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愛する人のためなら死んでもいい (No.1963 14/04/30)

愛のためなら死んでもいいという偏愛、それは、結局、自分だけを愛する人間がもう一人の私、すなわち、自分自身を愛している自己愛に他ならない。詩人が歌う浄化された偏愛とは、要するに「私」がもう一人の「私」に陶酔しているに他ならない。
セーレン・キルケゴール


 この世の中には多くの錯覚が存在している。麗しき乙女、清き好男子に対する熱き思いは「愛」という言葉で表現される。「あの人のためなら死んでもいい。それが私の幸せだ」と心の底から思い、恋に陥る。しかし、「熱烈な愛情」で結ばれたはずの男女が、時を経ると幻滅から嫌悪、憎しみに変わり、離婚に至る。そんな例が枚挙にいとまがないほどあるのはなぜだろうか。愛とは永遠であり、二人は未来永劫しっかり結ばれると約束したはずだった。愛はどこへ行ってしまったのだろうか。
 愛のためなら死んでもいいと思う恋愛感情は、結局のところ相手の中にもう一人の私を見つけ、それに陶酔しているだけに過ぎないとキルケゴールは言う。古今東西の詩人や恋人たちが歌う美しい愛の賛歌は、実は錯覚であり、賛歌は惨禍の萌芽でもある。
 真の愛とはまず己を捨てること。そしてあらゆる人を尊ぶ努力をすることである。自分のためではなくひたすら万人のために自らを差し出す滅私の意志だ。「**さんは愛するが、×△さんは嫌いだ」という思いは結局のところ**さんの中にもう一人の「私」を見ているにすぎない。愛でも何でもない、たんなる自己陶酔の錯覚にすぎないとキルケゴールは言うのである。
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by Weltgeist | 2014-04-30 22:09

パンフォーカスについて (No.1962 14/04/29)

 最近のカメラはほとんどがオートフォーカスだから普通はピントを外すことはない。もしボケた写真が撮れていたら、大半はシャッターを押したときカメラが動いた手ブレが原因である。
 しかし、ピントが合っていても画面全部に合っているわけでない。合わせた周辺だけで、前後は逆にボケてくる。それだからこそ人物を際立たせるポートレートではピントの合った部分が重要である。ピントが合っていないボケの部分が人物を浮かび上がらせる役割を演じるのである。
 一方で風景写真などは全域がシャープに写っている方が好まれる。このように全域にピントが来た写真をパンフォーカスという。そのためにはレンズの持つピントの合う範囲(被写界深度)をできるだけ深く使うようにする。その役割をするのが絞りだ。レンズから撮像面(センサー)に写される光を細く絞れば、つまり絞りの数値を大きくすればするほどカッチリ写る範囲が伸びるのである。
 だから、できるだけシャープに撮りたければレンズの絞りは絞った方がいい。しかし、そうなると入ってくる光が少なくなるから、シャッタースピードを遅くしなければならない。すると遅いシャッターによる手ブレが起こる可能性が高くなる。それでもスローシャッターを使いたい人は三脚でしっかりカメラを固定して撮るしかないだろう。
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 フィルムで写真を撮るのが当たり前だった時代に大型カメラで風景写真を撮っていた人は、カメラを三脚にがっちり固定したスローシャッターで、レンズをめいっぱい絞っていた。アメリカには「グループ f/64 」という写真家集団がいて、エドワード・ウエストンとかアンセル・アダムスと言った有名写真家はレンズの最小絞りである f/64 まで絞ってパンフォーカスな風景写真を撮っていた。
 しかし、昔のフィルムは感度が低いからレンズを絞りすぎるとシャッタースピードが遅くなって、相反則不軌(そうはんそくふき)という現象が起こってくる。過度のスローシャッターで撮影するとフィルムの実行感度が低下して、カラーバランスが崩れる現象である。フィルムの乳剤面には光の三原色にそれぞれ反応する三層の乳剤が重なるように塗られている。遅いシャッター速度だと一番表面にある乳剤がいつまでも光に反応して、それが下の乳剤への光の透過量を狂わしてしまうのだ。
 だから1秒以下のスローシャッターを押すときはゼラチンフィルターという特殊なフィルターで色を補正しながら撮影していた。しかし、フィルムからデジタルに変わってそうしたトラブルはなくなった。いまでは夜の星空を撮るのに5分以上シャッターを開けていても何ともないのである。
 しかし、デジタルに変わって相反則不軌は心配しないでよくなったが、今度は「回折」ということが言われ始めている。これは直線的な光だけでなく、絞り込むことで入る回り込んだ光の干渉による悪影響である。最近のデジタルカメラでは極端に絞り込むと逆に解像度が落ちると言われるのはこのことによる。
 全域にピントを合わせたいからといっても絞りすぎるとかえってピントが甘くなるのだ。むしろ個々のレンズにはそれぞれ一番ピントが合いやすい絞り値があるとされている。その付近の絞りを使えばいいのだ。一般的なレンズで f/8 くらいが一番いいと言われている。
 しかし、どうしてもパンフォーカスな写真が撮りたいときは回折を恐れず、めいっぱい絞った写真を撮ることもある。今日の例題にあげたツツジの花は、家の前の山で撮ったもので、ツツジはレンズから10㎝ほどの近距離にある。こんな手前にあるものに浅い絞りでピントを合わせたら、バックの森の小道はボケてしまうだろう。後ろまで分かるよう、f/22 まで絞ってパンフォーカスにしてあるが、回折は言われるほどひどい影響はない。

 撮影データ、カメラ:D7100、レンズ:AF-S DX NIKKOR 10-24mm f/3.5-4.5G ED 、f/22 、SS 1/0.8 秒、ISO:200、HW:曇天、JPEG、Fine、三脚使用。
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by Weltgeist | 2014-04-29 23:56

K君と箱猫イライの一日 (No.1961 14/04/28)

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 小生はひげを生やしている。それを見て小生のことを「ひげ爺」と呼ぶK君がまたやって来て、イライと一日中遊んでいった。イライは満二歳、K君も来年は小学校に入学するというから二人とも少しおとなになったようだ。以前来たときK君は、まだ小さすぎてイライのことを少し怖がっていた。触りたいけれど怖いから遠くからおそるおそる手を出していたのだが、今日はうれしそうにイライをなでている。一方のイライもまんざらではなく、噛みついたり爪を立てるようなことをしないで仲良く遊んでいた。
 生後数日で我が家にやって来たイライは、最初手のひらに入るくらい小さかった。それがご覧の通り数十倍も大きなデカ猫になってしまった。腹回りを見ると、まるで段ボール箱に手足がついたような形で、重そうにドタドタと歩くから、最近妻と二人で「箱猫」と呼んだりしている。
 デカ猫になった理由は食べ過ぎ。最近餌の種類を缶詰からドライフードのカリンに変えたら、ものすごい食欲を発揮してみるみるうちに太りだしたのだ。猫缶の時は缶の三分の一くらいを皿に入れても一度では食べきれず、残していた。一日一缶で十分足りていたのが、カリンにしたらその5倍くらいの量を食べてしまう。
 缶詰よりカリンの方がおいしいのだろう。朝起きると待ちかねたように餌をねだって足にまとわりつく。「そうか、餌が欲しいのか」と、カリンを二にぎりほどつまんで皿に入れると、それを数分で食べつくしてしまう。そして、もっと欲しい、足りないと騒ぐのだ。底なしの食欲を満たすにはこうしたつまみを一日に4~5回はやらなければならない。その結果がご覧の通りのデカ猫になってしまったのである。
 最近はさすがにこのままではまずいと、餌の量をコントロールしているが、足りないとニャアニャアと泣きわめく。そしてそれでももらえないとなると、我々の手足を噛みつく実力行使を始める。もちろん本気ではない。甘噛みではあるが、それでも痛いからついつい餌をやってしまう。イライの興味は食べることだけなのだ。
 しかし、今日のイライはろくに餌をもらっていないにも関わらず、K君とおとなしく遊んでいた。K君と遊ぶのが楽しくて仕方がない風で、今日ばかりは食欲を忘れて遊び回っていたようだ。ところが夕方K君が帰って行ったら、とたんにいつものイライに戻って、餌をねだり始めた。やっぱりね。食べることは簡単には忘れられないものなのだ。
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好きな人が来ると全身でうれしさを表現して甘えるイライを、「まるで犬みたいな猫ね」とK君のお母さんが言っていた。Bさんが来たときも犬のように甘える。イライってちょっと他の猫とは違った犬的な感性があるのかもしれない。
写真は庭に飛んできたシジュウカラを二人で夢中で見ているところです。

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by Weltgeist | 2014-04-28 23:09

今日も写真だけ (No.1960 14/04/27)

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 まだスランプが続いています。自分なりの文章を書くほどの元気はありません。でも、何も書かない愚は避けようと、写真だけでも掲載します。昨日の森の写真と同じく、家の近くの石垣の間からしがみつくように生え出ていたカタバミ(? たぶん)の写真です。まだ春なのに秋のようにカタバミは紅葉していました。
 撮影データ、カメラ:ニコンD7100、レンズ:AF-S Micro NIKKOR 60mm f/2.8G ED、SS:1/125、f/11(マニュアルフォーカス)、ISO:200、EV-0.33、ホワイトバランス:曇天、JPEG、Fine。
 どピー缶に晴れていたので、普通ホワイトバランスは晴天にするのですが、それだと色はきれいに出るけど冷たい印象を受ける。あえてホワイトバランスを曇天にすることで、少しソフトなイメージが出るようにしてみました。どこにでも生えている雑草で、誰もがなんの注意も払わずに通り過ぎていく何気ない景色を、小生なりのこだわりで撮ってみたものです。

今日は午後から久しぶりにクラシックのコンサートに行き、リストの交響詩レ・プレリュードとシベリウスの交響曲第5番を聴いてきました。地味な音楽ですが、力のこもった演奏を聴いて少し元気が戻りそうな気がしました。

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by Weltgeist | 2014-04-27 21:36

自然の中に隠された真理の言葉とは (No.1959 14/04/26)

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 自然はときどき人知が及ばないような姿を見せる。人間がひしめきあう都会の生活から抜け出して森の中に分け入ると、思いもしなかった光景に出っくわして「アッ」と叫んでしまうことがある。自然ってこんな姿をしていたのだとあらためて思い知らされるのだ。
 もしそんな瞬間に遭遇できたとすれば人は至福の時を味わうことだろう。しかし、それはいつも現れてくるわけではない。普通に森の中に分け入って行ったとしても、ただ薄暗い藪があるだけで何の変哲も感激もない。どこにそのようなものが潜んでいるのか分からないのだ。
 森の中には我々に豊かな恵みをもたらすものがあふれている。見知らぬ木々や花、鳥やキノコ、山菜など、無数の恵みがそこにある。しかし、森に分け入ってわくわくするような気持ちになるのは、もっと根源的な何か、すなわち「真理」と呼べるようなものが奥深くに隠されているからではないだろうか。
  ハイデガーは南ドイツ・シュバルツバルトの森を歩いていると、真理の言葉が聞こえて来ると言っている。「人は存在の言葉を聞いている牧人である」と彼は神秘主義的な真理観を語っている。ハイデガーにとって真理=Wahrheit ヴァールハイトとはギリシャ語のアレーテア、「隠蔽されたものを引きはがした」ところに現れるものである。彼はシュバルツバルトの森を歩くことで、存在が語る真理の言葉を聞き分け、その秘密を見つけたのだ。
 自然は我々に真理が何であるかを語り続けている。だが、ふだんそれは神秘的な秘密の中に隠されている。サン=テグジュペリ の「星の王子さま」ではないが、「一番大切なものは隠れていて簡単には見えない」のだ。奢ることなく無心な澄んだ心で自然に向かったときだけ自然の奥深くに隠された秘密の宝物に出会えるのである。


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by Weltgeist | 2014-04-26 22:58

賞味期限切れ (No.1958 14/04/25)

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 このところずっとブログをアップロードしていない。毎日取り上げるようなエピソードがないわけではない。むしろこの一週間ほどの間に自分でも驚くほどあちらこちらに出かけて、そのつどいくつもの印象深いことに遭遇している。ところがそのことをブログに書こうとすると書けない。スランプでどのようにそのエピソードを書いたらいいのか分からないのだ。
 たとえば数日前にはミシュランガイドで三つ星をもらった高尾山に行って来た。しかし、ただ高尾山に行きましたと書いただけでは面白くも何ともない。何かそこで自分が感じ入ったことを味付けして書かなければ、単なる事実の報告だけになってしまう。そんなブログなら書かない方がマシだと思うが、それ以上の味付けが書けないのだ。
 小生がブログを始めたのは2008年の1月からである。あのときは長年飼っていた猫のケーが老衰で死んでしまい、心の底に開いた空虚な穴を埋めるべくブログを書き始めた。コンピュータの画面に向かうと書きたいことがほとばしるように出て来て、テーマに困るとかネタ切れに悩むこともなかった。毎日書きたいことが腐るほどあった。
 だが、いまやそうした思いが湧いてこない。すでに小生の心は枯渇して書きたいという思いが出てこないのかもしれない。いや、実は湧いてくることはあるのだが、自分の中にもう一人の自分がいて「そんなレベルの低いことではなく、もっとクリエイティブなことを書け」と言われるようで、ブレーキがかかってしまうのだ。
 だから、「高尾山に行って来ました」なんて当たり前のことを書いても駄目だろうと思い、書くことが止まってしまう。これってマンネリなのだろうか。
 ブログを始めたころはとにかく毎日更新することにこだわった。深夜に疲れて帰ってきたときでも「お前は毎日書かねばならない」と自分に言い含めてきたが、最近予告無しに休むことを覚え、それが意外に快適であることが分かってしまった。いつもだと午後9時過ぎには本日のブログのテーマを考え、添付する写真を選ぶ作業に取りかかる。きついけれど以前はこれが当たり前と思っていた。しかし、今は違う。一度休んでみると毎晩ブログを書くことがどれほど自分の負担になっているかが見えてきた。ブログを書かないでいる夜がとても快適なのだ。
 そんな甘い蜜の味を覚えてしまった小生、もはや毎日更新などできない気がする。だが、小生のブログを読もうとアクセスしてくださる人たちがたくさんいる。ブログの作者には毎日どのくらいアクセスがあったか人数が分かる。そうした方々に「今日も休んでいるのか」と失望させることはできない。
 物事には始まりがあれば終わりもある。まもなく2000回目の掲載を迎えるが、とにかく始めた以上、2000回までは休み休みしてでも何とか頑張ってみようと思っている。そして、その先はどうなるか・・・?
 ま、先のことは分からない。なるようにしかならないだろう。とりあえず目標2000回。ここに向かってもう一踏ん張り自分を奮い立たせるしかない。疲れていて満身創痍だが、「歯を食いしばってでも頑張れ」と自分自信を叱咤激励したい。
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by Weltgeist | 2014-04-25 23:02

タンポポの花 (No.1957 14/04/21)

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 いつもの散歩コースを歩いていて写真のようなタンポポが咲いているのを見つけた。タンポポはどこにでもある普通の野草だから、あまり意識することなく何気なく撮ったのだが、よく見るとなかなか均整のとれたきれいな花である。しかし、このタンポポは昔からあったタンポポではなく、外来種のセイヨウタンポポであることが分かった。
 現在はこのセイヨウタンポポが日本中を席巻して、従来から日本にあった在来種は姿を消しつつあると散歩している人に教えられた。言われてみれば子供の頃普通に生えていたタンポポとは花の形が違う。昔からあった在来タンポポとの交雑も広く行われていて、在来種のタンポポは危機的な状況に置かれているとこの人は言っていた。
 タンポポの英語名は dandelion ダンディライオン。これの英語名は知っていたが、意味はフランス語で「ライオンの歯」を意味するダン=ド=リオン dent-de-lion であることを今回初めて知った。ギザギザした葉っぱがライオンの牙に似ているからなのだそうだ。
 たしかに葉っぱは鋭くギザギザしていて、何か凶暴な動物の歯を思わせるところがある。しかし、日本在来のタンポポの葉っぱが同じようだったか記憶にない。小生は、上の写真を見ていたら、夏の夜空に打ち上げられる花火を連想した。シュルシュルっと上がって、パッと開いた形によく似ている。だから小生がこの花の命名者とさせていただけるなら「ゴールデン・ファイアーワーク Golden firework 金花火」とでも付けたい。
 ところで知らないことばかりで恐縮だが、タンポポのシーズンていつ頃だろうか。あやふやな記憶によれば、冬をのぞけばいつでも咲いている気がするのだが・・・・。
 そして花を咲き終えたタンポポは、冬になると下の写真のように白い綿毛の帽子を美しくまとった姿をもう一度見せてくれる。セイヨウタンポポは外来種だから引っこ抜いて駆除すべきと散歩の人は言っていたが、こんな花なら日本にいても悪くない気がする。外来種が悪いというなら、昔からあった湿地を水田に変えて、そこに外来種である稲を植えることだって同じ問題にぶち当たる。湿地を埋め立てて稲という単一外来種を一面に育てる日本の稲作なんて最悪の生態系破壊である。けなげなセイヨウタンポポを見ると、一様に外来種はけしからんという主張には疑問符が湧いてくる。
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*上の写真はカメラ:D7100、レンズ:AF-S Micro NIKKOR 60mm f/2.8G ED、下の綿毛はD300、AF DX Fisheye-Nikkor 10.5mm f/2.8G EDで撮りました。


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by Weltgeist | 2014-04-21 23:59

今日は復活祭、イースター (No.1956 14/04/20)

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 先週の金曜日がグッド・フライデー、今日の日曜日が2014年の復活祭・イースターである。十字架に架けられて殺されたイエス・キリストがこの日の朝、死からよみがえって復活したと言われる日だ。イースターこそキリスト教徒にとって最大の祝賀日である。クリスチャンなら主の復活を心から祝っていることだろう。
 しかし、一度死んだ人間が生き返るということはもちろん一般常識ではありえない。だが、そのありえないことが起こったと信じるのがキリスト教信仰の核心である。「私はキリスト教徒です」と言っておきながら、死んだ人がよみがえることは信じていないという人はキリスト教徒ではない。よみがえったかどうか分からないという曖昧さは許されない。絶対によみがえったと断言できる人がキリスト教徒と言えるのである。
 死者のよみがえりを理性的、あるいは科学的に考えたら答えは決まっている。一度死んだ人は絶対に生き返らない。だが、それが人間ではなく神だったらどうか。全知全能である神ならそれもありと思うだろう。理性は否定しても、心は肯定できる。これが信仰である。ここでは一切の常識や社会通念も道を塞がれる。科学的にはおかしいと言われても、「俺は信じるぞ」といえばもはや科学を信奉する人との間の橋は切断されてしまう。科学的、理性的なことしか認めない人と論議しても実りのある結果はもたらされない。お互いが自分の主張を言い張るだけで最後は決裂する。論議は不毛なまま終わるだろう。
 イエスは一度死んでよみがえったと聖書に書いてある。殺されて墓に葬られたイエスは日曜日の朝復活すると、人々の前にでてくる。しかし、それでも信じない人々についてイエスは「ああ、愚かな人たち。預言者の言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」(ルカ福音書24:25)と言って、生きた自分の体を触らせる。「どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よくみなさい」(25:38-39)と書いてある。なぜイエスは体をさわらせてまで自分がよみがえったことを人々に知らせようとしたのだろうか。
 神のような絶対者は、現実的な人や物として目で見たり、手でさわって確認できるようなものでなない。それにも関わらず、イエスは自らの体を人々にさわらせて、自分が神であることを示している。人間は実際に見たものでなければ信じない愚かな者とイエスは思っているのだ。
 イエスは2000年前にたった一度だけ愚かな人々の前に姿を現した神なのである。彼が人であると考えれば信じられなくなる。イエスは神であると思考を転換させれば、復活は事実として受け入れることができる。科学文明の進んだ現在においても、今なお世界中で数十億の人が、これが事実だと信じている。だが受け入れない人はさらに数十億人もいて、今なお「神の存在論的証明」をかまびすしく論じ合っている。
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復活祭の日はこのようにペイントした卵、イースターエッグを出すのが習わしである。なぜイースターのときだけカラフルな卵を出すのか、諸説があるらしい。最初は赤い色だったらしいが、今ではご覧のように非常にカラフルな卵がたくさんある。
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by Weltgeist | 2014-04-20 23:53

靖国で負い目の安倍首相 (No.1955 14/04/19)

 今日の新聞にTPP交渉難航の一端が安倍首相の靖国参拝にあるという報道が出ていた。オバマ大統領がオランダ・ハーグでの日韓首脳会談をとりもったとき、首相にTPPの妥結を強く迫ったという。昨年の安倍首相靖国参拝で、アメリカが築きあげてきた米日韓による中国封じ込め包囲網にほころびが出てしまった。この貸しをどうしてくれる、TPPでそれを返せと迫られたらしい。
 靖国がアメリカにとってアジア情勢のリスクとなった。アメリカの重要なパートナーである日韓関係がきしむのは、中国を利するだけだ。TPPを早く妥結させて中国に対抗しようと言っているらしい。靖国問題とTPPは別なことと思っていたら、どっこい日米外交の間では「安倍首相の負い目」として位置づけられているのだという。
 TPPと靖国参拝は何の関係もないのに、外交交渉ではこうした無関係なことまで交渉の材料にされてしまう。国際問題は思いもかけないことまで影響していくことを知って驚いてしまった。甘利TPP相とフロマンUSTR代表との激しい交渉の過程を我々は知り得ないが、アメリカは靖国問題を失点として利用し、自国の利益を要求してくるのだろう。
 ここへ来て騒がれているのは、日本の農産品重要5項目の関税がどの線で妥結するかであって、TPP参加、不参加の議論など吹っ飛んでいる。今朝のテレビでTPPに大反対だった山田正彦元農相が、改めてTPP反対の意見を述べていたが、もはや周辺国が皆TPPへなだれ込もうとしているとき、日本だけがカヤの外に置かれたらどうするのか問われて答えに窮していた。現代のような国際間の連携が密な時代にあっては、TPPはもはや不参加の選択肢は残っていないのだろう。
 いまはアメリカの関税ゼロ要求の風圧にできるだけ耐えていくしかない。そのためにも靖国問題のような弱みを握られてはならない。どのくらいの関税率で妥結するのか、あるいは交渉が決裂するのか分からないが、いずれはTPPは妥結し、さらに関税はゼロに近づいていくのが趨勢であろう。直接影響を受ける関係者の方々はたいへんだろうが、歴史の歯車は簡単には止められない。これからはTPPによる新しい時代が始まると考えておくしかない気がする。
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by Weltgeist | 2014-04-19 23:01

聖金曜日、エリ、エリ、レマ、サバクタニ (No.1954 14/04/18)

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 今日はイエス・キリストが十字架に架けられた聖金曜日。近くの教会で開かれた礼拝に参加してきた。聖金曜日は英語で Good Friday というが、イエスが殺されたとても悲惨な日なのになんでグッドなのか。それは彼が人類の罪を背負って無垢なまま犠牲になってくれたからだ。イエスは神が人類の罪をあがなうために贈ってくれたギフト。彼が生け贄として殺されることで人々の罪が許される。キリストにとっては受難であるが、人類にとっては罪が許されるお祝いの日だからグッドなのである。
 13日のシュロの日曜日から始まる受難の週、Passion Week は今日の金曜日にイエスが十字架の上で殺され、三日後の日曜日、イースターの日の復活で終える。
 いつもこの聖金曜日を迎えるとき、小生が考えるのは、十字架に架けられたイエスが死ぬ直前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と謎のような言葉を叫んだことだ。マタイ福音書によれば、それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ 27:46 )という意味だという。
 だが、イエスは主(神)が贈った自分の分身のはずなのに、「なぜ神はわたしを見捨てたのですか」と叫んでいるのが、分かったようでいて分からない。人間の罪をあがなう犠牲として十字架に架けられる決心をしたはずなのに、殺されるときになって「私は見捨てられた」と叫ぶのはどのような意味があるのだろうか。そもそも聖書にはこうした意味の分かりにくい言葉がたくさんあるが、とくにこの言葉は小生には大きな謎として立ちはだかっている。
 エリ、エリ、レマ、サバクタニ。今夜はこの言葉を復唱しながら、人類の罪と許し、そしてイエスの自己犠牲について考えて、静かに過ごしたい。

添付した写真はルーブル美術館で撮影したアンドレア・マンテーニアのキリスト磔刑図。Andrea Mantegna  / Crucifixion / 1457-59 年 / Musée du Louvre, Paris。
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by Weltgeist | 2014-04-18 23:56