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被写体へのリスペクト (No.1898 01/01/31)

 写真は撮る被写体を良く知ること。それを好きになること。リスペクトすることだ。被写体に愛情を感じていないで撮った写真は事物をそのまま伝える即物的な記録でしかない。被写体を見て、何かを感じたことを写真で表せばいいのだ。
 きれいな景色を見てきれいだと思ったら何が自分に感動を与えたのか、それを考えて表現すればいい。対象への熱い思いがあれば撮れた写真にも自ずからそれが表れるものであると小生は頑なに信じている。
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昨年中国、新疆ウイグル自治区で嫌なことばかりが続いて中国に失望を感じ始めていたとき、この女性が我々に救いの手をさしのべてくれた。言葉は通じなかったが、彼女の優しさを心でを感じ、救われたような気持ちになることができた。

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by Weltgeist | 2014-01-31 22:54

見つけました (No.1897 14/01/30)

 26日の朝、雨戸を開けているスキを狙って外に飛び出したイライを、今日の午後、ようやく見つけてつかまえました。この間に色々な方から家出した猫の見つけ方を教えていただいての成果です。お騒がせしたことをお詫びするとともに、アドバイスをいただいた皆さんにお礼申し上げます。
 まず教えてもらったのは近所に張り紙を貼ること。これの効果は素晴らしく、二回の有力な目撃情報がありました。最初の情報では残念ながら確保まで至らなかったけれど、おおよその逃げた方向が分かりました。それが自分たちの予想と違った方向だったので、範囲を狭めて重点的に探すことができて、とても役に立ちました。
 猫の捜索は昼より夜間がいいということを教えてもらい、夜暗くなってから重点地区を何度か探したが発見まで至りません。寒い夜、彼はどうやって暖をとっているのか、早く見つけたかったけれど駄目で、「これは自然に帰って来るのを待つしかないかな」と自主捜索の難しさを思い始めていました。
 そうしたら今朝、最初の目撃地点から200mほど離れたところで別な人が見たという情報をいただき、すぐに探しに出たがこのときも発見できず。午後、もう一度この目撃地点から50mほど離れたところで、「イライ、イライ」と呼びかけながら歩いていると「ニャアニャア」という鳴き声が聞こえました。声の方に行くとよその家の庭から出てきたのです。
 今回の脱走事件で分かったのは、多くの方々が「うちの猫も逃げたけど一週間くらいで帰ってきた」と言っていたことです。猫の脱走は珍しくなく、時間をおけばやがて戻ってくることを教えられました。ただ、その間に車に轢かれたりする恐れがあり、ずっと行方不明のままだったという例も聞いたので、彼をつかまえることができてホッとしています。
 イライは雑種のごく普通の猫ですが我が家では大事な家族の一員。彼が無事に戻ってきたことがうれしく感謝したい気持ちでいっぱいです。
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 五日ぶりに家に戻ったイライは、疲れと寒さと空腹に参ったらしく、まずは夢中になって餌を食べ、その後はストーブの前から動こうとしません。ショックが大きかったのか、今までとは違う別の猫のようにおとなしくなっています。今回のことで外界は決して思うほど楽園ではなかったことを知って、少しは賢くなったのでしょう。でも、彼のことだからすぐに忘れて元の木阿弥に戻るとは思いますが・・・。

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by Weltgeist | 2014-01-30 23:40

デジタルカメラでの撮影 (No.1896 14/01/29)

 最近あるSNSで4年間に50万カットもの写真をデジタルカメラで撮ったという書き込みがあり驚いてしまった。40年以上仕事で写真を撮り続けてきた小生でもおそらく全部で20万カットくらいしか撮っていない。それがわずか4年で50万カットである。想像を絶する数を撮っていると知り、デジタルカメラの時代はこうなのかと思ってしまった。
 昔はフィルム代が高くて自由にシャッターを押せる余裕はなかった。35㎜フィルム1本で36枚、6X6ブローニーで12枚、4x5なら1シート1枚だから、一日頑張っても撮影枚数は知れていた。シノゴで商品を撮る時など一日やって1~2カットというのが当たり前である。しかしその分だけ一枚の写真を撮るのに精魂を傾けていた。何枚も何枚もポラロイドで写り具合を確認し、絶対いい写真になると思うところでシャッターを押す。そしてそれでお終いだった。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、なんてとんでもない。シャッターを押すまでに、全精力を傾けて一枚ずつ撮っていたのである。
 小生にはそうした写真の撮り方が身についてしまっている。だから最新のデジカメを持っても、旧来のフィルムカメラの感覚で写真を撮っていた。しかし、デジタルはフィルムとは違った撮り方が要求されていることにこのごろ気がついてきた。50万カット撮ってもさもありなんとは思う。デジタルってそうした下手な鉄砲だと馬鹿にしていたのだが、最近「待てよ、これは違うかも知れない」と思うことが分かってきたのである。
 フィルムの場合はシャッターを押した時点であとは撮影者の手を離れる。モノクロ現像は別としてカラー、とくにポジフィルムの現像はラボに頼むのが普通である。だが、デジタルは撮影したあとの画像レタッチが重要になってくる。フィルムでは撮ったところで終わりだったのが、デジタルでは撮影する前からレタッチによる後の処理法を考えておく必要があるのだ。
 もちろん普通は撮って出しの手も加えないJPGの写真でもいい。しかし、良き作品にこだわる人は撮れてきた画像データをそのまま使うのではなく、微妙な色や光線状態などを様々に加えてより良きものに修正していく作業が待っている。それをシャッターを押す段階から頭に入れて撮っていないとデジタルの後作業で行き詰まるのである。
 デジタルカメラで撮った画像データは、そのままではまだ作品ではない。女性のポートレートなら顔のシミや汚れを消すことなど常識、荒れた肌をすべすべにしたり、時には短い足を長く、出っ張った腹を引っ込めたスリムなボディに修正したりする。風景で朝日に輝く山の色を赤くしたり、木々の緑を鮮やかにするなど、デジタルではごく普通のことである。
 デジタル写真は現実をありのままに写し撮るのではない。写し撮ったデータを撮影者、あるいはデザイナーの好むように修正していくのである。だから現代のデジタルカメラマンは、撮影しつつ常に最後のレタッチを経た仕上がりのイメージを持って撮る必要があるのだ。しかし、それはRAWの生データで撮れということではない。RAWが望ましいけれど、JPGでも同じである。光の三原色でセンサーに記録されたデータは、完全ではないという意識をもって、後処理する必要があるということである。
 グラビアを撮ってもらう女優が「**さんの写真だときれいに撮ってくれる」というのは、欠点のある自分の顔を少しでも美しい方向に引き出してくれると期待しているからだ。写真は虚の記録なのである。いや、そこまで言うと言い過ぎと怒られるかもしれない。隠された真実、美の発掘をしてくれるのが腕のいいカメラマンと言うことなら納得していただけるだろうか。

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こんなたわいもないスナップ写真(JPGで撮ってます)でも、いざブログに使うとなると細かなレタッチをしている。目をこらしてもどこを手直ししたかたぶん分からないと思う。そのくらい微妙でわずかな修正だが、色や明暗、コントラストなどを8カ所くらいに部分的に修正して仕上がりとした。しかし、せっかくレタッチして色を直したのにエキサイトブログにアップすると、オリジナルとは全然違ったひどい色で掲載されてしまう。これもデジタル故の宿命だろうか。


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by Weltgeist | 2014-01-29 23:08

フィルムからデジタルへ (No.1895 14/01/28)

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 このところずっと写真の話題で、今日もその続きである。小生がリタイアしたのは2004年、そろそろ35㎜カメラがデジタルに移行しつつあった時期だったが、まだプロの仕事としてはフイルムがほとんどだった。デジタルは階調性を欠いたコントラストの強すぎる物で、印刷原稿としてはフィルムにはかなわないと信じられていた時代である。
 とくに細密な描写が要求される商品撮影ではシノゴと言われる4X5インチフィルム版が絶対であった。昔、卒業式などで全員が集合したとき写真屋さんが黒い布をかぶって撮ったあの大きなカメラである。そんな大きなカメラだから素人は使いこなせない。プロ御用達として、これで写真を撮っていればオマンマは食えた時代である。
 ポートレートなどの人物グラビアでも中型のブローニータイプと言われるフィルムカメラが使われていた。少し前の女子専科のカメラマンは猫も杓子もハッセルブラッドというブローニータイプのフィルムカメラで撮るのが普通だった。
 ところがデジタルカメラのものすごい発達で写真そのものが急激に変わってきた。駄目と言われたデジタルでも印刷原稿として使える絵が撮れるようになって写真が誰にでも撮れる時代になってきたのである。フィルムカメラの牙城として抵抗していたブローニーまでデジタル化した。そして最後のフィルムカメラ、シノゴの世界にもデジタルの波はひたひたと押し寄せてきている。しかし、まだシノゴをデジタルで撮る人は少ない。なぜならシノゴのデジタルシステムは高価すぎて一般的な価格にまでなっていないからだ。 
 しかし、35㎜カメラで仕事をこなしてきたプロ、おもに雑誌のグラビアを撮っていたいわゆるエディトリアル系のプロたちが一斉にデジタルの荒波を受けることになる。誰にでもそこそこの写真が撮れるとなれば、わざわざ高いギャラを払ってプロに頼む必要などない。編集者自らが撮る素人写真で十分使えるからだ。プロ受難の時代が始まったのである。
 小生の後輩たちではオマンマが食えなくなったプロが続出している。何人かに聞いたところ、仕事の量が減ると同時にギャラも安くなり、生活するだけの稼ぎを得るのは容易ではないようだ。プロカメラマンが写真以外のアルバイトで食いつなぐという悲しむべき状況が増えてきているのである。
 こうやって人間が生み出した新しい技術によって古い人間が淘汰されていく。これはカメラの世界だけではなく、他の業界でも同じである。最新の機械が作られてベテランの「ワザ」がちょっと訓練すれば誰にでもできるようになったのだ。ベテランがセミプロに駆逐されていくのである。それでいてセミプロが作った物の方がはるかに優れているのだから救いようがない。
 写真の世界ではデジタルはもう避けられない時代の趨勢だろう。これに反旗を翻してフィルムをこだわる人がまだいるが、それは無駄な試みである。いさぎよくデジタルの軍門に降るしかない。
 しかし、小生のようにフィルムべったりからデジタルに移行させられたいわゆる「過渡期の人間」にはいまだに理解できないことがたくさんある。以前のフィルムで撮っていたときと同じ感覚で撮影しているのだ。それが最近、フィルムとデジタルでは撮影の仕方から後処理までが違うことをようやく理解しはじめてきている。
 古いフィルムカメラの延長で撮っていると、デジタルカメラの本性を見落とすことに気がついたのであるが、この件は長くなるので、明日(たぶん)改めて書いてみたい。

 

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by Weltgeist | 2014-01-28 23:12

イライは依然として行方不明です (No.1894 14/01/27)

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 昨日逃げ出したイライを今日探しましたが全然見つかりません。家の近くを探し回っても猫の子一匹見つけることができませんでした。かなり遠くまで行って迷子になっているのかもしれません。こういうときは張り紙が有効ということを色々な方から教えてもらいました。明日は「迷い猫」の張り紙を作って近所に貼ってみようと思います。
 また、一週間も放浪すれば帰ってくるんじゃないかということも聞きました。猫は野外にいた動物だから、外に出たところで何とか生きていけるでしょう。見つからなくても、外を徘徊することに飽きて自然に帰ってくることにも期待したいです。
 以前、このブログで一度使った写真ですが、釣ってきた大鯛をイライが盗もうとしている連続シーンをもう一度アップします。
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by Weltgeist | 2014-01-27 23:50

イライが行方不明です (No.1893 14/01/26)

 今朝、いつものように雨戸を開けていたら、スキを狙っていたイライが外に飛び出し、夜になっても帰って来ない。彼はずっと家飼いで外に出さないようにしていた。それだから余計外の世界にあこがれていて、外に出たくて仕方がなかったのだろう。毎朝、雨戸を開けるときが外に出られるチャンスと思って、開けられた雨戸の隙間の付近でいつもウロチョロしてスキあらば出ようとしていた。
 毎度のことで、こちらもそうはさせまいと注意をしていたのだが、奴も知恵が働くようになって、最近は雨戸を開けるときまで隠れていて姿を見せない。我々を油断させようとしているのだ。そして、雨戸がバアーッと全開した瞬間どこからともなく突進して外に飛び出す作戦に切り替えていたのである。
 それでもこちらが警戒していたから奴の脱出作戦は失敗続きだった。それが今朝はついに功を成して脱出に成功したのである。こうなるとたいへんだ。奴はせっかく飛び出した自由の天地だもの明け渡してなるものかと逃げ回り、簡単には捕まえることができない。餌を見せるおびき寄せも失敗して、どこかに消えてしまい未だに戻っていないでいる。
 以前飼っていた猫たちも、ときどき脱出することはあったが、彼らはその日のうちには家が恋しくて戻ってきていた。イライも冬の野外の寒さに閉口して夜までには戻ってくると思っていたのである。しかし、今の時間になっても帰ってこない。どこかの家の軒下で寒さにふるえながら過ごしているのか、それとももしかしたらちゃっかりよそ様の家に上がり込んでおいし餌をごちそうになって、その家でくつろいでいるかもしれない。
 飼い主への恩義などすぐに忘れる猫の性格から十分それは考えられる。彼が暖かい他人の家で優雅にやっているならいいが、我が家ではいつも足下にいるイライがいないので、今夜は火が消えたような寂しさを感じている。知り合いは、明日になったら何事もなかったかのように戻ってくるよと言ってくれている。そうならうれしいのだが、無事に早く帰って来て欲しい。
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これがイライが脱出する前に撮った最後の写真。昨日のものだが、よく見るとこのときも外を見つめている。きっと家の外は素晴らしい自由が待っていると思っていたのだろう。しかし、現実は餌もない極寒の世界でしかない。イライは早くそれを学んで戻って来て欲しいものだ。

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by Weltgeist | 2014-01-26 23:54

顔認証で全部バレバレ (No.1892 14/01/25)

 このところブログで人間の顔をアップする写真を取り上げてきていた。そうしたら今日のヤフーに、1月25日付け読売新聞のニュースとして、大阪駅で顔認証できる監視カメラを置いて人間の行動状況を探る実験を始めたと言うことが出ていた。それで今日はまたまたカメラと顔の話である。
 ニュースは次のように書いていた。「一日の乗降客が82万人あるJR大阪駅と駅ビル大阪ステーションシティの地下1階から3階までの改札やコインロッカー、エスカレーターや店舗などに90台のカメラを設置。カメラは3m四方にいる人物の顔を撮影すると顔の特徴を抽出してIDをつける。別のカメラが同一人物と認識すると位置情報や時間を登録。その人物の行動履歴を1週間分記録する。顔認証システムを納入した業者によると、個人識別率は99.99%だという。」
 ということはほぼ個人の特徴は完璧に読み取られてしまうということである。しかし、こんなことまでされるとなると現代人はおちおちしていられない。何も考えずに歩いていたら、瞬時に顔の特徴をスキャンされてコンピュータに登録されてしまう。
 これを実施する独立行政法人・情報通信研究機構は「災害時の避難誘導に役立てるため、人の流れを把握したい」と説明しているが、これだけなら結構な話である。しかし「集めたデータは顔の画像などを消去した上でJR西日本に無料で提供するが、JR側はまだ使い道は決めていない」と言っているところが引っかかる。そのあと何に使われるか分からないのだ。
 誤差が99.99%の精度で人間の行動が把握できてしまうということは、その膨大なデータを人間を管理するためのツールとして思いもしないことに使われる可能性がある。たとえばそれがネットにつながったときは、顔のデータを入力し検索すれば特定個人の行動を知ることができるようになるだろう。警察のNシステムのように浮気をする旦那の行動や仕事をさぼるサラリーマンも白日の下にさらされてしまう。
 そもそも「顔認証」という機能は、最初デジタルカメラの「顔認識」機能が発展したものである。顔認識は被写体が動いてもオートフォーカスで顔の部分にピントが合うようする便利なものであるが、写真を本格的にやっている人間はそんなものに頼らない。もっときっちりとフォーカスポイントを被写体の細かなところに持っていく合わせ方をしている。その方が正確なのだ。
 最近のカメラは性能がいいからオートフォーカスの精度も上がってきて、そこそこのピントは合うまでにはなっている。しかし、本当にピントがピシッと合った写真を要求されるプロはオートフォーカスだって信じていない。ちゃんと三脚にカメラを固定し、裏側の液晶をライブビューにしてマニュアルフォーカスでピントを合わせている。
 オートフォーカスを手助けする顔認識など小生は最初からバカにしていた。だが、それが思わぬ方向に使われようとしている。顔認証が泥棒など犯罪捜査に役立つならありがたいが、善良な市民がこれでコンピュータの監視体制下に組み込まれてしまうのは勘弁してもらいたいものだ。しかし、今の技術発展の速度からすれば、国民皆監視システムはきっとできあがることだろう。

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誰じゃ、ワシの顔を勝手に識別していく奴は。ワシの肖像権はどうなるんや。許さんぞ。


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by Weltgeist | 2014-01-25 23:24

良きサマリア人について (No.1891 14/01/24)

 パリ、ルーブル美術館の東側、ノートルダム寺院との間にサマリテーヌ La Samaritaine というデパートがあった。残念ながら2005年に閉店してしまったが、このデパートの名前は「良きサマリア人」という聖書の話からとられたものである。
 ルカ福音書10章25節以下にその話が書かれている。ユダヤ教律法の専門家が、イエスに「何をしたら永遠の命を得ることができるか」と問い正だす話だ。イエスは律法(ユダヤ人の道徳律)に書かれている通り「あなたの隣人をあなた自身のように愛せ、そうすれば永遠の命を得ることができる」と答えた。
 しかし律法学者は半ば馬鹿にした態度で「隣人とはだれのことか」と再度イエスに質問をする。この後の話についてルカ福音書では次のように書いている。

「ある人がエルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われた。強盗どもはその人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま祭司がひとり、その道を下ってきたが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人もその場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところがあるサマリア人が旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、宿屋につれて行き介抱してやった。
次の日彼はデナリ(コイン)二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。”介抱してあげてください。もっと費用がかかったら私が帰りに払います。”
この三人の中でだれが強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」(10:30-36)

とイエスが律法学者に問い直す話である。

 当時ユダヤ12族はレビ人も含めてサマリア人と仲が悪かった。神の選良民族と自負しているユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、相手にもしていなかった。ところが、ユダヤ人たちは律法で「隣人を愛せ」と言っていながら、いざ自分が具体的な行動をしなければならないときになると「俺は知らない」と逃げてしまう。一般論ではどんなに嫌な隣人でも愛を持って接しなければならないと言うのに、実際の場面になるとごめんというわけである。
 ユダヤ人たちが卑しい民族と思っていたサマリア人の方が隣人愛を持っていたのである。嫌なサマリア人はひどい連中に決まっている、自分たちこそエリート民族だとユダヤ人は思っていた。しかし、このサマリア人は当然のことのように隣人愛を実践した。良き人とはこうした隔たりのないサマリア人のような人というのである。

 子供頃小生は「良い人になりなさいよ」と先生に言われて社会に巣立って行った。しかし、小生が良い人になったかと自問してみると、いまだに否と言わざるを得ない。俺はなんと駄目な人間なんだと思うことばかりで、一向に良いといえることなど思い出さない。世の中には立派に見える人がたくさんいるのに自分はとても情けない人間のままである。
 しかし、待てよと思うこともある。一見まじめそうで紳士風な人が陰ではとんでもなく悪辣なことをしているのが時々明らかになる。人間なんて一皮むけば誰も五十歩百歩でどこかに欠点を持った出来損ないではないかとも思えるのだ。
 それでも普通に人とつきあっているときには「隣人愛」を実践しようとは思う。しかし、ひとたび利害が対立した場面に直面すると、陰に潜んでいた悪が姿を現し、とたんに「隣人愛」が憎しみと憤怒に変わる。そして「あいつはとんでもない奴だ」と言い張って、それが間違っているとは絶対思わない。これが現実である。
 小生もこの良きサマリア人みたいになりたい。しかし、実際の生々しい現場に直面すると、いつまでも悪しきレビ人にとどまっている自分に行き当たる。そうして、ますます自分は駄目な奴だと思うのである。

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一昨日、カード社会に無縁なカシミールの女性の写真を載せた。今日の写真も澄んだ青空のもとにいるカシミールの女性にしてみた。たぶん彼女はチベット系なのだろう。良きサマリア人と同じく異民族の我々にも優しく親切に対応してくれたすてきな女性だった。
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by Weltgeist | 2014-01-24 23:41

ストレッチ体操教室 (No.1890 14/01/23)

 昨年、山で左足を痛めて**整形外科病院に通っているうちに、この病院が一般治療とは別に体の弱いところを予防的に鍛える体操教室を開いていると聞き、10月から参加している。病院の理学療法士がインストラクターになって、主に筋肉のストレッチを指導してくれるものだ。これがいまのところ小生にはたいへんグッドである。
 教室は月3500円で週一回ずつ4回、2時間めいっぱい筋肉を伸ばしたりほぐしたりさせてくれるからジムへ通うよりずっといい。それもインナーマッスルといって、筋肉の内部にあってふだんあまり使うことのない内側広筋とかひらめ筋といった聞いたこともないような筋肉まで一つずつほぐす体操(ストレッチ)をする。これが終わった後には、心地良い疲労感があり、確かに体に柔軟性が戻ってきている気がする。
 今回は正月休み開け最初の教室である。休みの間あまり運動していないので体が鈍っているのか、久しぶりにやったストレッチでは体が曲がらない。インストラクターの先生に「ずいぶん体がかたくなっていますね」と言われてしまった。人間の体は機械と違って使わないと鈍ってしまう。使うほどに刺激を受けた体が、それに対する耐性を作ってくれる、つまり筋肉を鍛えてくれるのである。人間の体ははがねと同じで、たたけばたたくほど強くなるから頑張ってくださいと言われてしまった。
 体操教室に来ている人たちはほぼ全員が小生と同じ65歳から75歳までの間の人で、過去に腰痛や五十肩、関節痛でリハビリに通っていたポンコツ世代である。メンバーは男性より女性の方が多い。そしてこのおばさんたちがみんな体が柔軟であるのには驚く。まるでインドのヨガみたいに体をくねくねさせて、イナバウアーのように体を反らせても平然としている人までいる。そうして、「このくらいは何でもないわよ」と言って小生の劣等感をあおるのである。
 でも、おばさんたちの話を聞くとまんざら小生にも無理な課題ではなさそうである。彼女たちも体操教室に通い始めたころは体がかたくて全然曲げられなかったそうである。「慣れですよ。ずっと続ければあなたもできます」と言って、小生の希望をつないでくれているのである。

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 今日の写真は「ベアトウス黙示録註解」にあった挿絵である。以前見たときは意味不明の動作だと思っていたが、今日改めて見たら、天使が首の筋肉のストレッチを手助けしていることに似ている。体操教室ではこれと同じようにして首の筋肉を伸ばすことをやらされている。ただし、首の筋肉はあまり強くストレッチすると逆に首を痛める。小生、昨年強く首をひねりすぎて寝違えのような痛みを作ってしまったから注意が必要だ。
 インストラクターによると、筋肉を伸ばすときは急激に強く引いて急激に戻すことは好ましくないらしい。強く引っ張られた筋肉は、脳が反発して筋肉をかたくする信号を出すらしい。しかし、10秒以上ゆっくり引っ張ると、逆に脳が反発しないで筋肉を緩めてくれる。これがストレッチのコツなのだそうである。
 そんなことも教室に入る前は知らなかった。ただ闇雲に筋肉をひっぱたり刺激したりしていた。それで鍛えられると思っていたのだ。人間の体は鍛えなければ退化する。しかし、鍛え方も理にかなったやりかたを学ばないと危ない。素人療法は危険ということをしっかり教えてもらったのである。


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by Weltgeist | 2014-01-23 23:47

ポイントの減点 (No.1889 14/01/22)

 カード社会になってポイント制度が定着しつつある。カメラや電気製品を売る量販店のカードだと**%引きの特典がつく。お店はこれで顧客を取り込み、販促データとしても使いたいのだ。カメラやレンズのような高額商品だとポイントは無視できない。だが、ポイントはすぐには使えず、次に購入する時の割引権利をもらうだけである。だから次を買わない人には意味がない。買い物をあまりしない小生のような人間には、ポイントなんか要らない。その分少しでも安くしてもらった方がありがたいのである。
 しかし、それではお客の取り込みにはならない、お店としてはポイントで次の購買につなげたいから、ポイントに時間制限をつける。せっかくポイントをさしあげたのだから早く次の商品を買ってね、そうでないと時間切れでポイントを消滅させるよ、という脅しをしているのである。
 これの一番ひどいのが航空会社のマイレージだ。仕事でしょっちゅう乗っていた時代はときどき恩恵にあずかったが、現役を離れれば飛行機なんて滅多に乗るものではない。マイレージはたまらず、半端な額ではない恩恵チケットまでなかなか達しない。そうこうしているうちに「貴殿は当社の飛行機に長い間乗ってませんでしたね。よってまもなくカードにためているマイレージポイントは消滅します」という連絡が来て、ため込んでいたマイレージを消されてしまう。
 だが、憤慨した頭を少し冷やして、マイレージがつく高額なノーマルチケットと格安航空券を比べてみると意外なことに気がつく。たとえばLCCのエアーアジアでクアラルンプールまで行くなら10000円弱ですむ。マイレージポイントは一見するとお得のように見えていて、実はかえって高い場合があるのである。
 もっとひどいのはETCのポイントだ。以前は5万円の前払い高速券を買っておくと8000円分余分なおまけがついた。ところがETCカードでポイント交換制度に変えられたら、1000ポイント以下のものは一年過ぎると消滅させられてしまう。消されたくなければ自分でETCマイレージサービス事務局へ電話してポイント交換の手続きをしなければならない。その場合マイレージIDとパスワードは用意しておけというが、そんなものとっくに忘れている。
 それで面倒なことが嫌いな小生は結局ポイント交換をすることなく毎年のようにマイレージを消失させている。以前の前払い高速券の方が最初からおまけがついていて一番いいのに、ETCの改悪でその恩恵も受けられないでいるのである。
 カードなど使わない社会の方が望ましい。だが、そんな小生の願いを無視するかのようにますますカード社会は発展しつつある。小生のような人間はいわば社会のゴミのような存在で、切り捨てご免とされてお終いなのである。
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そんなわけで今日の一枚は、カード社会とは無縁なカシミールの山奥で出会った女性のポートレートである。素晴らしい雪山の下に住むこの人にとっては、カードなど単なるプラスチックの破片にしか見えないことだろう。

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by Weltgeist | 2014-01-22 23:51