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引きこもりの日々とオオムラサキ (No.1846 13/11/30)

 今日は土曜日。働いている皆さんには待ち望んだ休日だろうが、毎日が日曜日の小生にとってはごく普通の平日にすぎない。今朝もいつものように午前9時少し前にゆっくりと目が覚めた。仕事をしていたときは7時に鳴る目覚まし時計で無理矢理たたき起こされて、洗面、朝飯、そしてご出勤までをわずか40分くらいでこなしていたから大違いである。このゆったり感こそリタイア爺さんの特権だろう。
 昔は目覚ましが鳴ってから布団の中でまどろむ数分間が最高に幸せであった。もしこのままずっと布団の中で寝ていられるなら自分は何と幸せだろうかと思ったものである。だが、リタイアしていつまでも寝ていられるとなると、むしろ人間はそうした締め切り時間がある方が幸福だったのではないかと思い始めるから勝手なものである。

 午前10時、家から見える「おらが町のシュバルツバルト」には早くも朝の散歩を楽しむ人たちが歩いている。「そろそろおれも出ていって歩かないと体がなまってしまうぞ」とみずからに鼓舞のかけ声をかけるが、なぜか足は家の外に出ることをいやがっている。
 先日、コンピュータが突然ぶっ壊れて、修繕にかかりっきりだったため、ずっと家にいた。がらくたが散乱した小生のゴミ捨て場兼用書斎に引きこもり状態でコンピュータと格闘していて、体がすっかり引きこもり体勢に順応していたのである。
 しかし、コンピュータは簡単には直らなかった。そのうちにこんな使いにくい物に自分が振り回されていることに急に腹が立ってきたのである。「こんな物いらねえや」と言いながら、窓の外に投げ捨てたらどんなに気持ちがいいだろうかという衝動に駆られる。
 だが、「感情に流されてはいかん。冷静に、冷静に」と自らに言い含める。一時的な感情でコンピュータを捨てたとしても、すぐに新しい物が必要になるのは目に見えている。そうなると、乏しい軍資金がさらに乏しくなる。忌々しいけれどここは我慢のしどころと、言うことをきかないコンピュータの修理に専念していたのだ。
 それでもバカ道具がようやく復調して何とか動くようになったので、今日は少し余裕のようなものが出てきた。午後になって久しぶりに家を出る。といってもいきなり前の山を歩く気にまではならない。車で近くの別な「山」に向かった。実はここは東京では珍しくなった国蝶のオオムラサキがいる小生の「隠しポイント」でもある。
 下のように何枚か紅葉し始めた「隠しポイント」の写真を撮ったあと、オオムラサキの幼虫が越冬しているエノキがある場所に行ってみた。オオムラサキの幼虫はエノキの根元付近の落ち葉の下で冬をやり過ごし、春に再び木に登って成虫の蝶になっていく。こいつを見つけようとエノキの木の下でもぞもぞ葉っぱをほじっていると、さすがに土曜日だけあって次から次へと人がやってきて「何をやっているんですか」と声をかけてくる。小生が何か価値のあるお宝でも探していると思っているのだ。
 ここで「オオムラサキの幼虫を採っている」なんて答えようものなら、底の浅いエセ自然保護主義者がたちまち「なんてひどいことをしているんでしょう」とわめき出すに決まっている。面倒な自然保護論争などやりたくない小生は「エノキの実をさがしているんです」と適当な嘘を言ってやり過ごすことにした。
 人は正直であらねばならない。嘘はいけないことだ。そうは思いつつも黙々と幼虫探しに専念したが、今年はまだ季節が早すぎたのか、幼虫は2匹しか見つからなかった。やはり嘘をつくような奴には恵みも与えられないのかもしれない。
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by Weltgeist | 2013-11-30 20:37

ハンナ・アーレント、「全体主義の起源」その2、憎しみこそ破壊の元凶 (No.1845 13/11/29)

d0151247_2221048.jpg「自己は孤独のなかで現実化されうるが、そのアイデンティティを確認してくれるのは、われわれを信頼してくれ、そしてこれからも信頼することができる同輩たちの存在だけなのだ。Lonely (孤独)な状況においては、人間は自分の思考の相手である自分自身への信頼と、世界へのあの根本的な信頼を失う。人間が経験するために必要なのはこの信頼なのだ。自己と世界が思考と経験を行う能力が(孤独なまま)では一挙に失われてしまうのである。」
全体主義の起源、第三巻 P.322



 11月23日のNo.1842でドイツ生まれのユダヤ人哲学者、ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」をとりあげた。この続きを書こうと思っていたら、コンピュータが故障してできなかった。今日はそれの続きである。

 アーレントによればドイツで発生した全体主義(ナチズム)は20世紀になって初めて登場した歴史上特異な事例だという。それは時を同じくしてロシアでもスターリン主義で顕在化した。こんな出来事はこれまでの人類史には無かったことである。しかし、その起源は19世紀で培われてきていた。19世紀から20世紀にかけて階級制が崩壊すると、くびきを外してバラバラな個()人となった人が鬱積した不満を持ったまま社会からドロップアウトしていく。彼らが全体主義を支える人となっていくのである。
 彼らの根底にあるのはルサンチマン、すなわち他人への怨念、憎悪である。人を愛し認めることではなく、人の弱みを見つけそれを憎しみを込めて攻撃する。弱い者をいじめることで自分の気持ちをすっきりさせるのだ。こうした怨念発憤の一点でまとまったものが全体主義である。
 全体主義とは「既成のもの一切をそのニュアンスや相違を無視してまるごと憎む大衆の盲目的な憎悪に立脚している。”仲間に入っていない者はすべて排除される”とか、”私を支持しない者はすべて私の敵だ”という原則の上に建てられた組織は・・・方向を見失っている大衆にとっては混乱と苦痛の源でしかない現実の多様性を消し去ってくれる」( 同 P.129 )魅力的なものなのである。
 このような思いを抱く人たちがヒットラー総統をトップに結集した。総統が「右」と言えば上から下まですべての「同士」たちが右を向く。総統の意志は全国民の意志となる。ここにおいて人は自ら考えることを放棄する。すべては総統が考えてくれるからだ。だから彼らの行ったことへの責任も感じなければ罪の意識も無い。モッブ(暴衆)と化して集結した人は盲目的に総統の指示に従ってユダヤ人を攻撃し、そのことで自分の苦痛を解消するのである。
 「孤立と無力、すなわちそもそも行動する能力を根本的に欠いている」( P.318 )人には何が正義であるのか判断ができなくなっている。ユダヤ人を殺すことこそ正義と感じる異常さがまかり通っていたから、非人間的なことをドイツ人が心を傷めることなくできたのである。
 ナチもスターリン主義も幸いにして滅びた。しかし、それでもまだ全体主義が生まれる地盤は残っている。それは他人を妬み恨みに思うルサンチマンの感情を今なお人が持ち続けているからだ。卑近な例で言えば、最近とくに激しくなったいじめの問題がある。アーレントが言う「仲間に入っていない者はすべて排除される」という弱い者いじめの陰湿さや、政治的に言えばヘイトスピーチをやる人たちの人種差別思想に見ることができる。だが、憎しみが生み出すものは災いでしかない。他人を恨みに思うことではなく、敬意を持って他人の存在を認めることが唯一の救いの道である。
 冒頭にあげた文章は、「全体主義の起源」の最終ページ、エピローグに書かれたアーレントの言葉である。人は孤独であっても、われわれと同じ状況に陥っている「同輩たちの存在」を信頼することでアイデンティティを取り戻すことができる。人がすべてのくびきから外されて個人となることは、人間が自由であることの前提である。しかし、それが他者から孤立して無力であってはならない。孤立するのではなく、互いに信頼しながら連帯を持つことが我々に課せられた道なのである。
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by Weltgeist | 2013-11-29 23:56

壊れかかったデスクトップPCをSSD換装で生き返らせた (No.1844 13/11/28)

 一月ほど前からパソコンの調子が悪く、11月24日になって突然電源が切れるアクシデントが頻発し始めた。OSが入っている起動ドライブCは余裕を持って100GBとってあったのに90GB以上の使用率となって、容量不足の警告が出るようになっていたのである。本来なら十分余裕があるはずなのに、なぜこのようなことが起こるのか。もしかしたらウイルスに感染したのかもしれないと、チェックしたが異常は出ない。しかし、このままではパソコンを使えないと判断し、思い切ってSSDに入れ替えることにした。その結果、死にかかっていたパソコンが画期的なまでに生き返った。以下は、そのときの作業手順報告である。
 ちなみに小生のデスクトップパソコンの環境はプロセッサがIntel Core i7-2600 CPU @3.40GHz 。実装メモリーは12GB。OSはWindows 7 、64 ビットです。換装後は驚くほど快調に作動しています。
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 SSDはハードディスクに代わる新しい記憶媒体である。データの処理速度が抜群に速く、ハードディスクのようにいきなりクラッシュすることもない。夢のような新製品なのだが、書き込み回数に限界があり、長く使っていると寿命で壊れる欠点があった。しかし、以前は64GB程度の容量の小さい物しかなかったからすぐに限界に達して壊れた。容量が大きくなると総体的に書き込み回数が少なくなり寿命は格段に長くなるのだ。容量の大きな物は高価で手がでなかったのが、最近値段がこなれてきたので、サムソンのSSD840EVOデスクトップキットの250GB用をアマゾンから18300円で購入した。上の写真の黒い小さな物がサムソンの250GB SSD。
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 換装は、これまで使っていたハードディスクのOSが入っているCドライブをSSDにコピーするための引っ越しソフトをデスクトップPCにインストールすることから始める。サムソンのSSDについていたCDからインストールを完了させたら、付属のSATA2.0USB変換ケーブルでPCとつなげると、自動的にCドライブのコピーが始まる。コピーをスタートさせる前に開いていたすべてのソフトを終了させておくことがまず第一のキモ。開いていると、そのソフトはSSDに移行されないから注意が必要だ。
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 これがCドライブをSSDにコピーしているときのPC画面。ドライブのサイズにもよるが小生の100GBが全部コピーし終わるまで55分かかった。ちょっとわかりにくかったのは、コピー完了後「ターゲットディスク(SSD)には152GBの空き容量があるが、もう一度インストールするか」と聞いてきたことだ。たぶん、これはSSDにパーティッションを切って2ドライブで使うためではないかと思う。小生はSSD全部をCとして使うつもりなのでパスして、変換ケーブルをUSBから外した。これでSSDに前のCドライブとまったく同じものがコピー(移植)されたことになる。この後の指示として、SATA(シリアル)ケーブルはポート0に刺せと出る。これを間違えないことが第二のキモ。
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 SSDはノートパソコン用の薄いサイズなので、デスクトップパソコンでは3.5インチサイズに合わせる必要がある。まず付属していたブラケット(写真の白い金属板)にSSDを固定する。さらに今回小生のパソコンはすでに2台の内蔵ハードディスクを増設してあり、SSDをはめるスペース(空きベイ)が余っていないため、予備用CDドライブを入れる空きベイに合わせて、3.5インチ変換用スペーサー(黒い物)を重ねてねじで固定した。
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 SSDを固定したスペーサーをCDドライブの空きベイ前面から差し込み、ねじでパソコン本体にしっかり固定したら、SSDにSATA(シリアル)ケーブルと電源ケーブルを差し込んでいく。コネクターが裏と表があるので差し込む方向を間違えないこと。間違ったまま強く差し込んでコネクターを壊したら台無しである。
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 いよいよSSDとデータをやりとりするSATA(シリアル)ケーブルをポート0(一番左の青いポート)に差し込む。それの右となりがポート1(白色)で、ここにはいままで0に刺していた前Cドライブのケーブルをつなげ、残りのHDDはさらにとなりのポート2に移していく。ただ、この場合、まずポート0のSSDだけをつないでウインドウズを起動させ、ドライブを認識したらいったん電源を切って、前のCドライブをポート1につなぎ、さらにまた電源をオフにしてDドライブをという具合に順番につなぐ方がハードディスクの認識間違いがない。
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 これでSSD取り付け作業は完了である。あとは外してあったパソコンの外カバーを取り付ければSSDの換装は終了である。ここまで少しまごつくところはあったが、サムソンの引っ越しソフトが良くできていたのか、思った以上に簡単に換装することができた。
 それでこの後電源を入れて立ち上げたら、起動がめちゃくちゃに早くなっていた。以前は電源を入れたら「ウインドウズを起動しています。ようこそ」という文字が出てから、2~3分後にやっと起動が終了して使えるようになったのだが、SSDだと「ウインドウズを起動しています」という文字が出たと思ったら数秒でウインドウズが立ち上がる。その間の時間はたぶん10秒くらいではないかと思う。とにかく比較にならないくらい早くなってちょっと戸惑うほどである。
 パソコンの動作が遅いと悩んでいる人はSSD換装にトライする価値はありそうだ。PCの動作を早くするという点では申し分ないパーツである。
 今回の換装で新しいCドライブは250GBもとったので容量不足なんてことは当分起こらないだろう。またファイルの断片化による処理速度の低下は起こらないし、デフラグも必要がないという。このようにSSDは良いことづくめのように見える。しかし、まだ、数時間しか使っていないので、先のことは分からない。今後別なトラブルが発生するとも限らないので、まだまだ完全に安心はしていないのである。
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by Weltgeist | 2013-11-28 23:07

パソコンの不具合でブログが書けません (No.1843 13/11/25)

 昨日、ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」の続きを書こうと思ったら、突然パソコンの電源が落ちるようになって、長い文章が書けなくなりました。昨日はままならないコンピュータと悪戦苦闘していて、ついにブログもアップできませんでした。とりあえず今日は非常手段でなんとか、写真だけは掲載できるようになりました。長い文章は無いけど、ちょっとカメラでいたずらした写真です。
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by Weltgeist | 2013-11-25 20:38

ハンナ・アーレント、「全体主義の起源」その1 (No.1842 13/11/23)

d0151247_21594629.jpg「専制者や独裁者は、臣民の平等、つまり階層間の差異をなくし、社会的、政治的なヒエラルヒー(階層)の確立を防ぐことが彼らの支配の不可欠な前提であることをつねに知っていた。・・・二人を敵味方に分けると同時に結合している共通の世界が完全に破壊され、内部に何らの相互関係を持たない大衆社会、単に孤立しているばかりでなく、自分自身以外の何者にも頼れなくなった相互に異質な個人が同じ型にはめられて形成する大衆社会が成立したときはじめて、全体的支配はその全権力を揮って何者にも阻まれずに自己を貫徹しうるようになる。」
ハンナ・アーレント、「全体主義の起源」
みすず書房、大久保和郎訳、第三巻「全体主義」PP.33-34



d0151247_20294075.jpg これまで全体主義とは一人の独裁者が勝手な私意で政治を動かしたもので、無知な国民は独裁者にだまされて彼を後押ししたものと思っていた。ところがハンナ・アーレントの「全体主義の起源」を読むと、それが間違いであったことを思い知らされた。ユダヤ人を世界から抹殺しようとしたナチの思想はヒットラーが考えたというよりは、ドイツ国民全体が後押ししたのである。それも思慮塾講の末のものではなく、付和雷同的に行ったものだ。
 なぜなら時代の流れの中でみんなが自分の確たる居場所を失って苦しんでいるとき、ユダヤ人だけが良い思いをしていると見られていたからだ。これがドイツ(アーリア)人の反感を買うのである。17世紀ころまで支配階級であった貴族がまず没落し、次には宮廷ユダヤ人も力を失っていく。しかし、それでもユダヤ人は富だけは失わない。ロスチャイルドのように金融界を支配し続けるのだ。これがユダヤ人と一緒に没落した一般国民の憎しみを買い、反ユダヤ主義の萌芽となるのである。
 かってはユダヤ人もドイツ人もそれぞれが自分の属する階級の中で一緒に生き、そのなかで自分を主張することができていた。ところが19世紀になって次第に階級制が薄れ、誰もが平等と思わせる状況下になると、所属すべき階級を失ったバラバラな個人が出現してくる。いわば故郷喪失と言えるような人々が「内部に何らの相互関係を持たない大衆社会」という同じ鋳型にはめ込まれながら、お互いが孤立無援な立場に置かれるようになる。
 自分のより所もなければ、考えることさえ停止させられて不満を抱える大衆(モッブ)が次第に暴徒化していく。誰もが同じ形にはめ込まれて個性を失った不満分子は、やがて自分の憎しみを晴らしてくれるヒットラー総統に行き着いて一つにまとまる。彼らは巨大な集団で心酔し、自分の奥底に潜む妬みの思いを爆発的に燃焼させてくれる総統への「ハイル=万歳」を大合唱する。ここで彼らは失われた自己の誇りを取り戻したと歓喜するのだ。かくして「世界に冠たるドイチュラント」を目指す狂気集団・ナチができあがる。
 アーレントは数百万人ものユダヤ人を強制収容所に追いやった戦争犯罪人、アドルフ・アイヒマンの裁判を戦後傍聴し、彼が極悪非道な鬼のような存在ではなく、どこにでもいるごく普通の男だと言って世間を驚かせた。ところがそのことで、ユダヤ人社会から裏切り者扱いをされる。彼女がなぜそのようなことを言ったのか、本書を読むととても良く理解できるのである。
 ごく普通の市民が時代の流れの中で思考を停止すれば、人間を平気でガス室に送り込む殺人鬼になりうることをアーレントは冷めた目で書いているのである。悲惨な歴史を見るとき、なんと人間とは愚かな存在なのかと思えてしまう。しかし、それでも人間はその愚かさのなかで何とか自分を失わないようにして生きていくしかないのである。

 大学時代アーレントの師であったハイデガーとは愛人関係にあったとされている。ハイデガーはナチに協力し、アーレントは米国に亡命する。そして、戦後捕まったアイヒマン裁判の傍聴記からユダヤ人の非難を浴びた彼女の姿を描いた映画「ハンナ・アーレント」が現在、東京の岩波ホール、名古屋、大阪、京都などで放映されている。なかなか評判のいい映画らしいから興味のある人はぜひご覧になったらどうだろうか。

「全体主義の起源」はその2に続きます。
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by Weltgeist | 2013-11-23 23:57

イライは犬のような猫です (No.1841 13/11/22)

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 週一でBさんから英会話を教えてもらっているが、最近、お互いが忙しくてしばらく中断していていた。今日、久しぶりに再開となって我が家に彼がやって来たら、イライがすぐに察知して玄関で待ち構えている。イライはBさんが大好きなのだ。しかし、どうして家に入る前にBさんと分かったのか、動物の本能というのはどうもすごい察知能力があるようだ。
 そして、玄関に入ると、「何でいままで来なかったんだよぅ。ぼくはずっと待っていたんだぞ」と言わんばかりにBさんに体をこすりつけて甘えている。飼い主である小生には滅多に見せないイライの甘えぶりに、ちょっとやきもちを感じるほどであった。
 さらにテーブルに着くと今度はBさんにキスなんぞを連発している。Bさんは猫アレルギーだから密な接触はヤバイのだが、ごらんのようにキスを迫るイライにBさんもうっとりしている。まんざらではないのだ。人にここまで甘える猫は少ないのではないだろうか。イライはまるで犬のような仕草をする変わった猫なのである。
 それはさておき、英会話となると毎度注意されるのが小生のジャパニーズイングリッシュの発音だ。いつも間違えるのは a と o の発音である。日本的には a はアー、o はオーだろうがアメリカンイングリッシュでは Walk がウォーク、Work はワークとなるように a は逆にオー、o はアーと発音する。これをいつも間違えてしまうのである。
 今日の日常会話で、先日ハンドルが壊れて修理に出した出刃包丁の研ぐことが話題になった。包丁を研ぐのは hone ハーンと発音するのだという。ホーンと言ったら「それは角の horn だ」と早速注意されてしまった。o はアーなのだ。最近は完全に th の発音は間違えなくなったが、相変わらずRと Lの音を出すことができないでいる。もうこのへんはみっちり練習しているのにできないことから、小生には無理、才能がないとあきらめつつある。
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 小生たちが英会話の練習をしている間も、イライはBさんから離れたがらず、コンピュータの裏側でまるで我々の会話を聞いているようなふりをしている。小生が英語が分からずマゴマゴしているとき、「フムフム、そうか英語ではそう言うのか」と分かったような顔をしているのだ。もちろん、彼の最大の関心事は英語ではなく、毎日の餌をおいしく食べられるかどうかしかないのだろうが、どうもミスが多い小生は擬人的に考えてしまうのである。
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by Weltgeist | 2013-11-22 23:07

イルミネーションの撮り方を練習してみました (No.1840 13/11/20)

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 クリスマスの季節が近づいて、駅前商店街でのイルミネーションが始まった。どこのお店も冬のボーナスと正月を当て込んでお客様を呼び込もうとめいっぱい飾り付けをやっている。にわかクリスチャンが出現するこの時期、あちらこちらでクリスマスのライトアップが点灯されて実にきれいだ。道行く人たちもこぞって光の饗宴を写真にを納めようと携帯カメラで撮っていたが、それをうまく写真に表すことができただろうか。
 小生も持っていたカメラで撮ってみた。しかし、光の感じはいいのにイマイチきれいに撮れていない。どうやらイルミネーションの規模が小さいためか、夜の闇が画面に占める割合が多すぎてLEDの光が負けた貧弱な絵にしかならないようである。
 こうしたときどうしたらイルミネーションのきれいさを出せるか、手持ちのカメラで色々と撮り方を練習してみた。何枚か試し撮りをして分かったことはできるだけ画面いっぱいに光を配置させて闇を圧倒させることだと気づき、カメラを振ってわざと光が流れた写真にしてみた。
 しかし、むやみにカメラを振っただけでは、ただ光が流れた写真になるだけで、これまた面白味が出ない。シャッター速度や、カメラを揺すってブレを作り出すタイミングなどは微妙に違えると全然違った写真が撮れることが分かったのである。今日の掲載写真は、寒空の駅前でバカみたいにカメラを動かしながら撮影した「習作」である。
上の写真の撮影データ:カメラ=ニコンD7100、レンズ=10-24㎜、f/5.6、1/4 S、iso320。
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 これは駅前ターミナルにあった大きなイルミネーションを接近して撮ったものである。最初は標準レンズで撮っていたが、それだとイマイチ面白くない。そこで上のデータと同じ広角レンズに付け替えて、思いっきりブレた写真を狙ってみた。f/5.6 でシャッタースピードは 1/15 S にして、シャッターを押したと同時にカメラを左右に動かしてみたものである。だが、2013と書かれたオレンジの文字が少しわかりにくい。カメラを振るのを少なめにすると文字ははっきりしてくるが、そうなると全体の動きが少ない面白味のないものになる。といって振りすぎると今度は光がガチャガチャになる。ちょうどいいタイミングというのはなかなか簡単には見つからないようだ。
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 こちらのカットはイルミネーションだけでなく、周囲の街灯や店の看板、車のライトまで入れた広めのシーンをやや強めにカメラを振って撮ったものである。ここまでくるともうカメラが何をとらえたのか、被写体の形などは分からない。光があちらこちらに散在しているだけの写真であるが、結果として形がはっきり分からないこのカットが一番面白い風に撮れたのではないかと思っている。
 良い写真は簡単には撮れるものではないが、ただ一つだけはっきりしているのは人と同じことをやっていては当たり前のものしか撮れないということだ。これからイルミネーションに出会うチャンスが多くなると思う。そんなとき、当たり前の撮り方とともに、わざとカメラを振ってブレた写真も試すことをお勧めしたい。光の具合はそのときの状況任せではあるが、何度かトライすれば面白いものが撮れるはずである。ピントぴったり、解像度バッチリだけが写真ではない。ピンぼけのおもしろさを試していただきたいのである。
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by Weltgeist | 2013-11-20 23:25

一生忘れない心の傷 (No.1839 13/11/19)

 小生がリタイアする直前のことだからもう10年以上昔、ある人に声をかけられた。彼は親しげでにこやかな顔をして話しかけてきたのだが、小生の心の中は凍り付いたように冷たかった。時代はもっと遡って30年ほど前、出張先で彼から耐えられないほど侮辱的な扱いを受けたことがあるのだ。そのときの心の傷が30年過ぎた後でも忘れられずに残っていたのである。
 社会に出れば7人の敵がいると言われる。敵ばかりの社会では同じようにはらわたが煮えくりかえる思いをさせられて、「あいつだけは絶対許せない」と思った人は案外たくさんいるのではないだろうか。
 理想を言えば嫌なことがあっても気にせずさっさと忘れ、以後彼とのつきあいを絶てばいい。顔を合わせなければ不愉快なことを思い出さなくてすむからだ。しかし、狭い社会では顔を合わせないことは難しい。また、あまりに深い心の傷は10年や20年程度で簡単に消し去ることはできない。
 それなのに神は左のほほを打たれたら右のほほも出してやれと言われる。隣人愛の精神から言えば、忘れるだけでは不十分なのだろう。人間は愚かな存在である。彼は自分がどのようなことで人を傷つけているか分からないのだ。そんな人間の過ちなど許してやれ。いや、むしろ愚かな彼をも愛せよと神は言っている。
 だが、心の狭さから抜けきれない小生にはそんな寛容さは持ち合わせていない。それどころか傷の深さから未だに許せないと思う人たちが何人もいるのだ。ずっと昔のことで言った本人はとっくに忘れているかもしれないが、傷つけられた方はいつまでも覚えているのである。
 こちらは長いこと悶々としているとき、そんな嫌なやつが何事もなかったかの態度で来ると「この野郎、お前のことは忘れないぞ」と思いながらそのことを言えない。曖昧な態度で話をする自分が情けない。「君は昔おれに***ということをしたんだよ。覚えているかい」と言ってやりたいが、そこまで古傷を蒸し返す勇気もない。
 汝の隣人を愛せと言われるのは、たしかに理想的ですばらしいことだが、総論は賛成でも具体的な各論になるとたちまち行き詰まる。他の人は心から愛せても、あの男だけは許せないと思ってしまうのだ。狭い心しか持ち合わせていない自分自身を情けなくも思うが、どうしようもないのである。
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マティアス・グリューネヴァルト / イーゼンハイム祭壇画 / 下段プレデッラ( The Lamentation 悲嘆)の左側部分 /1515年作。フランス北東部アルザス地方、コルマールのウンターリンデン美術館にて2008年に撮影。
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by Weltgeist | 2013-11-19 23:57

サンクスギビングデーと七五三 (No.1838 13/11/17)

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 今日の日曜日、キリスト教系インターナショナルスクールの教会でサンクスギビングデー(感謝祭)を祝うハーベストディナーが行われた。サンクスギビングデーは毎年、11月の第四木曜日に祝う米国の休日で、今年は11月28日が相当するが、こちらのインターナショナル教会では本日早めに開催したようだ。日本に住むたくさんの外国人と日本人がおいしいディナーを食べて楽しい交流の時を持ったのである。
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 サンクスギビングデー・感謝祭の日、米国ではターキー(七面鳥)を食べることが恒例になっている。日本ではお正月にお雑煮を食べるように、この日数十万羽のターキーがいっせいに食べられるのだそうである。手前の皿にのっている白っぽい肉がターキー。左はターキーを焼くときおなかに詰めたパンや野菜などのスタッフィングとサラダ。白身で淡泊なターキーはグレイビーソースをかけて食べる。
 日本でターキーはあまりなじみのない食材だが、我が家では初めて食べたときあまりにおいしかったので、Bさん夫妻からターキーの調理法を教えてもらって、この季節からクリスマスにかけて家でも何回か焼いて食べるようにしている。小生の向かいに座った日本人の方は初めて食べたらしく、おいしい、おいしいと言っていた。
 *ターキーのレシピを知りたい人はこちらをクリックしてください。
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 米国の感謝祭は11月の第四木曜日だから、毎年日にちが違う移動祝祭日である。だが、日本は11月15日が七五三と決まっている。この日感謝祭にやってきたPさんの娘さんが七五三の着物を着ていて、みんなの大注目。小生もカメラを取り出して撮らせてもらうことにした。
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 正式な着物の着方とは少し違うかもしれないが、こうして外国人が着るととても様になる。この可愛いお嬢さんのおじいさん、グランパPさんから小生は5年間くらい英語を直接教えてもらったことがある。子供の顔出し写真はプライバシー問題が絡みなかなか難しいが、今回はお母さんからブログに掲載する許可はいただいています。二人ともとても可愛いですね。
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by Weltgeist | 2013-11-17 23:13

人生の意味について (No.1837 13/11/15)

 若い頃一番の疑問は「俺の人生の意味は何か。何のためにこんな苦しい世に生まれ、なぜ生きなければならないのか」であった。誰もが悩み、そして永遠に答えが見つからない疑問、そのことになかば振り回されていた。しかし、60歳を過ぎる頃から、何かその答えが見えてきた気がしている。
 錯覚かもしれない。思い違いかもしれない。そう思って自分なりに慎重になっていた。しかし、意味は確かに「見えている」のだ。そう確信できるのは自分の人生の全体像を俯瞰して見渡せる年齢になったからだろう。
 そのことについて数年前に関西の某氏に言ったことがある。「この年になって人生の意味が分かってきた気がする」と言うと、彼は「ホーッ、人生の意味が分かった? それはすごいことですな。いったいどないものでっか? 」と大阪弁丸出しで聞き返してきた。彼の顔には明らかに軽蔑の念があり、この馬鹿者はくだらない出まかせを言っているなという態度がありありだった。
 だが、そのとき小生は、彼の問いにうまく答えることができなかった。意味は見えてはいるが、それをどのような言葉で伝えていいのか分からなかったからだ。「どないものでっか、と聞かれても一言では言えない」と曖昧な返事をしたところで話は途切れてしまった。お互いがこれ以上語るのは無意味と判断したのである。
 しかし、その後になって自分はもっと鮮明に人生の意味を見ることができていると確信するようになった。ただ、「見えているもの」を言葉で言うことは今もってむずかしい。目の前にあるリンゴを「赤い、丸い、果物・・・」と言葉を無限に並べ立てても表現しきることができないようにだ。どんな言葉を使っても語り得ないものが残るのである。しかし、言葉で説明できなくても一個のリンゴが目の前にあることは確かである。その確かさを否定することはできないのである。
 もう一度「お前はどうして人生の意味が分かり始めたなんて大それたことを言うのか」と某氏に聞かれたら、60歳を過ぎる頃からある種の啓示を受けたからだと答えようと思っている。自分は生きているのではない、生かされているのだ、と分かってきたからだと伝えたい。
 これまでがむしゃらに生きてきたが、それは全部自分の意志でやってきたと思っていた。しかし、人生を総括する年齢に達したとき、実は自分をはるかに超えたもの、超越者と言えるような方によって生かされているのではないかと思い始めたのだ。それは運命とも、あるいは神と言ってもいいだろう。とにかく自分を越えたところからこの世に自分を送り出してくれた方が確かにいると感じているのだ。
 若い頃は苦しいことばかりが続き、自分の人生を呪った。しかし、苦しいことがあったからこそ今の自分がある。自分はできれば楽な道を歩きたかったが、なぜか自分をこの世に送った方が茨の道を歩かせた。その意味が今になって分かってきた気がするのである。
 そう思うと不思議と心が落ち着き、平安がやってくる。いまの自分は世間一般のレベルからすればずっと低いものだろうが、自分はそれに十分満足し、満たされていると思っているのだ。なぜなら、それこそ「お前が生きる道だ」と神が与えてくれたものと確信しているからだ。
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この花は昨日掲載した花と同じ株を横から撮ったものである。可憐な花は両手を拡げて何かを訴えているような仕草に見える。この不思議な形をした花を見るだけでも創造主の見事なばかりの造形美を思わずにはいられない。
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by Weltgeist | 2013-11-15 23:16