。
 せっかく佐久まで来たのだからそれじゃTK君が言う本場の鯉を食してみようと、小海線中込駅近くにある鯉料理専門店に入って、鯉こく、うま煮、あらいの三点セットの定食を食べたのである。
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 上の写真で右にあるのがうま煮だが、これを一口食べたとたんに「ウッ、何だ、これは」と思ってしまった。泥沼にいるくさい鯉を想像していたのに、においなど何もない。それどころかすごくうまいのだ。続いて出て来た鯉こくも信じられないほどおいしい。小生、スズキやコチなど海の魚のあらいを知っているので、こちらはそれほどとは思わなかったが、隣で食べている我が家の共同生活者(早い話が小生の奥さん)もあらいもすごくおいしいと言っているからこれも抜群なのだろう。
 ま、ノングルメの小生の舌だからあまり断定的なことは言いにくいが、鯉という魚の概念をぶちこわすほどのショックを受けたのは確かである。だが、それではいままで食べてきた他の地方の鯉は何でおいしくなかったのか。鯉の種類が違うのか、それとも料理法が違うのか。食べ終わったあと、料理人に聞いてみたら、それは佐久鯉が食用としておいしく食べられるように育てられ、それなりの料理法も研究されてきたからだ、と言われた。
 つまり、鯉が違っていたのだ。自然な池沼で泳いでいた鯉をきれいな水の中で泥を吐かせた程度ではおいしい鯉にはならない。佐久鯉は食用としておいしくなるよう220年もかけて品種改良されてきたもので、しかも千曲川の冷たい水温で普通の鯉より成長を遅らせて育てているから、くさみがなく、身が引き締まっていると言う。
 世間一般での鯉料理はソーソーであっても、佐久で食べる本場の鯉料理は味が違うというのだ。食材の違いと200年に及ぶ料理法の研究で、鯉がこれほどまでおいしい魚になることを知り、目からうろこが落ちる思いがしたのだった。

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by Weltgeist | 2014-06-26 23:51

限りなき感銘。シュテファン・ツヴァイク、「人類の星の時間」 (No.1997 14/06/24)

 まもなくブログ掲載 2000回を迎える。毎日更新も2000回を越えたら気の向いたときだけ書こうと思っている。しかし、2000回のゴールが見えてきたこの頃になって早くも「気の向くまま」の気持ちが強くなって毎日更新をしなくなっている。だが、2000回を前にしてどうしてもやらなければならないことが残っている。それは、当ブログの右欄にある「ライフログ」に小生のお気に入りとしてハイデガーの「存在と時間=Sein und Zeit 」、アバドの「マーラー交響曲第二番DVD」と並んで載せてあるシュテファン・ツヴァイクの「人類の星の時間」について書くことだ。
 オーストリア生まれの伝記作家、シュテファン・ツヴァイクは小生の一番好きな作家の一人であり、これまで彼が書いたマリー・アントワネットマゼランエラスムスなどの作品を別なときに取り上げてきたが、彼の最高傑作はやはり「人類の星の時間」である。これについて書かないまま2000回を越えたくはない。そのためにも今日はこの「人類の星の時間」を取り上げたい。

 
d0151247_14555640.jpg 1927年に発表された本書の原題は、Sternstunden der Menschheit =シュテレンシュトゥンデン・デア・メンシュハイト。これを片山敏彦氏は「人類の星の時間」と訳した。ドイツ語で星はシュテルン、瞬間(時間)はシュトゥンデであるが Sternstunde と言うドイツ語はない。ドイツ語特有の二つの言葉を組み合わせて作った造語・シュテルンシュトゥンデを「星の時間」としたのは片山氏の名訳である。
 ではツヴァイクが語る星の時間とはどのようなものだろうか。彼は序文の中で「どんな芸術家もその生活の一日の二十四時間じゅう絶えまなく芸術家であるのではない。彼の芸術創造において成就する本質的なもの、永続的なものは、霊感によるわずかな、稀な時間のなかでのみ実現する。・・・時間を超えてつづく決定が、或る一定の日附の中に、或るひとときの中に、しばしばただ一分間の中に圧縮されるそんな劇的な緊密の時間、運命を孕むそんな時間は、個人の一生の中でも歴史の経路の中でも稀にしかない。こんな星の時間――私がそう名づけるのは、そんな時間は星のように光を放って、そして不易(ふえき)に、無常変転の闇の上に照る」と書いている。
 どんな天才芸術家といってもいつも天才であるわけではない。ふだんは我々と大差ない凡人が、ある瞬間だけ突然天から神がかった力が宿ってきて、それが歴史をも変える偉大な天才を作り出すというのだ。その瞬間こそ星の時間である。長い人類の歴史ではそうした神のいたずらとも言える希有なことがときどき起こるのである。「世界歴史にもそのような時間が現れ出ると、その時間が数十年、数百年のための決定をする。そんなばあいには、避雷針の尖端に大気全体の電気が集中するように、多くの事象の、測り知れない充満が、きわめて短い瞬時の中に集積される。一切を確定し一切を決定するような一瞬時の中に凝縮された・・瞬間は、ただ一つの肯定、ただ一つの否定、早過ぎた一つのこと、遅すぎた一つのことを百代の未来に到るまで取返しのできないものにし、そして一個人の生活、一国民の生活を決定するばかりか全人類の運命の経路を決めさえもするのである。」
d0151247_21572582.jpg ツヴァイクはそんな希有な体験をした12人の人について書いている。コロンブスのアメリカ発見で沸き立つヨーロッパから太平洋を渡りパナマ地峡を越えて太平洋の鏡のように輝く海面をヨーロッパ人として初めて目に焼き付けたバルボアや、長い間スランプで曲が書けなくて廃人みたいになっていたヘンデルが、突然目覚めて、不眠不休であの大曲・メサイアを書き上げた話、ナポレオンの運命を変えたウォーターローの世界的瞬間、極点初踏破競争に挑みながらアムンゼンに敗れて南極の雪原に散ったロバート・スコット大佐の悲劇など、歴史上の転回点ともいえる極限状況に置かれた人間の偉大さと悲劇を書いた名作である。
 韻を踏んだ美しい文章で書かれた12の短い物語には、それぞれ凡人には経験できない人類の輝ける崇高性が垣間見える。これら12人のうち、誰が一番心に響いたかは読む人によって違ってくるだろう。小生が一番好きなのはメサイアを書いたヘンデルの復活だ。
 すでに才能が枯渇してまったく曲が書けなかったヘンデルが、メサイア作曲の依頼を受ける。だが、初めはまったくやる気がしない。ところがどこからともなく最初のフレーズが浮かんでくる。それを忘れないように譜面に書き写していると、すぐ次の音が鳴り響き、さらに次の音が・・・。わき起こる音の洪水はとどまることがなく、数時間後にはそれを譜面に書き写すことだけに没頭するようになるのである。このときヘンデルに星の時間が降りそそいでいたのだ。取り憑かれたようになったヘンデルは三週間の間、ぶっ通しであの大曲・メサイアを完成するのである。出来た曲は素晴らしいものだった。「あらゆる音のうちでもっとも始原的な、単純素朴な母音Aから始まってついに一つの音楽の伽藍が建つまでとどろき、充実して尖頂は天に触れつつ、ますます高まってふたたび墜ちふたたび高まり、ついには大オルガンの嵐につかまえられて運ばれ、結合した声々の力によって繰り返し空へ高く投げられ、あらゆる高さの層を満たして、最後にはこの感謝の凱歌に、天使もまたその諸声をあわせてうたっているようであった。限りもないこの賛美の声に押されて、建築の頂が避けるかのようであった」とツヴァイクは感想を書いている。
 そうして、星の時間に憑かれたヘンデルは、曲を書き終えたあと17時間ぶっ通しで眠ったと言われている。彼は自分の全存在をかけてメサイアを完成したのである。年末によく演奏されるメサイアを聴く度に小生は、ツヴァイクの素晴らしい物語からヘンデルの復活を思い出す。そこで偉大な天才が「弱音をはくな、人は立ち直れる」と言っているような気がして、新たな生きる力を得るのである。

メサイアのなかでも一番おなじみの「ハレルヤコーラス」はユーチューブでもたくさんあるが、現代的な演奏なら Andre Rieu のLive From Radio City Music Hall in New York City 2004 が軽くてお勧め。こちらをクリック


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by Weltgeist | 2014-06-24 21:52

なくなった人の霊はどうなるのか (No.1996 14/06/22)

 先日なくなった親しい友・Kさんの記念礼拝式が本日キリスト教の教会で行われ、参列してきた。すでに葬式はすんでいる。今日は司祭による聖書朗読、そのあと何人かの方がKさんの思い出を語り、みんなで賛美歌を歌って主を賛美して終わりである。お焼香もなければ献花もない。ただ、Kさんの冥福を祈るだけのシンプルな式であったが、とても感銘を受けた。
 日本ではお坊さんが訳の分からないお経をムニャムニャと読んで、それらしい厳かな雰囲気を醸し出しているが、参列者には坊さんの言うお経の意味も、僧侶が式で行う所作の意味も全然理解できない。むしろわざと荘厳な雰囲気を作って、素人は僧侶のやることに黙って従えばいいと言われている気がする。だから死者の霊に思を馳せようにも我々にはままならない。
 だが、キリスト教では神を信じる者は天国へ行かれるということを聖書の言葉を引用しながら司祭が分かりやすく説明してくれた。このことで余計Kさんとの心のつながりを深く感じることができたのである。お布施の多寡で戒名を決める日本のお葬式は、魑魅魍魎を隠れ蓑に死者の霊を金で選別する悪しき風習の気がする。お金で動く神様など碌でもないものに決まっている。
 小生、キリスト教のこうした式に参列するのは初めての経験だったが、このお別れ会に心を打たれるものがあった。Kさんの肉体は滅んでしまった。しかし、たましい、すなわち霊魂は天国へ行ったことは間違いないと皆が信じている。生前のKさんを良く知る小生としては、誠実な彼女が天国以外の場所に行ったとは絶対思っていない。彼女は素晴らしい人生を終えて確実に天国へ行ったと信じている。
 しかし、小生は天国を見たことがないので、それがどのような場所なのか想像できない。人類が発生して以来、何千億人もの人が亡くなっている。そうした人たちの霊が永遠に生きるとすれば、天国はものすごい数の霊であふれていることだろう。
 そして、「死んでもまた天国で会おうね」と約束して行った人たちはそんな混雑の中でどのようにして再開できるのか。さらには永遠に生きるとすれば、72歳になる小生は老人のままの霊だろうか。以前何かの本で死者の霊は、死後はみんな20歳くらいの青年になると書いてあった。そうなら小生の霊は若返るし、子供の霊は瞬時に青年になる。もちろんこれは想像であって本当のところは分からない。
 小生は今まだ生きているにしても、いずれはKさんがいる霊の世界に旅立つことだけは確実である。今は死後の世界のことなど考えても分からないかもしれない。しかし、神の恵みを信じた人だけが天国での平安と幸福を約束されると言う。先に行ったKさんはそう信じて天国へ行ったのだ。自分も必ず天国に行けると信じることが一番幸福な生き方なのだと今日はつくづく思わされた。
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Fra Filippo LIPPI / Annunciation (detail) / 1443 / Alte Pinakothek, München. 2000年にミュンヘン、アルテ ・ ピナコテークで当時のオリンパス最高コンパクトデジカメで撮った(たぶん800万画素くらい? )リッピの受胎告知。このくらいのサイズなら800万画素で十分写る。普通に使うなら高画素カメラの必要性はないだろう。


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by Weltgeist | 2014-06-22 21:47

2014年、菖蒲の写真 (No.1995 14/06/19)

 今日も菖蒲の花の写真を貼ります。ただ、天の邪鬼だから他の人のように花のアップではなく、自分が感じたままの菖蒲の花はこんなものだろうというイメージだけで撮ってみました。焦点が定まらず、目がチカチカする写真になってしまったことはお許しください。とくに最後のズーミングのカットはやり過ぎの失敗作かもしれません。なお、本日は写真だけで文章はありません。
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by Weltgeist | 2014-06-19 22:39

ホヤについて (No.1994 14/06/18)

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 ホヤという食べ物をご存知だろうか。最近は東京でもときどき売られているのを見るが、全国的にはあまり知られていない北国の珍味である。東北の太平洋岸、とくに三陸海岸を中心に盛んに食べられている。しかし、東京より西の地方ではまだなじみが薄いようだ。
 それでも東京のスーパーで最近ようやく売られるようになったものを見ると、皮をむいた身を塩水に漬けて売っているものが多い。生きたホヤは写真のように奇妙な形をしているから知らない人は皮をむいた半調理品でないと食べられないのだろう。
 一見すると海草のように見えるが、実はこれでもれっきとした動物である。幼生の頃はオタマジャクシのような格好をして泳ぎ、海底の岩などにくっつくと植物の根に似たもので固着して写真のような姿に変態する海産動物なのである。
 この変わった生き物を小生が最初に食べたのは昭和40年台前半の頃である。三陸海岸に釣りに行ってたまたま入った食堂でおばさんが食べさせてくれた。皿に乗せられたホヤを見て、得体の知れない姿に最初は一瞬たじろいだ。不気味な気持ち悪いものに見えて、おそるおそる食べたのである。そして、口の中に入れたとき何とも表現しがたい味がした。うまいともまずいとも言える段階ではない。それらを超越した不思議な味だったのだ。
 第一はホヤ独特のにおい。言葉では表現できないが、いままで食べたどんな食べ物とも似ていない不思議なにおいであった。ところが、そのにおいが妙に後を引くのだ。変なにおいだが悪くない。いや、また食べたいという思いのする魅力的なにおいに思えたのである。
 もう一つはホヤ独特の食感だ。酢の物にした身を口の中でかむと、しゃきっと切れる。それがこれまた何とも形容しがたいおいしさがある。それで、このときから小生は無類のホヤ好きになってしまったのである。
 しかし、ホヤの味は絶対マイルドではない。それどころかものすごく癖のある食べ物だから、好き嫌いがはっきり出るだろう。うまいと思う人は癖のある味に魅了されるが、駄目な人は「こんな変なにおいのするものなど食べられない」と拒否することだろう。それだけ個性の強い食べ物なのだ。
 まだ東北のマイナーな食べ物にすぎなかったころ、小生はせっせとホヤを食べた。というのもそのマイナーさが、ホヤの値段の高騰を抑えてくれていたからだ。昔は三陸の浜へ行くと、一個10~50円くらいの安さで食べられた。しかし、ホヤがいずれ全国区の食べ物になれば第二のウニのように高価な食べ物になるかもしれない。そうならない前に小生はせっせとホヤを食べるつもりである。
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ホヤはその形がランプのホヤに似ているところから付けられた名前だという。近くの魚屋では「海のパイナップル」といううまいキャッチフレーズで売っていた。
料理の仕方は表面の硬い皮をはぐと中の黄色い身が出てくる。これをホヤの中から出た海水(塩水でもいい)で洗って、キュウリと一緒の酢の物で食べるのが小生の好みである。小生、酒はたしなまないが、左党には絶好の酒の肴となることだろう。変わったところではスパゲティに入れたりして我が家では食べている。ホヤは新鮮なほどおいしく、鮮度が落ちてくると独特のにおいが強くなってくる。なるべく新鮮なうちに食べるのがお勧めだ。


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by Weltgeist | 2014-06-18 23:40

今日も大忙し (No.1993 14/06/16)

 何でそんなに忙しいのかって? 実は来月早々からまた外国までチョウチョを採りにいくからだ。小生の大好きな白い翅に赤い斑点のあるウスバシロチョウ・パルナシウスを求めてだ。でも、パルナシウスがいるところは世界の屋根のような高所である。しかも今回はその場所まで行ってもうまくチョウチョが採れるか全然分からない。情報が全くない空白地帯なのだ。
 そんな世界の果てといったところなので、どんな支度をしたらいいのかも分からず、現在、色々な装備を出したり仕舞ったりして迷っている。
 そもそも外国旅行でいつも使っている大型のスーツケースに荷物を入れるところでつまづいてしまった。というのも、目的地までの数百㎞を地元のバスで移動するが、この国では長距離バスの乗客荷物は屋根の上にしばりつける。布製のバッグだと固定しやすいが、ツルンとしたスーツケースは悪路を走っているうちに屋根から落下する恐れがあるから厳しいのだ。
 それで久しぶりに60リッターのアタックザックを押し入れの奥から取り出してきた。山登りで昔散々使っていた古いザックである。しかし、これだと荷物があまり入らない。モバイルPCや三脚などは論外としてもカメラ本体と交換レンズは減らしたくない。半月以上の日程だから、着替えだって何着かは必要だ。それらを詰めてみたら容量不足で全然入らない。解決するにはスーツケースに戻すか、もっと大きなザックを買い換えるか、それとも荷物を減らすかである。
 いまのところスーツケースはむずかしいし、ザックの買い直しももったいないから、荷物を少なくする方向で調整している。しかし、これが想像以上にむずかしい。荷物を減らすには一切の文明の利器を諦めて、着替えも持って行かないことである。どうせ僻地だから着替えなんかもいらない、汚い格好でずっとしらばっくれるしかないかなと思案している。でも、もし雨に濡れたら着替えがないとどうする。文明社会にどっぷりつかった小生にはあれこれ考えると決断ができないでいる。雨具や交換レンズ、予備用のカメラなどを出したり引っ込めたりと、相変わらず荷物をいじくり回して時間だけ浪費しているのである。
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by Weltgeist | 2014-06-16 23:50

東村山市の菖蒲は満開だった (No.1992 14/06/14)

 宮崎駿の映画「となりのトトロ」の舞台となった東村山市八国山緑地わきにある北山公園で菖蒲の花が満開と聞き、行って見た。本日は長雨もあがって久しぶりの晴天であってか、たくさんの人が歩いている。彼らにつられるようについていくと、満開になった菖蒲の花が咲く公園が見えてきた。
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 どうやら今日は最高にいいときのようで、公園はまさに「東村山菖蒲まつり」を開催している真っ最中であった。菖蒲の花は満開である。そして入り口付近にはこの菖蒲まつりの東村山市イメージキャラクター「しょうちゃん」(右)と、男女二人の西武鉄道キャラクターの「レイルくん」(左)と「スマイルちゃん」(中)の三人が歓迎の出迎えをしている。
 キャラクターといえば「くまもん」しか知らない小生、西武鉄道に男女のイメージキャラクターがいたのも、菖蒲まつりにしょうちゃんなるキャラクターがいたことも今日現場にいた西武の担当者から聞いて初めて知ったことである。担当者の説明では東村山にはしょうちゃん以外に「ひがっしー」というのもいるというから、最近のキャラクターは単数ではなく色々取りそろえているようだ。そんなだから、全国的にはそこら中の市町村でキャラクターが出来ていることだろう。西武鉄道の制服を着た係員は菖蒲見学者にサービスの余念がないようだった。(しかし、これは余談だが西武ライオンズ、負けてばかりで情けないぞ。もう少し頑張ってもらいたいなぁ)
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 そんなわけで菖蒲園の中に入ると、たくさんのデジカメを持った人が菖蒲の写真を撮っている。小生もつられて撮ってみたが、センスがないのかうまくは撮れない。一番マシなのがこのカットであとは花だけがアップの平凡なものとか、構図が駄目なボツ作品の山であった。まあ、花とかチョウチョの写真はうまく撮れたためしがないので、こんなものだろうと諦めつつ納得して今日のところは花の見学に徹することにした。
 本当は入り口に沢山並んでいたお祭りの出店の人たちがアイスクリームやお菓子、焼きそばなどを売っている様子を撮れば面白い写真になったろうが、それ用のレンズを用意していなかった。人物の写真を撮る場合、日本では肖像権がうるさくなってきている。その問題をクリアーしてまで撮影するほど価値のある場面はなかったので、レンズもないこともあってこちらを撮ることはやめにしたのである。
 菖蒲の花がどのくらい見頃が続くのか分からないが、素人判断でたぶんあと一週間は大丈夫だろう。もし東村山近くに住む人なら、来週末までに行けば楽しめるのではないかと思う。また、公園を流れる水路に意外なほどエビガニがいて、エビガニ釣りをしている子供たちが何匹かを釣り上げていた。
 小生も子供の頃エビガニ釣りに夢中になり、それの影響で釣り好き人間になったのである。小さな子供たちがエビガニ釣りに興じている姿を見ているうちに、「小生もあんな時代があったのだ」という子供時代の思い出がよみがえってとても懐かしくなったのだ。お父さんたちよ、もし退屈している子供がいるなら、エビガニ釣りか小魚すくいの網を持って子供をつれていけば、きっと楽しい思い出を作ってやれると思う。東村山菖蒲まつりはお勧めと言いたい。
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by Weltgeist | 2014-06-14 22:18

ウナギが食べられなくなりそうだ (No.1991 14/06/13)

 ニホンウナギが絶滅危惧種に指定されそうだ。国際自然保護連合がニホンウナギを近い将来、絶滅する危険性が高いとして絶滅危惧種に指定し、レッドリストに掲載したとニュースが報じていたからだ。ウナギが大好きな日本人にとっては困った事態だが、ウナギがいなくなれば食べることもできないのだから、やむを得ない決定なのかもしれない。
 しかし、ウナギがいなくなることの原因がすべて日本人の過剰なウナギ食にあるわけではない。遠い南の深海で産卵し、稚魚のシラスウナギが日本の河川まで泳ぎ着き、上流に遡って大きくなり再び産卵行動のため南の海に戻っていく。このサイクルがある程度保たれていれば今ほどウナギの減少を招かなかったはずだ。
 ところが、日本の川でウナギが遡上する河口には稚魚のシラスウナギを獲る人が待ち構え、仮にそれから逃れても上流には遡上したウナギを通せんぼするダムや堰堤が無数に作られている。ウナギが快適に過ごせる水の流量はダムで減らされるし、水質も悪化する。ダムは人間生活の質を高めるために必要とのかけ声で、今も建設を止める風ではない。あちらを立てればこちらが立たずで、ウナギはその被害者なのだ。同じように稚魚が海から遡上する鮎は養殖技術が確立しているし、琵琶湖の湖産種苗の放流で何とか生き残れている。ウナギも鮎のように完全養殖が成功すれば何とか息をつなげることができるかもしれないが、先行きははっきりしない。d0151247_23532274.jpg                       

 ウナギはヨーロッパでも食べられている魚である。しかし、日本の蒲焼きのような食べ方はしない。ヨーロッパでは日本とまったく違った食べ方をしている。2011年、ロンドンで老舗のウナギ料理屋・マンゼでイギリス風ウナギ料理を食べたことがある。テームズ川で獲れたウナギはパイやシチュー、冷蔵庫で凍らせた煮こごりゼリーなどの料理法で食べさせていた。あのとき痛切に感じたのは、なぜイギリス人は蒲焼きを思いつかなかったのかということだ。蒲焼きを知ったらもっとウナギは人気のある食べ物になるのに、という残念な思いだった。
 しかし、今思えばそれで良かったのだと思う。地元の人たちが気がつかなかったことをチャンスに、日本はヨーロッパウナギの稚魚を安い値段でせっせと輸入できていたからだ。おかげで昔は安く蒲焼きがたべられたのである。ところが、その結果「ヨーロッパ12カ国にある19の河川で漁獲されたウナギの稚魚(シラスウナギ)の量は、1980年から2005年までに、平均で95%から99%も減少」(国際海洋探査委員会発表)し、2008年にはニホンウナギより先にレッドリストに掲載されて取引が規制されてしまったのである。
 ウナギの蒲焼きを食べるのは主に日本だけど、世界から絶滅の危機を宣言されほど乱獲をして食べ過ぎたからだろうか。ヨーロッパウナギまで絶滅の危機に追い込む原因が日本人のウナギ食だけにあるとは思いたくない。しかし、これが大きな要因の一つではあろう。全部を独り占めしようとしてヨーロッパのウナギまで減少させてしまったのである。やり過ぎは問題である。資源が減少して危機的な状況が見えてくれば、後生の人までその楽しみが残るよう自制することは我々の義務でもある。しかし、それではウナギを食べないようにすればいいのかというと、ことはそんな短絡的なものではない。
 乱獲を避けてウナギの生息しやすい環境を作ること。そのためにはダムや遡上堰などの新設も制限する。極端に言えばいまあるいくつかの発電用ダムなどぶちこわすほどの改革意識がなければ難しい。しかし、便利さ快適さしか追求しない身勝手な現代人にそんな犠牲を強いても無理であろう。そのためにも早く完全養殖の技術を確立してもらうしかない気がする。
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by Weltgeist | 2014-06-13 23:59