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まだ立ち直れません (No.1981 14/05/24)

 今週の火曜、20日の日に小生にとって最も大切な友の一人であったKさんが亡くなった。肺ガンを患っていて、いつ死んでもおかしくない重病な身でありながら、何年も前から病気を物ともせず元気な姿を見せていた。そんな彼女を見ているうちに小生や仲間たちは「この人には奇蹟が起こっている。彼女はガンを克服した」と思い込んでいたのである。
 だが、奇蹟は起こらなかった。重い肺ガンに罹ればやはり人は助からない、死ぬのだという厳しい現実を有無を言わさず見せつけられてしまった。小生は精神的にひどく打ちのめされて、ブログを書く気にもなれなくなっている。
 親しい人が亡くなったのはKさんが最初ではない。両親の死にも立ち会ってきているから、こうした悲しみもいずれは和らぎ、やがて日常生活に戻れることは分かっているつもりである。しかし、今回のKさんの死はあまりに強烈すぎた。そんな気持ちのままブログで何かを書いたとしてもどこかに嘘っぽいものがある気がする。だからブログは少し休みたいのだ。
 もうしばらくKさんとの思い出だけに集中したい。小生の心はまだ内側に閉じられている。この気持ちが緩み、世間の方に心が向いてくるまで申し訳ないが、もうしばらくブログの掲載は休もうと思っている。
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我が家の猫額庭の葉に小さなテントウムシが止まっていた。小生がカメラを向けると、殺気を感じたのだろう。その小さは体から想像できないほどの早さで葉っぱの上を走り回って、すぐにどこかに隠れてしまった。こんな小さな命でも守ろうとして彼らは必死で生きているのだ。けなげな命の輝きを見て生きることの意味を改めて考えさせられた。

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by Weltgeist | 2014-05-24 22:44

さようなら、Kさん (No.1980 14/05/21)

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 昨日の夕方、外出先で悲しい知らせを受け取った。わが最愛の友であるKさんが、この日の午後4時過ぎに神様のもとに召されたと息子さんから連絡をいただいたのだ。ほんの三週間前に台湾、香港へのクルーズツアーを楽しんできたばかりと聞いていたから、この訃報にまさかとわが耳を疑ってしまった。
 何で三週間前に海外旅行できた人がこんなことになるのか。信じられない事態に小生はひどくうろたえて昨日は何も手に着かない状態になってしまった。しかし、考えてみればこれはある程度予測できていたことである。
 Kさんと知り合ったのは5~6年ほど前である。その当時Kさんはすでに肺ガンを患っていた。このガンにかかったらまず助からないという恐ろしい病気で、しかもステージ3というとくに危険な状態の人だった。だがKさんはそんな病に負けることなく力強く生きていて周囲の人を驚かせていたのである。
 抗ガン剤の治療で病院の入退院を繰り返していたが、退院して自宅療養している時は小生たちと会食したり、我が家にやって来たことも何度もある。そのときは自分が重病のガン患者であることを感じさせない力強い生き方をしていたので、「すごい人だなぁ」といつも感心していた。
 一年前に担当医から「来年の桜は見られないかもしれないよ」と言われていたのが、「今年も桜が見れた」と言って先月は喜びの言葉を語っていた。我々はその明るさからこの人はひょっとして不治の病を克服したのではないかと思っていたのだ。
 というのも、先月末の台湾、香港クルーズツアーのあとも、今年はまだ海外旅行すると自身のブログに書いていたからである。最後にKさんが書いたブログは5月10日、この10日後に亡くなるなど誰が思えたろうか。だが、病気は確実にKさんを蝕んでいたのだろう。元気そうに見えても病状は次第に悪化していた。Kさんは我々の知らないところで必死にガンと闘っていたのだ。
 人は誰も遅かれ早かれ死ぬ。その人生は様々であるけれど、生きてきたこと、人生の価値は時間の長い短かいでは計れない。どう生きたかだ。量より質の問題なのである。小生よりずっと若くして旅立たれたKさんは、いつも充実した人生を送ろうと全身全霊で努力していた。だからこそ亡くなる間際まで海外旅行をし、最高の形で人生を全うしたのだ。
 人が生きるとは如何なる意味があるのか。そしてこの世に生を授けられた以上、いかにしてそれを充実させるかは各人に負わされた責務である。Kさんはそれを見事にやり抜いて、素晴らしく意味のある人生を駆け抜けたのである。
 そうしたKさんの生き様から小生はいつも自分がどう生きなければならないのか、生きる意味について教えてもらってきた。Kさんはいまきっと天国で自分の人生の軌跡をながめて「すべて良かった」と思いつつ幸せな日々を送っていることだろう。
 さようなら、Kさん。貴方との思い出は決して忘れません。小生は貴方から受けた素晴らしい思い出の数々をかみしめながら、もう少しだけこの世にとどまっています。
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by Weltgeist | 2014-05-21 23:15

超多忙です (No.1979 14/05/18)

 昨日から個人的な用事ができてブログを書いている時間がとれなくなってしまっている。もちろん、今日も思ったことはいろいろあるのだが、それを文章にしてアップする余裕はないため、本日は写真だけにします。写真は我が家の前の山で、小生がいつも散歩しているコースの途中にある**広場を10㎜の超広角レンズに偏光フィルターを付けて今日撮ったものです。ブログを書く時間はないけど、散歩する時間はあるんだ・・・、との突っ込みはお許しください。
撮影データ、カメラ:D7100、レンズ:AF-S DX NIKKOR 10-24mm f/3.5-4.5G ED 、レンズ長:10㎜、f/5.6、1/320秒、ISO:200、JPEG、Fine、ケンコー円偏光フィルター装着。
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by Weltgeist | 2014-05-18 23:24

ユーレイカ・都心に最も近いウスバシロチョウの産地発見 (No.1978 14/05/16)

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 かねてから小生の家の前にある山にウスバシロチョウというアゲハチョウの仲間がいるとにらんでいた。しかし、2008年に二度見ただけで、そのあと一向にその姿を見ていない。以来ずっと目撃情報が途絶えているので前の山の生息は怪しくなっている。もし、ここに生息していれば、都心からもっとも近い場所にいるウスバシロチョウということになるのだが、2008年を最後に見ていないから絶滅したかもしれないのだ。
 それで、今日は少し作戦を変えて、もうちょっと我が家から離れた**という場所に探りに行った。離れたといってもわずか数㎞だから、ほとんど前の山と変わらないのだが、ここは前の山よりはるかに自然環境が残っていて、しかも幹線道路から離れた目立たない場所だから人もほとんどやってこない。これまで本格的にウスバシロチョウを探したことはないが、いる可能性は高い場所である。
 今日わざわざそこへ行ったのは、チョウチョでは小生の大ベテランに当たるOさんが来て、現在都心に一番近いウスバシロチョウの生息場所を調べたいと言ったからだ。可能性の非常に少ない前の山は無理、別な**がいいのではないかと小生が推奨したのである。御年80歳のOさんは、50年以上都下の各地を蝶採りで歩いている生き字引のような人である。昔はどこにでもいたらしいが、いまは林がなくなりすっかりいなくなってしまった。細々とわずかに生存しているウスバシロチョウの場所を、Oさんの昔の記憶と小生の土地勘から、ダメ元覚悟で**に行って見ようということになったのだ。
 すると到着して10分もしないうちに白いやや大きめの蝶がヒラヒラと飛んできた。他のアゲハチョウのように忙しく飛び回ることはしない。ゆっくりと優雅に滑空するような独特の飛び方をする蝶を目にしたのだ。
 そして、それがハルジオンの花に止まった。見ると間違いなくウスバシロチョウである。我が家の前の山で必死に探しても見つからなかったものが、わずか数㎞離れたところですぐに見つかってしまった。あっけない発見だが、これも長い経験を持つOさんの記憶と小生の土地勘のコラボレーションの結果である。
 チョウチョに興味のない人にとっては、別にどうってことのないことだろうが、小生とOさんにとってはとんでもなく大きな発見であった。大げさに言えば、西湖で見つかったクニマスノのようなインパクトがある。アルキメデスはお風呂に入ってあふれた水を見て、その量が同じ浮力を得る「アルキメデスの原理」を発見した。彼は狂喜して、「ユーレイカ(ユリイカ)、俺は発見したぞ」と叫びながら裸で風呂から飛び出したように、我々もうれしくて「ユーレイカ、ユーレイカ」と叫びたい心境になったのである。
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by Weltgeist | 2014-05-16 23:56

マイスター・エックハルト・世に起こる出来事はすべて神の意志にもとづく計画なのか (No.1977 14/05/15)

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 昨日書いたようにマイスター・エックハルトは人が己を棄てて無になれば、神の意志がその人に伝わってくると言っている。自分の考えを棄てて真っ白なホワイトボード状態になることで、人は神の意志を受け取ることができると考えているようだ。それは自分というものを持ってはいけない、神の完全なしもべとなることを意味する。
 人間を含めて世界は創造主(神)が造った被造物である。そうなら被造物(つまり我々人間)は「すべて神に適い、完全である」(説教1)はずである。なぜなら完全なる神が造ったものに間違いはないからだ。もし出来損ないなものを造る神だとしたら、神そのものが完全なものではなくなる。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」と天地を創造した直後に神自身が語っている(創世記1:31)ではないか。とすれば神は世界を悪いものとして造ってはいないのである。
 何か悪いこと、たとえば病気になるとか、息子が人様の物を盗んで警察のご厄介になるとか、諸々の悪いことがらであってもそれを神の意志として認めるべきである。一見すると悪いことのように見えても人間には思いもしない神の遠大な計画が隠されているかもしれない。だから全部を無条件に受け入れなさいと言うのがエックハルトの立場である。
 ひどい不幸なことにあっても不平を言ったり悲しんではいけない。「これも神の意志、賜物として受け取らなければならない。何が身に起ころうとそれを自分にとって最善と受け取らねばならない」(同書)のである。そうすれば彼はすべてが与えられると言っている。
 ここには人としての自主性は全然認められない。神がやったことはすべて善、グートなのだから、お前たち人間はそれを受け入れるだけで、他のことは考えてはならないというのがエックハルトの考え方のようだ。
 世の中には文句を言いたいことが腐るほどある。不満だらけの世の中なのに、それに文句を言うことは神の意志に対する反逆である。グチャグチャ言わずに、とにかく与えられた今の現状に満足して受け入れろという。
 小生のように72年も生きてきた人間には、この考え方は分からないでもない。苦しいことがあってもそれは人を強くするために神が与えた試練と受け止めるられる。あとから見ればそうした苦難は自分を磨き、高めてくれる契機になったと言うこともできるからだ。しかし、それでもエックハルトの言うことは極端すぎる。さすがに我々現代人はここまでの極論をそのまま受け入れることはできないだろう。


マイスター・エックハルトの項について最初から読みたい方はこちらをクリックしてください。
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by Weltgeist | 2014-05-15 23:20

何かを求める者は実は何も得ない。マイスター・エックハルト (No.1976 14/05/14)

すべてのものを棄てる人は、その百倍を(神)から受け取るであろう。しかし、その百倍を目指す人は何も与えられない。なぜならば彼はすべてを棄てるのではなく、その百倍を得ようと欲しているからである。われらの主はすべてを棄てる人たちに対してのみその百倍を約束し給う。だれであれすべてを棄てるならば、彼は百倍を受け取り、そのうえに永遠の生命を与えられるであろう。
マイスター・エックハルト、「説教」第一より、上田閑照訳

 中世ドイツの神秘主義者・マイスター・エックハルトを読んでいると戸惑うことばかりである。上の文章によれば、すべてを棄てる人のみが百倍のものを受け取ることができる。しかし、それは期待してはいけないことである。私の欲求を棄てるにしても、あとで百倍もらえることを期待して棄てるわけで、実際には棄てていないことになるからだ、と面白いことを言い出す。
 だから、仮に百倍ものものを受け取ったとしてもあまり意味はない。「すごいなぁ、百倍ももらってしまったよ」と喜んだ時点で、「はいアウトです」とされて、ご褒美の百倍も雲散霧消してしまう。百倍もらうことを望んでもいけないし、かりにもらってもそれを賞味してはいけないことになる。まるで日本の禅僧の「無心」のようなもので、分かったようでいて全然分からない。いや、禅は論理的思索の放棄が前提だから、そんな矛盾は考えなくても良いかもしれないが、西洋的論理の考えでは説明できない矛盾に突き当たる。
 エックハルトは人々にすべてを棄て去って何も求めないことを要求する。神は求めてはいけないものであるとして次のように言っている。神のうちに何かを求める人は、それが知であれ認識であれ敬虔であれ、求めたものを見いだすだろう。しかし、神は見いださない。彼がいかなるものも求めないならば、彼は神を見いだし、神のうちにすべてを見いだす。・・・人は如何なるものをも求めてはならない。認識も、知も、内面性も、敬虔も、平安も、一切求めてはならない。ただひたすら神の御意志(みこころ)のみを求めなければならない。・・神の御意志によらずして神を認識してもそれは無である。すべては神の御意志のうちにある。そこにこそ何か在るものがあり、すべて神に適い完全である。と。
 要するに人は何もやってはいけないのだ。何も求めず、ただじっとしていれば神様が全部やってくれる。必要なことは自分が完全な無になることである。自分の内面が何も無い真っ白なホワイトボードであるから、そこに神がやってきて何事かを書き記してくれる。何かが書かれていれば、神の御意志はぼやけたものになってしまうだろう。しかし、人間である以上そんなに簡単に無になることはできない。禅宗の坊さんが必死になって「無、無、無」と求めても無になりきれないのと同じで、実現不可能なことを要求しているのである。
 いや、要求すること自体がすでに無ではない。要求とは強烈な自己主張であるからだ。要求することなしに無を実現せよと無理なことを言い出すのである。こんな難しいことを言い出したから、エックハルトは教会からも異端の烙印を押されることになるのである。

以下、明日に続きます。

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by Weltgeist | 2014-05-14 23:51

最も快適でアットホームな服装 (No.1975 14/05/13)

 家の中で一日中パジャマでいたら奥さんから「そんなだらしのない格好をしないでください」と注意されてしまった。本日はどこへ出かけるわけでもない。ずっと家にいるのに一番楽な服装はパジャマである。これなら朝起きたときからすぐに着替えることなく行動に移せるし、動作も楽だ。家にいるときはパジャマにまさる快適なウエアーはないだろう。
 しかし、不意の来客があったりするとあわてる。パジャマで出るわけにはいかないから急いで普段着に着替えて、何事もなかったふりをして出て行く。不精者の小生にはこれが面倒で、やりたくないことである。
 以前、非常に親しい親友が来たとき彼ならいいだろうとパジャマのまま出ていった。口うるさい奥さんはちょうど買い物かなにかで外出していたので、鬼の居ぬ間にパジャマで友人と話していた。しかし、運の悪いことに奥さんがそのとき帰ってきて、小生のパジャマ姿に目が三角につり上がっていくのが見えた。
 もう30数年も一緒に生活しているとこういうとき彼女が何を言いたいのか分かるのだ。小生、雷が落ちる前にあわてて着替えに走ったのである。そうして世間並みの服装に替えて戻ると、彼女が「なんてだらしのない人なんでしょう・・」とあきれ顔をしている。面と向かって文句は言わないが、腹の中で怒っているのはよく分かる。
 だが30数年前、まだ彼女と結婚する前は小生もこんなではなかった。デートのときは、一番上等なよそ行きを選んで着ていったつもりである。汚らしい格好をして彼女に嫌われることがないよう、一生懸命気を使ったのである。
 しかし、こうしたことは小生には例外に近い。まだ独身の時代に入っていた釣りの会で、「***会の三キタの一人」と言われたことがある。キタを漢字で書くと「汚い」である。なりふり構わず汚い格好で釣りばかりやっている小生に、周りの人はそのように見ていたのである。
 そんな人間だったからまさか彼女が出来て結婚までするとは夢にも思っていなかった。女性にほとんどもてた経験のない小生は、一生独身で寂しく死んでいくと思い込んでいたのである。それがとんだどんでん返しで、結婚まで出来た。そして結婚してしばらくたった頃、彼女が小生の初印象を「なんて汚い格好をした人でしょう」と思ったと教えてくれた。自分ではめいっぱい頑張ったつもりだったが、それでも世間一般のレベルまで行かない男だったのである。
 そうして新婚時代の緊張感もなくなると、小生の本性は丸出しになる。もはや奥さんになった人の気を引き留める必要などない。悪い言い方をすれば釣れた魚に餌はあげないで、終日パジャマで押し通す。そのつど奥さんは小生の意識改革をしようと指導を強めるが、一向に効果が現れなくてもはやさじを投げられた感じなのである。
 ところで、パジャマばかり着ている小生だが、意外に衣装持ちである。といっても普通の方のものとは違う。釣りに行くときのフィッシングウエアを、海の船釣りから礒釣り、淡水のアユ釣り、渓流釣り用など、それぞれの釣りものに合わせて10数通りずつ揃えている。その数の多さは驚くほどで、以前問題になったイメルダ婦人の靴のコレクションを連想させるほどある。普通のおしゃれに興味はないけれど、釣りは別。サラリーマンがスーツでビシッと決めるように、釣り場でビシッとなるためのおしゃれ感だけは人一倍に強いのである。
 小生は野人。普通の人がおしゃれをする場はどうでもいい。フィールドでこそビシッと決めたいと思う、困った人間なのだ。
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猫のウエアは毛皮一枚だけ。寝ても起きても、また夏でも冬でもこれ一枚で全部通す。不精者の小生は本当は猫と同じようにしたいのだが、世間はそれを許してはくれない。だから、小生は猫を見るたびにうらやましく思い、猫が好きになるのだ。

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by Weltgeist | 2014-05-13 23:50

いきなりのPCブルー画面 (No.1974 14/05/12)

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 昨晩はまったく打ちのめされてしまった。コンピュータの電源が突然落ちて、書きかけのブログ原稿が消えてしまったのだ。少し前に起動ディスクをSSDに取り替えて、順調と思っていたので油断していた。まさか電源が落ちるとは思わず、途中保存しないまま書いていた。そのため原稿が全部なくなってしまったのである。
 もう少しで文章が仕上がる。最後に少し手直しすればアップロードできるところで突然電源が切れたのだ。まさに最悪のタイミングである。何の予兆も無しにいきなり画面がブルーになって英文のエラーメッセージが2秒くらい出て、それから画面は真っ暗になってしまった。わずか2秒でその全文を読むことは不可能である。まるっきり役に立たないエラーメッセージも消えてただただ呆然とするだけだった。
 バッテリーを内蔵しないデスクトップPCではこうした事故はときどき起こる。以前使っていたバイオではしばしばブルー画面電源落ちがあって悩まされたが、今度の組み立てPCは大丈夫と油断していた。しかし、これでも起こるのだ。バイオのときは一度起こったら連続するようになって、今のPCに買い換えた。いったい何が原因でこんなことが起こるのか。これがデスクトップの宿命なのだろうか。
 昨晩はブログの締め切り時間の間際に事故が起こった。もう一度同じ内容を書き直す時間も気力もなくなったから、「毎日更新」を諦めてそのまま寝てしまった。そして、今日もまだショックから抜け出せないでいる。ブログを書く気がしないのだ。昨晩書いた内容を思い出しつつもう一度書き直すなんてことは絶対やりたくない。といって新しい内容のものを書き起こす元気もない。
 一生懸命頑張って書いたものが完成間際に完全に消えてしまった悔しさを想像していただきたい。本当は途中保存をしなかった自分が一番悪いのだが、悔やんでも悔やみきれないそのミスにいまだ立ち直れないでいる。申し訳ないが、今夜もう一晩頭を冷やして気持ちを和らげたいのである。
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by Weltgeist | 2014-05-12 23:07

何気ないうわさ話の波紋 (No.1973 14/05/10)

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 以前にも書いたが、「ミネルバのフクロウ」というブログを始めるに当たって、特定な個人の悪口だけは書くまいと決めていた。とりわけ個人的な恨みや復讐心から相手の悪口を書くのはやめようと思ってブログを始めている。といっても人間的に未熟な小生、ときどき怒りが頭に昇ったこともあるから、どこまで守れたか自信はないのだが・・・。
 ところで人の悪口って、不思議と言われた当人のところまで伝わってくるものである。好評価ならともかく、自分の悪口が聞こえてきたりすると誰もが悲しい気持ちになるだろう。「ここだけの話だ」と言って小声でささやく悪口が、山彦のように反響して言われた当人のもとにまで届いてくることがあるのだ。
 人間はどんなに頑張っても完全ではないからどこかに弱点、欠点が出る。普通はそうした欠点を大目に見てくれるものだが、悪意を持つ人は逆にそこを集中的に突いてくる。嫌いな奴のことは何から何まで全部悪く見えてしまうのだ。悪意とは相手を悪く見ようとする気持ちだから、些細なことでも悪口の素材になってしまうのである。
 人間の心の中には性悪な根性のようなものが潜んでいて、ちょっとしたきっかけでそれが爆発することがある。しかし、中には年中誰かに向かって悪態をついている人がいる。こうした人の腹は真っ黒く汚れていて、どんな物事も文句の対象としか見えない。彼らは心が病んだかわいそうな人たちなのだ。悪口を言うことで自分の卑しさを表明しているに過ぎないのである。
 もしあなたが悪口を言われてオタオタするなら、それは自分に自信がないからだ。自分にしっかりとした自信を持っている人は何を言われても動じない。自分が正しいと思う信念は揺るがないのだ。言われてへこんでしまうのは、言われるだけの理由があるからだろう。だからそういう人は悪口を言われたら悪口で言い返し、最後は不愉快なケンカにまで進んでしまう。
 自分の心が汚れているから世界が汚れて見える。すべての人々のことを敬い、認める気持ちがあれば賞賛の言葉しか出てこないだろう。他人を認めることを完全に実行するのはたいへんむずかしいけれど、やるしかない。人の良い所を探し出して見るよう心がける。そのように強く決意すれば不思議と文句は消えて、相手の素晴らしいところだけが見えてくるはずだ。もちろん、ときどき踏み外す失敗はあるが、強い決意があればすぐに立ち直れるものである。


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by Weltgeist | 2014-05-10 23:55

道徳教育について (No.1972 14/05/09)

 子供の頃両親から「悪いことをしてはいけない」としつけられてきた。残念なことに親の言うことをあまり聞かなかった小生は、大きくなっても悪いことばかりやり続けた。だから、今になって若者に「悪いことをするなよ」と偉そうに言うことに後ろめたい思いがある。人にお説教をするほど偉い人間とは思っていないし、何かを言われて簡単に子供が従うとも思っていないのだ。
 ところが、今後小中学校で道徳の時間を設けて教えていくらしい。文部科学省のHPには道徳教育について「児童生徒が、生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることはとても重要です」とある。
 改正教育基本法で「道徳心を培う」教育を学校でしていくとすると、これからの先生は聖人君子のような正しい心の持ち主である必要がある。そうでなければ、他の人に「良い子になってください」ということ自体が欺瞞となるからだ。女子トイレで盗撮して捕まるような先生に教えてもらいたくはない。先生自身が良き人となるよう頑張るしかない。
 しかし、小学生に教える程度なら、人の物を盗んだり、人を殺してはいけない、嘘をつかず正直でありなさい、なんて基本的なことを教えるから簡単だが、高学年になってくると微妙だ。「良いこと」の判断基準がそれぞれ違う。それを一つの価値観だけで固定的に縛るのは問題だろう。
 昔から哲学者は道徳的に良いこと、「善」とは何かを考え続けてきた。たとえばカントは定言命法で「あなたの意志の格率が、同時に普遍的立法の原理に合致するよう常に行動せよ。それが善である」と言っている。自由な意志を野放しにするのではなく、最大多数の意志のベクトルが向く方向が道徳的に善であると言うのだ。
 しかし、この道徳観も運用するのはむずかしい。最大多数の意志のベクトルが戦前に日本のように「鬼畜米英をやっつけろ」という国民運動に向いていたらどうだろうか。また、今の中国は尖閣を、韓国は竹島を自国の領土と思って疑わない。彼らの道徳的に見た「善」と日本人の道徳的に見た「善」とは真っ向から対立する。哲学者が一生懸命考えてもこの程度の答えしか出ないのである。こんな難しい問題を先生はどのように教えていくのだろうか。
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小生が小学生だった1950年代にはどの学校にも二宮金次郎(二宮尊徳)の石像があった。私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く報徳思想は戦前の道徳教育で利用されたのだろう。戦後次第に像はなくなっていったが、昨年静岡県の山奥の小学校でこれを見つけてとても懐かしい思いがした。

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by Weltgeist | 2014-05-09 23:57