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一年の終わり、大晦日です (No.1870 13/12/31)

 哲学者・ヘーゲルの臨終の言葉は「ただ一人を除いて私を理解してくれる者はいなかった。そしてその一人も私を誤解していた」と言うのだそうだ。あの難渋なヘーゲルの言い回しを真から理解できた人はいないと言われても納得する。たぶん、ヘーゲル自身でさえ自分の哲学をどこまで理解していたか疑わしいところがあるからだ。弁証法的に言えばすべてが反対概念に変わってしまうのだから、理解したということは、すなわち無理解でもあるのはやむを得ないのである。
 ヘーゲルによれば、終わりということは始まりでもある。両者は表裏一体のものである。なぜなら「終わり」という概念は「初め」という対極があって初めて成立するからだ。終わり単体では存在できない。だからたとえば宇宙の終わりは始まりでもあることになる。そんな馬鹿なと言われても、宇宙の果てでは常識は通用しない。我々は終わりに向かっているようでいて、実は始まりに向かっているとも言えるのである。
 ヘーゲルの始まりと終わりはらせん状につながった円環運動であった。「精神現象学」によれば赤ん坊のように何も分からない「直接的な知」が次第に賢くなって、最後はすべてを熟知した「絶対知」にまでなっていく精神の自己認識の運動である。だが、無知な精神が究極の終点、絶対知にまで至ると、とたんに振り出しに戻らなければならい。なぜなら絶対的な知とは、その対極としての無知があって初めて成立するからだ。完全な馬鹿は完璧な利口と表裏一体なのである。

 まもなく2013年が終わって、同時に1014年が始まる。まさに終わりは始まりであり、新たな出発点でもある。さようなら2013年、こんにちは2014年が切れ目なくつながって出てくる。時間とはそういうものである。日々古い自分が死んで新しい自分が生まれていく。乗り越えて前へ前へと進んでいくものである。ただし、これは絶対後戻りができない。
 ところがヘーゲルの時間概念では、終わりは即始まりに戻ってしまう。後戻りできる時間があるとすれば、数々の失敗を繰り返して、過去に汚点を残し続けてきた小生は、過去に戻ってそれらを消し去りたい思いがある。しかし、ヘーゲルの弁証法は結局、言葉の遊びでしかなく、実際に時間を逆走することは不可能である。
 ただ、ヘーゲルから学べることは、一つの事柄の中にはまったく逆な対局を含んでいるということである。終わりは始まりであり、苦は楽であり、幸福はすなわち不幸である。物事は単純には割り切れない。人間とはそうしたきわどいバランスのなかで弥次郎兵衛のようにうまくバランスを取りつつ歩んでいる存在であるということである。
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by Weltgeist | 2013-12-31 21:20

フィナーレについて (No.1869 13/12/30)

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 まもなく2013年が終わる。今年のフィナーレである。写真は欧州のある劇場で観た「歌劇・カルメン」のフィナーレで幕が降りたあと、出演者全員が出てきて挨拶した場面である。スペインのたばこ工場で働く奔放なジプシー女・カルメンは竜騎兵のドン・ホセを誘惑する。しかし、もてあそばれたホセは脱走兵にまで身を落とし、最後はカルメンを殺してしまう。
 男の心を狂わした魅惑の女・カルメンの幕引きは彼女の死でフィナーレを迎えることになる。ホセをだまし、闘牛士の色男・エスカミーリョと遊び回っていたカルメンは最後にホセに人生を精算させられるのだ。本人は奔放に遊び回り、一人の男を破滅にまで追い込んでいく。その罪の深さを自覚しなかったがゆえに自らの死を招くとことになるのである。
 カルメンにとってはあらゆる出来事が死に向かう隠された動機として展開していくが、そのことが最悪のフィナーレになることを理解できないでいた。カルメン自身はまさか自分が殺されるとは思ってもいなかったのである。いや、冷静になれば分かるのかも知れないが、彼女には自分自身への反省が欠けていた。何が正しく、また自分が他の人にどうすればいいのかについて思いを巡らせなかったゆえに、突然の死を迎えることになるのである。
 結末とはこのようなものである。我々が現実生活で生きているのも実はカルメンと同じで、いま自分がやっていることが次のときどんな結果をもたらすかを読むことができない。一見すると華やかに見える人でも、明日の運命は分からないのだ。我々はみなカルメンと同じく一寸先は闇の漂泊人生を送る弱き存在なのである。
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by Weltgeist | 2013-12-30 23:58

忙しい一日でした (No.1868 13/12/29)

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 今日の日曜日は忙しい日だった。昼間はJさん夫妻がアメリカに帰国する送迎会に参加してみんなと語らいの時を持ちました。たくさん食べて、たくさん話して、楽しい時を夕方まで過ごし、帰って来たら、そのあとBさん夫妻とメキシカントレインをやるという、とても忙しい一日だった。
 そんなわけで昼間はみんなと楽しく話して頭を使いすぎたのか、メキシカントレインを始める頃には疲れて頭が全然回転しない。作戦もたてられず、最後はぼろ負けだった。ゲームが終わったのが午後11時半すぎ。もうキャプションまで書いたブログにする余裕がないので、本日は写真のアップだけで終わります。
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by Weltgeist | 2013-12-29 23:57

物を捨てられない人 (No.1867 13/13/28)

 今日はかさばるゴミである段ボール類を集中的に出す日と町内会で指定してきた。まとめて玄関前に出しておくと、専用の収集車が一軒ずつ回って来て回収してくれる特別な日である。共同ゴミ置き場まで長い距離を運ばなくてすむのだ。
 段ボールは資源ゴミなのだそうで、ゴミ置き場にまとめて出しておくと誰かが勝手に持ち出してしまう。だからこのときは特別で、重たい本など紙類も一緒に家の前に出していいという。玄関前に置くだけですむから重い本を捨てるには絶好のチャンスである。
 だが、ものぐさな小生、この機会を逃がしてしまった。前の夜から捨てる本をどうするか考えてはいたが、いざ捨てるとなると決断できずに結局、本は数冊だけ捨てるにとどまった。以前からろくでもない本ばかりたまって部屋に散乱していたのだが、いざ捨てるとなると惜しくなって捨てられなかったのだ。
 これって典型的なゴミ屋敷人間の行動パターンらしい。捨てると決めたら何があっても初志貫徹、思い切ってさようならしないと片付けはできないらしい。かくして今年もゴミ屋敷を継続したまま2014年を迎えそうである。
 禅宗の坊さんたちは自分を捨てて無になれと言っている。本来無一文の自分に帰ること、それが解脱への道と言われている。すべての物を捨て去って無心になることが解脱なら、小生、一生解脱はないだろう。本当なら捨ててもいい「便利なゴミ」に取り囲まれながら、煩悩の海を溺れないよう必死に泳ぎ続けていくしかない。残念ながら・・・。
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by Weltgeist | 2013-12-28 22:41

今年の十大ニュース (No.1866 13/12/27)

 本日は多くの会社が仕事納め。明日から年末の休暇に入ることからテレビは年末特集番組を始めていた。定番は、今年の十大ニュースだ。台風が大島を襲ったことや、東京オリンピックが決まったことなどあげられていた。しかし、ざっと見通すと今年一年は安倍首相の独断専行のニュースが目立った年だった。
 第一はアベノミックスと称して首相がインフレを起こさせようとしたことだ。その結果一部の大企業の輸出は増えて収益も改善された。しかし、庶民の所得が増えるところまできていない。円安から物価だけが値上がる嫌な傾向にある。もしこのまま腰砕けになると所得の増えない小生のような人間には最悪の政策ということになる。そして、消費税のアップ、特定秘密保護法の強行採決、中韓米が反対しているにもかかわらず靖国神社に突然参拝したりと、自分の意志を押し通す強引な政策を矢継ぎ早にやってきている。
 何もしない無能な首相よりはいいかもしれないが、やるならもう少し日本全体のことを考えてやってもらいたいものだ。首相には言いたいことがたくさんあるが、昨日の靖国神社参拝と、今日の沖縄普天間基地返還に関して辺野古埋め立てを仲井真知事が認めさせたことについて一言感想を言っておきたい。
 安倍首相は靖国参拝を「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対して、尊崇の念を表し、不戦の誓いを新たにした」と言って自分の行動を正当化した。この言葉に関してはその通りである。だが、英霊は靖国神社だけにまつられているのではない。中韓米が反対しているのは靖国神社にA級戦犯が合祀されているからだ。靖国神社がかっての軍国主義の思想的バックボーンとみられているから問題視しているのである。
 英霊に対して尊崇の念を表するなら、千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝すれば何の問題もなかったのに、あえて靖国神社に行ったから周辺国が苛立って、関係がさらに悪くなるのである。今回の参拝で、米国だけでなく、EUのアシュトン上級代表報道官は「地域の緊張緩和にも日本の周辺国である中国と韓国との関係改善にも役立たない」と強い懸念を表明したし、ロシア外務省のルカシェビッチ報道官は「国際社会と異なる偏った第2次世界大戦の評価を日本の社会に押しつける」もので、「首相の今回の行為に遺憾の意を抱かざるを得ない」と非難の声明を出している。単なる首相の個人的な思い(6年前に参拝しなかったことは痛恨の極みだと言っている)を遂げるだけで、失うものはとても大きいのだ。
 もう一つ、今日になって仲井真知事が辺野古埋め立てを承認した件でも首を傾げることがある。知事は「5年以内の普天間基地の運用停止に取り組むという安倍総理大臣の確約を得ている」と言っているが、これも怪しい。これまで沖縄は植民地のような不平等を押しつけられてきた。今後日米地位協定の改定ということになるが、そんなに簡単にいかないことは目に見えている。実現性のない空約束は政治家の特技である。はじめはおいしいことを言っておいて、時間がたてば公約なんて国民は忘れると思っているのだ。安倍首相と仲井真知事の出来レースであるのが見え見えなのである。
 南スーダンでは国連平和維持活動(PKO)に参加している陸上自衛隊の銃弾を韓国軍に無償で譲渡することを決めた。これも武器輸出三原則の例外扱いと、一歩踏み込んだことをやっている。こうやって一歩ずつ外堀を埋めていく安倍首相が目指す物は何だろうか。国民が知らない間に日本はどんどん怖い国に変わりつつある気がするのだ。
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 ところで、小生にとって今年一番のニュースは、50年も昔から暖めていた「パミール高原に行きたい」という希望が叶ったことだ。まだ中学生だった頃、パミールで採れたテンシャンウスバシロチョウという白に鮮やかな赤い斑紋のある蝶を見て、「大人になったらパミール高原でこの蝶を自分の手でつかまえてみたい」と思っていた。それが今年実現して、テンシャンウスバシロチョウや、パルナシウスの王様、アウトクラトールウスバシロチョウにも出会えた。個人的には長年の夢を実現した最高の年であったと言えるのである。
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by Weltgeist | 2013-12-27 23:57

メリー ・ クリスマス (No.1865 13/12/26)

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 皆さんは今年のクリスマスをどのように過ごしただろうか。恋人や家族と楽しく過ごした人もあれば、お金も仕事もなく、彼女or彼氏無しで一人寂しく過ごさざるを得なかった人や、仕事が忙しくてそれどころではなかった人もいることだろう。楽しく過ごせた人には来年までこの幸せ感が続くように、また寂しいクリスマスになった人やきつい仕事に追われ続けた人には来年こそ良き時が持てるように祈りたい。
 小生の場合はアドベントの最後の三日間を教会のクリスマス礼拝に参加したほか、若者とターキーを囲むパーティなどで楽しく過ごすことができた。
 さて、クリスマスというとプレゼントである。71歳にもなった小生、いまさらプレゼントもないだろうと思っていたら、元の会社の同僚で、同じくリタイアしたAさんから、上の写真のような物をいただいた。Aさんの知り合いの画家の人が直に描いたものだそうで、絵柄はまさにサンタクロースの衣装を着た猫。猫好きの小生にはたいへんうれしいプレゼントでとてもハッピーな気持ちになれた。
 そして、うれしいことは重なるもので、我が家のイライのためのサンタクロースの衣装をPさんからもいただいた。下の写真がそれを着たイライの姿である。猫は干渉されることが嫌いな動物である。サンタクロースの衣装を着せた当初は嫌がって暴れていたが、着てみると暖かくて快適なのだろう。すぐに慣れて、いまでは喜んで着ている。それをほほえましく見ている我が家族もたいへんうれしい。
 Aさん、Pさん、どうもありがとう。おかげさまで素晴らしい2013年クリスマスを堪能することができました。
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by Weltgeist | 2013-12-26 21:37

クリスマスのその後 (No.1864 13/12/25)

 キリストが誕生したクリスマスのとき、東方の博士たちが家の中にいるキリストとマリアを訪ねて礼拝した「東方三博士の礼拝」と、馬小屋の飼い葉おけに寝かされているキリストを羊飼いが訪ねて礼拝した「羊飼いの礼拝」という二つの違った話が残っていると前回まで書いた。
 二つの話は訪れる人が身分の高い博士(賢者)か、貧しい羊飼い(つまり一般人)かの違いと、生まれた場所が普通の家(たぶんマリアの家)か、馬小屋かの違いである。しかし、細かい違いはあるにしても救世主の誕生を祝う点では変わりはない。
 ところが聖書ではその後の物語の展開も違った風に書かれている。博士が礼拝したマタイ福音書では「エジプトへの逃避」ということが行われる。神の子であるイエスが生まれたと聞いて、自分の身が危うくなると恐れた時の王、ヘロデはベツレヘム周辺の幼児を皆殺しにするよう命じる。危険を感じたヨセフとマリアは幼いイエスを抱いてエジプトに逃げるのだ。このことについて聖書は次のように書いてある。
「主の使いが夢でヨセフに現れて言った。”立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。”そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ち退き、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(マタイ福音書2:13-15)
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 キリスト一家はエジプトに逃げて、ヘロデ王が死ぬまでイスラエルに戻れないのだ。ところがもう一方のルカ福音書では全然違うことが書いてある。マリアは神の子供を産んだことをエルサレムに報告に行く。そこでシメオンという人にキリストが神の子であることを祝福されるのである。
「シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。主よ、今こそあなたはみ言葉のとおりに、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしの目があなたの救いを見たからです。この救いはあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。」(ルカ福音書2:28~32)
 このようにルカ福音書ではシメオンの祝福を受けたあと幼子キリストは何の妨害もなく順調に成長していくことが書かれている。一方エジプトに逃げたマタイでは、ヘロデ王が死んだあとに天使に導かれてガリラヤに戻り、洗礼者ヨハネと会ったと書かれている。
 この二つの異なったストーリーをどう解釈したらいいのか。マタイでは高貴な博士たちに祝福されたため、ヘロデ王に目をつけられてエジプトまで逃げなければならなかったのかもしれない。粗末な馬小屋で生まれた方は王様ににらまれることもなくすくすくと育ったのだろうか。
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 上にあげた絵は、14世紀末から15世紀にかけて活躍した謎の画家、メルキオール・ブルーデルラム(Melchior Broederlam (1350?-1409年? ) の現存する唯一の作品「シャンモル修道院祭壇画」の二連装祭壇画右パネルの部分である。
 右パネルの右側はマタイ福音書で書かれたキリストの「エジプトへの逃避」(上)である。ロバに乗ったマリアが幼子のキリストを抱き、夫のヨセフは水筒から水を飲んでいる。しかし、一家で逃げる悲惨さは感じさせない。どこかのどかな雰囲気のある絵である。
 そして同じ右パネルの左側にはルカ福音書に書かれた「キリストの神殿奉献」(下の絵)が描かれている。白いひげの老人がシメオン、グリーンのターバンの男がヨセフ、右端は女預言者アンナである。このようにブルーデルラムは、一枚の絵に両方のシーンを入れることで、二つの異なるストーリーを調和させようとしたのではないかと思われる。
 ところで、この絵は2006年にフランス中部、ブルゴーニュ地方ディジョンの、「ディジョン市立美術館」で撮影したものである。シャンモル祭壇画について知りたい方はこちらをクリックしてください。
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by Weltgeist | 2013-12-25 23:32

若者のたちとクリスマスパーティ (No.1863 13/12/24)

 昨日、キリスト降誕物語の続きを書くつもりだったが、若者が我が家にやって来て久しぶりに賑やかなクリスマスパーティとなって、ブログを書く時間がなくなってしまった。それで、今日は昨日のそのときの模様を報告して、キリスト降誕物語は明日のクリスマス本番の日に書きたい。
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23日、我が家に集まったのはこのメンバー。小生と妻を除けばみんな若者ばかりである。最初に全員でクリスマスキャロルを歌ってからパーティを始めた。
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パーティのメインディッシュは定番のターキー(七面鳥)。若者たちはターキー料理を食べるのはどうやら初めてらしく、日本のチキンとあまりに違う大きさに驚いていた。
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今回のターキーは7㎏オーバーの巨大なもので、うちの奥さんが当日朝から4時間かけてオーブンで焼きあげた。これをBさんにアメリカ製の電動ナイフでカットしてもらう。大きすぎて普通のナイフでは切りにくいのだ。7㎏というサイズは我が家でも初めての大型サイズで、7人ではとても食べきれない。食いしん坊な小生、腹一杯思う存分食べることができた。
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左はインドネシアから来たAさん。日本には来たばかりでまだ日本語は全然話せないが、ハワイにいたことがあるので上手な英語を話す。アメリカ人のBさんとは英語で話が弾んでいた。
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ターキーを食べ終わったあとは、Bさんから借りたメキシカントレインで遊んだ。若者たちはメキシカントレインをやったことがないという。ゲームを知っている小生と妻はアドバンテージがある。当然、最初は勝っていたのだが、後半になって次第にやり方を分かってきた若者に追い上げられて、結局小生は最終二位で終わってしまった。

*ターキーのレシピを知りたい方はこちらをクリックしてください。
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by Weltgeist | 2013-12-24 21:49

羊飼いの礼拝 (No.1862 13/12/22)

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 クリスマスにちなんでキリスト降誕を扱ったテーマで書いている。前回はマタイ福音書の「東方三博士(マギ)の礼拝」を書いた。今日はもう一つ、ルカ福音書の「羊飼いの礼拝」について書いてみたい。
 それでまず「羊飼い」を描いた絵だが、こちらは「三博士」に比べて描いている画家がやや少ない。多くの画家は、豪華な雰囲気のある東方の博士(王様)の方に絵柄的に魅力を感じているから羊飼いの礼拝は数が少ないのだ。今回は少ない中でも最も優れている作品と小生が考えているフィレンツェ、ウフィッツイ美術館にあるヒューホー・ファン・デル・フースの描いた「羊飼いの礼拝」にした。その理由は救世主を歓迎すべき羊飼いたちの姿が、あまりに貧しく粗野に描いているからだ。後で述べるようにフースは聖書の解釈によって羊飼いをそのように描いたのである。
 フースは1440年頃北方ヨーロッパ、ネーデルランド(今のベルギー、オランダ付近)で生まれ、ロヒール・ファン・デル・ウエイデンに師事したと言われている。彼が当時イタリアで権勢をふるっていたメディチ家のネーデルランド代理人、トマソ・ポルティナーリの依頼で三連祭壇画を制作する。依頼主の名から「ポルティナーリ祭壇画 Portinari Altarpiece 」と呼ばれる三連装祭壇画のセンターパネル部分が今回の「羊飼いの礼拝」である。
 前回、マタイ福音書の「東方三博士の礼拝」では流れ星に導かれて「ある家にいる」マリアと幼子、イエス・キリストを見つけ、黄金などの捧げ物をしたとある。ところがルカ福音書ではこの部分は次のように書いてある。
「さて、この土地に羊飼いたちは野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせにきたのです。きょうダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのしるしです。」(ルカ福音書2:8~12)
d0151247_2391383.jpg 王様でもなければ貴族でもない、ごく普通の羊飼いたちが野営していたら突然周囲が明るく輝き、天使が出てきて、救世主が生まれた。あなた方は飼い葉おけにいれられたみどりごを見つけるだろう。それが救世主だから見に行けというのである。
 だが、キリストが生まれた所は博士たちが行った「家」ではない。布にくるまれて飼い葉おけで寝ているというから、馬小屋か牛小屋でマリアはキリストを出産したのである。絵画的にみればどうやってもきれいには描けない、むしろひどく汚い場所で神の子は生まれたというだ。
 もちろんこれらのことはすべて神の意志による計画に沿ったものだろう。しかし、神の子ならどうしてもっとまともな場所で生まれさせなかったのか。全知全能の神なら豪華な宮殿で生まれさせることなどわけもないことだろうに、神は粗末な馬小屋でキリストを産ませた。そして、それを初めて見つけた人間も、これまた粗末な羊飼いであった。
 マタイとルカの福音書ではそれぞれ「東方の博士たち」と「羊飼いたち」と違った風に書いている。どちらがより神の意志を正確に表しているのか。フースはルカ福音書の「羊飼い」の方に神の真意があると読んでいるのである。救世主は優雅な上流階級の人間としてではなく、最下層の人間として最低の場所で生まれるのがふさわしと思っているからだ。なぜ神はそんな選択をしたのだろうか。
 この続きはまた明日書きます。

*Hugo van der Goes / The Adoration of the Shepherds / 1476-79年 / Galleria degli Uffizi, Firenze.
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by Weltgeist | 2013-12-22 23:27

キリスト降誕について (No.1861 13/12/20)

 昨日、イエス・キリストが生まれたのはクリスマスの12月25日と書いたら、ある人からそんなにはっきり分かるものではないだろうと指摘された。たしかに2000年も前のことだと確かなことは分からない。調べてみたら、1月1日、元旦に生まれたとか、12月20日前後の冬至の日とか諸説がたくさんあるらしい。
 肝心の聖書でもはっきりした日にちは書いていない。いや、それどころか4つある福音書の中でイエス・キリスト誕生を語るのは、マタイ福音書とルカ福音書の二つだけで、それぞれが微妙に違った記述をしている。
 マタイ福音書では東方から博士(賢者)たちがやってきて、流れ星に導かれて、ある「家にいる」マリアと幼子イエスを見て拝んだ(2:9~10)とある。いわゆる「マギの礼拝 Adoration of the Magi 」と言われるこのときのことをイタリアでは1月6日とし、この日を Epifania エピファニーアのお祭り=公現祭と言って国民の休日となっている。東方の博士が誕生したばかりのイエスを礼拝した日は1月6日としているのである。
 公現、すなわち、公(おおやけ)に神がこの世に現れたことである。しかし、それがイタリアのように1月6日となると、クリスマスはどうなんだという疑問が起こってくる。マタイ福音書ではもちろん日にちなど書いていない。またたんに「博士たち」と複数の賢者が礼拝したとしか書いていないが、イタリアではそれが三人の博士となり、ガスパール、メルキオール、バルタザールと博士の名前までつけられている。
 さらに面白いのは、公現祭の日にはラ・ベファーナという魔法使いのおばあさんがほうきに乗って空から飛んできて、よい子にお菓子のプレゼントをするという言い伝えがあって、子供たちはこの日お菓子をもらえる楽しい日となっている。こうしてお祭りはどんどん一人歩きしているのである。
 ところで、もう一方のルカ福音書ではどうなっているかというと、こちらは宿屋に泊まれなかったマリアが馬小屋の中でイエスを出産し、同じように天使に導かれた羊飼いたちが礼拝する「羊飼いの礼拝」がある。これについては明日、詳しく書くつもりである。
 いずれにしても、イエス・キリストの誕生日はそれほどはっきりしたものではない。しかし、いまは12月24日がクリスマスイブ、25日がクリスマスと言われているので、小生も素直にこの日を救世主の出現の日として祝うつもりでいる。
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ロンドン・コートールド美術館の15世紀イタリア絵画群の中にあった「東方三博士の礼拝」。誰かの小さなコピー(アフター)作品だったが、アフターでもなかなか良いできの絵だった。東方からやって来た博士が黄金、香油などを捧げて救世主誕生を祝っている。
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by Weltgeist | 2013-12-20 21:40