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誕生日に当たって時間性について考えてみた (No.1824 13/10/31)

 本日、10月31日はハローウイーンだが、毎年これについて書いているので今年はこの話題はなし。人間が年を取っていく「時間」の意味について考えてみたい。なぜなら小生は、とうとう今日で71歳になってしまったからだ。確実に一歳年を取るのだから全然うれしくない。ハッピーバースデーなどくそ食らえの心境であるが、いくら自分が年を取りたくない、と騒いでもまったく関係なく時間は過ぎていく。
 今日で71歳になったということは、世間的通念でいえばとんでもなくじいさんになったということである。もし何か悪いことをして警察のご厄介になったとすれば、マスコミは「71歳の老人が・・・」と書くことだろう。
 だが、振り返ってみれば小生はいきなり老人になったわけではない。赤ん坊の時代、小学生、中学、高校時代、そして大学時代を経て、青年から中年の時代をそれぞれ生きてきたのである。だから、このブログを読んでいる人で青年と呼ばれる年代の人がいたら、心しておいて欲しい。あなたも必ず老人になるのだということを。
 現在青年である人と小生との間には歩んできた時間の長さに決定的なずれがある。そして、お互いの年齢にワープすることはできない。ただし両者が同じ「現在」という瞬間の中で生きていることでは共通である。小生もオバマ大統領も芦田愛菜ちゃんも同じ「現在」の中に生きていて、誰もが「現在」を飛び越えて過去や未来に移ることはできない。人は現在に厳重にはめ込まれているのである。
 そして、小生が昨日おいしいステーキを食べたとしても、それは今ではない。ステーキを食べたのは過ぎ去った過去のことで現在の自分は空腹である。同じようにオバマが昨日おいしいフランス料理を食べたとしても、そのことを彼も我々も持ち続けることはできない。誰もが自分の「現在」にさし止められていて、過去に戻ることはできないのである。
 人は自らが歩んできた「現在」をたえず過去にずり落としていく存在なのだ。同じように未来についても自分だけの未来をたえず取り込んでいく。現在を過去という手の届かない所に押し去りながら、未来を「現在化」しつつ生きているのが人間なのである。
 このことを言い換えれば、人は時間性の中に生きているということである。といってもこれは物理的に何時何分と規定できる「時間」ではない。現在、過去、未来をそれぞれ独立した時間として切り離す物理的な時とは違う。人間存在は過去、現在、未来が切り離せない連続した時間性の中で生きているのである。過去も未来も含んだ幅のある「現在」が人間の時間性なのである。ここにおいて未来を現在化しつつ過去に置き去っていく「私の現在」が際だってくる。時間性の中にある「現在」を真摯に生きる実存、これこそが重要となるのである。
 ハイデガーはこうした時間性から、人は自らの未来の究極、すなわち時間性の連続を断ち切る「死に向かって生きる存在」であると言っている。「現在」の中には終点としての死が可能性としてふくまれている。そして、自らが向かう人生の終点たる死を熟視したとき、むしろ今現実に生きている現在の自分の真の姿が見えてくる。そのことで真の実存に目覚めていくと言っている。
 だからこそいくつになっても「今」が大切だということになる。71歳になって死期は青年より確実に近づいているだろうが、現在の大切さと言う点では誰も同じなのである。
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by Weltgeist | 2013-10-31 23:51

天安門の車突入事件について (No.1823 13/10/30)

 28日に北京、天安門広場で起こった車暴走、炎上騒ぎはどうやら新疆ウイグル自治区のウイグル人が故意に車を突っ込んだテロだった可能性が高いようだ。今年の夏、新疆ウイグル自治区ウルムチに4日間も閉じ込められた小生としては、この事件に強い関心をもっている。
 ウルムチ市内を少し見ただけの旅行者の印象だから断定的なことは言えないが、この町はウイグル族の町というよりは、むしろ漢民族の町という感じがした。ウイグル族は何か小さくなっているところに漢民族がどっとやって来て、民族色が塗り替えられてしまったような印象を受けたのである。中国の領土なのだから中国流にやって何が悪いと反論する向きもあるが、あからさまにウイグル族を押さえつけるだけなら不満は高まるばかりで、状況は悪くなる一方だろう。
 以前、 No.1767 で大前健一氏の提案を紹介していたように、「自治区」というなら、むしろこの地域はウイグル族の自主管理に任せた方がいいのではないだろうか。北京から3000㎞も離れた広大な地域を、漢族中心の共産党が支配するところに無理がある。民族の自主権を大幅に認めながら、統治した方が安定度は増すと思えるのだ。むろん、中国政府は今でも十分な民族の自主権は与えていると言うだろうが、そんなものでは不十分な段階まできてしまっているのである。
 今回の事件で中国政府がとった対応を見れば自主権とは真逆のことをやっているのが分かる。そもそも事件が起こったことを一切国民に知らせようとせず、衛星放送で流されるNHKのニュースも事件を報道する部分になると電波を遮断している。いわゆる情報統制でこの問題を徹底的に隠蔽して乗り切ろうとしているのである。
 こうした無理が長く続くわけがない。多くの中国国民は政府が隠しても事件の事は知っている。 力で民衆を押さえるのは無理なのになぜやるのか。大前氏は「昔、日本と戦っていた毛沢東主義の共産党は農村を基盤としていた。それは発展した現代中国とはかけ離れている。共産主義は貴族や資本家から奪った富を貧しい農民に分配することは説明できても、今の時代に富をどのように分配するかの理論が弱い。共産主義とは貧しい時代の教義だからだ。中国は豊かになったけれど、その富を国民に分配せずに共産党幹部や政治家に集中させている。これが今の中国の矛盾である」というようなことを言っている。
 問題の根源は古い体質の中国共産党が民主化意識に目覚めている人々の権利をいまなお認めず、一党独裁で押し通そうとするところにある。自分の都合のいいように世論を操って、産み出された富を横取りしてきたツケが回ってきているのである。こうした事をやめて民主的にすることでしか解決の道はないのである。
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写真は今日のBBCニュース、China 'captures Tiananmen suspects' より DL しました。

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by Weltgeist | 2013-10-30 22:32

ハンカチサイズの人生 (No.1822 13/10/29)

「生きてゆくのにはほんのわずかなものがあれば足りる。なけなしの空間と食物、娯楽と器具や道具。それはハンケチの中の人生である。」
クロード・レヴィ=ストロース、「悲しき熱帯」、川田 順造訳、中公クラシックス、第Ⅰ巻 P.236


 若い頃、生きていることの意味が分からず大いに悩んだ。自分は何の因果でこの世に産み出されたのか。それを恨みに思いつつ、ただ当てどもなく生きていた。生きていることは虚しい。こんな人生にどのような意味があろうか。そう思って虚無の縁を歩き回った。自分の未来は真っ暗な闇に包まれていて、全然先が見通せない。明かりのないトンネル人生をいつまで続けるのか希望も喜びもなくさまよったのである。
 だが、未来が暗くて見えなかったのは、今思い起こせば先が遠すぎて見えなかっただけではないかと思える。若者の未来はまだ未知数な可能性としてたくさん残されているから先まで見通せなかったのだ。
 しかし、小生はあと二日で71歳になろうとしている。十分な長さを生きたと実感する年齢になった。それで残された未来が若者に比べてひどく短くなっていることが見えている。自分がこの世にいられる時間があとどのくらいあるのか分からないが、きっととても短いだろうとは思う。
 ところが、そうなると若い頃には見えなかった未来にある種の明かりが灯っていて、それが概観できるようになってくるから不思議だ。若い頃あれほど考え悩んでも分からなかった人生の意味が少しだけ分かってきた気がするのである。
 それがレヴィー=ストロースが言う「ハンケチの中の人生」である。わずか30㎝四方くらいのハンカチを広げた程度の狭い空間の中であれこれ動き回るのが我々人間だったと実感するようになってきたのである。
 どんな大それた野望を抱いて人生を切り開いても、結果は知れている。この世にほんのちっぽけな場所をわずかな期間だけ借り受けて、締め切り時間がくれば次の人に場所を明け渡していく。そうした人生が虚しいと感じる人もいれば、わずかな場所と時間でも十分満足ですと、与えてくれた方に感謝する人もいる。
 若い頃の小生は、自分の居場所があまりに狭い窮屈さに息が詰まる思いがしていた。しかし、よわいを重ねた今となっては、ほんのわずかでもそうした場所に自分がいられたことに感謝する気持ちになっている。自分が71年間生きたハンケチほどの狭い居場所は今にも消え入りそうであるが、まだ明るい光が当たって足下を照らしてくれている。そこには自分を世に送り出してくれた者の恵みがあふれている。ちっぽけなこの場所で小生は人生の意味を見つけた喜びに浸っているのである。
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by Weltgeist | 2013-10-29 23:00

あーあー、やっちまったー (No.1821 13/10/28)

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 台風が過ぎ去って久しぶりに前の山に行ったら子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。見ると、近くの幼稚園児らしい集団が、雨でぬかるんだ道を滑りながら歩いていた。道の部分は雨水と地下水でどろんこだから、少し高い右手の斜面を順番にトラバースしていくのだが、ここも粘土状の土がまだ濡れてつるつる滑りやすく、何人かが転んでキャアキャア言っている。
 これは面白いシャッターチャンスに巡り合わせたとカメラを構えて撮ったのが上の写真である。しかし、こうした子供の写真を撮るには注意が必要だ。真剣になって撮っていると、すぐに変質者とみられてしまう。下手をすれば警察に突き出されかねないからなかなか撮るチャンスがない。
 今回は、子供の顔が見えない角度から急いで3枚だけ撮ったが、早く撮ろうと焦っていたのか手ぶれした写真になっている。それでも組写真にすれば何とかなるかなとまとめてみたのが上の3枚である。
 一番上の写真は子供たちが渡り終わるのを小生が待っていたときのもの。すでに数人が転んでいるのを最初は何も考えずにぼんやり見ていた。しかし、子供が次々に転ぶ姿に「これは写真に撮っておかねば」とひらめくものがあって、大急ぎで撮った最初の一枚がこれ。ほぼ難所を渡り終えて後ろを振り返っている赤いシャツの女の子は、この少し前にすってんころりんとして、泥だらけになったお尻を気にしているのである。
 真ん中の二枚目は、後ろから三番目の子がまさにつるんとなった瞬間。写真では人物がブレているが、彼女は尻餅を着く寸前に体勢を立て直して尻餅は免れた。しかし、一番下の写真では次の子が完全に転んでお尻は泥だらけになっていた。彼女が家に帰ればお母さんに怒られるかもしれないが、子供にはこうしたことはどんどん経験させた方がいい。お母さんたちは元気に遊んで泥だらけで帰ってきた子供たちを暖かく見守ってほしい。子供はこうして色々なことを学んでいくからだ。
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by Weltgeist | 2013-10-28 21:32

生活はますます苦しくなりそうだ (No.1820 13/10/27)

 今週発売中のサンデー毎日を読んでいたら、経済評論家の荻原博子さんが「幸せな老後への一歩」というコラムで、消費増税とアベノミックスが我々の生活を苦しくするだろうと書いていた。このコラムを読むまで全然知らなかったのだが、輸出を増やした企業は消費税の還付を受けることができるらしい。我々庶民はもとより国内の中小企業も消費税を言われるがままに払っているが、最終的に輸出するときは消費税は払わないですむらしい。還付してもらえる金額はおよそ3兆円である。日本国内での消費税収入は10兆円だから、その30%をトヨタやキャノンなどの大企業がもらえるようだ。
 荻原さんによると消費税が5%から10%になれば6兆円も輸出企業はもうけることになる。我々は税金に痛めつけられながら、その陰ではごっそりもうけているところがあるのだ。考えてみれば国外なら消費税はかからない(もっとも輸出国の税金はかかるだろうが)のだ。こんな裏道があるなんて全然知らなかった。さらに今回「復興特別法人税の廃止」でもうかっている企業は9000億円も軽減される。法人税を払っている企業はもうかっている企業だけなので、ますますこちらも有利になる。大企業というのは得な存在のようだ。
 それでも輸出でもうけた企業の利益が我々に還元するならウエルカムである。アベノミックスでは企業がもうかれば我々庶民も良くなると言っていた。ところが、それがどうやら怪しい雰囲気になっている。企業業績が良くなっても庶民の懐まで豊かにするのは難しそうなのだ。なぜなら、企業はもうかればまず株主に利益を還元するからだ。そして日本の上場企業での外国人持ち株比率は約28%あるから、28%は外国人に持って行かれてしまうことになる。
 こうした状況を見ると働く人の給料が上がるとは思えないと荻原さんは言う。加えて従業員を解雇しやすいよう「解雇特区」を設けて外資が入りやすくする動きがある。日本の労働条件はますます厳しくなるだろう。アベノミックスで日本再生を目指したが気がつけば日本がアメリカになっていたという本末転倒にならなければいいが、と荻原さんは結んでいる。
 安倍首相は円安誘導で輸出を促進すれば日本は生き返ると言っていた。しかし、21日に財務省が発表した2013年度上半期の貿易収支は4兆9892億円の赤字と、年度半期ベースで過去最大を更新している。円安で輸出が増えてもそれ以上の輸入額増になっている。物価は上がるのに、収入は増えないどころか危険な方向に向かっているのだ。話が違うではないかと言いたい心境である。
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by Weltgeist | 2013-10-27 22:54

トマス・アクィナス、「神学大全」その3、理性の限界と信仰 (No.1819 13/10/26)

d0151247_21582242.jpg 一昨日の冒頭で書いたように、人間の理性は有限であるから無限な存在である神を理性で知ることはできない。しかし、世界を見渡したとき人間を存在せしめている何者か(すなわち神)が存在することは確かである。世界の中に存在するいかなる存在者でもないが、すべての存在者を「在らしめている何者か」は絶対在るはずだ。理性では分からなくても、天地創造した第一動者、神は確実に「存在している」とトマスは言うのである。
 だがこの世の有限なる存在者と無限な神との間には、越えることのできない無の深淵が横たわっている。人は理性があると言っても所詮は有限なのだ。神が天地創造をなしたとすれば、神は無の海の中に存在者を送り込んだことになり、人と神の間には断絶がある。これが天地創造の意味である。
 人は理性を持つ存在として神から創造されたが、人間の理性は必ずしも恵みをくれた神への感謝に向かうとは限らない。理性は不完全がゆえに「神は存在しない」と創造主に逆らうこともできるのだ。
 トマスは「神は完全か」とか「神は善か」といった疑り深い人間からしつこいほど繰り返し言われる疑問を一つずつ反論して神の存在を証明しようとしている。だが、理性の段階にとどまる限りこうした疑問は絶えない。なぜなら、人間の理性は有限だから、支えを失った柱のようにどこまで行っても不安定なままだからだ。
 この不安定さを解消するには神の方から与えてくれる「啓示」を信じるしかない。すなわち聖書が語る神の言葉を信じる「信仰」の道に進まない限り、疑惑の断絶は埋まらないのである。それは神の側から与えられている恵みを人が受け取ることで完結するのだ。
 だから神が在るか否かということは「信仰箇条」(神学大全第一部第二問第二項)の問題に行き着く。「信仰に属することはがらは論証されない。論証はことがらを知らしめるものであるが、・・それは(人間の理性からは)”見えないことがら”に関わるものだから」(同)である。
 理性的には神が存在するかどうか断定はできない。真理をしっかり確信できるのは神が聖書の言葉を通して語られる啓示を通してのみである。理性を超えた彼岸から、預言者を通して伝える神の言葉を信じることで、人は神からの恵みを受け、理性の不確実性は不動なものとなるのである。理性は神が恵みとして与えた恩恵を受け取る、すなわち信仰に入らないかぎり、いつまでも迷走を続けて真理を得ることができないのである。

 これがトマスが長い長い理屈をこね回して言いたかったことである。しかし、それを概観してみると、トマスのことを書き始めた最初のところで、神学大全がカントの思想と似ていると小生が書いたことが正しく見えてくる。人間の理性的認識は物自体には到達できない。ただ信仰でのみとらえられるというカントととても似たところにトマスは立っていると思えるのである。

トマスの神学大全は今日で終わりです。
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by Weltgeist | 2013-10-26 22:55

誕生日パーティのため予定を変更。トマスは休みます (No.1818 13/10/25)

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 昨日に続いてトマスの神学大全のことを書く予定だったが、Bさんご夫妻が小生たち夫婦の誕生日を祝って自宅にご招待してくれたので、今夜はその報告に変更。「神学大全」の続きは明日書くことにした。ブログはBさん宅での写真だけにさせてください。
 我が家夫婦の誕生日は、小生が10月31日、妻が10月26日と、わずか5日間しか離れていない。小生に限れば10月31日、ハローウイーンの日についに71歳になる。生きたも生きた、古狸のように長生きしてきたわけである。一方の妻も明日、26日に**歳になる。子供の頃なら誕生日を迎えることは早く大人になることだからうれしいが、71歳にもなると、正直、時間の進行は少し遅らせてもらいたいくらいである。
 しかし、それでもこの世に生を受けたことはめでたいことである。そんな我らの誕生71周年を、Bさんご夫妻がお祝いをしてくれたのである。自宅にまで招いてすてきなバースデーカードをもらい、「誕生日おめでとうございます」と言われるとやはりうれしい。そのあと、B婦人が作ったアメリカンテイストのおいしいディナーをいただき、いつものオセロゲーム・メキシカントレインで楽しい夜を過ごしてきた。
 ところで、掲載した写真でお祝いされる主賓二人の顔にボカシが入っているアンバランスさはご勘弁いただきたい。Bさんご夫妻の顔出しはオーケーをいただいています。

 
そんなわけで、トマスの神学大全の続きは明日に順延します。
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by Weltgeist | 2013-10-25 23:49

トマス・アクィナス、「神学大全」その2、神の存在証明と理性 (No.1817 13/10/24)

「人間の認識能力を超えることがらを人間が理性によって詮索するのはたしかに間違っている。しかし、神によって啓示されたならば、信仰をもってこれを受け入れなければならない。」
トマス・アクィナス、神学大全、第一部第一問1項、山田晶訳


d0151247_0294222.jpg 昨日に続いてトマスの神学大全の話である。中世最大の神学者、トマスが書いた神学大全の冒頭の部分で、上のような言葉が書かれている。人間の認識能力を超えることがらとは「神は存在するのか」という疑問である。この問題を理性が詮索することは間違っている。それは信仰の問題だ、と最初にトマスは釘を刺しているのである。実はこういう言い方はカントと同じであるのだが、トマスはそれをスコラ哲学的に証明しようと膨大な神学大全を書いたのである。
 トマスによれば世界のなかにある有限な存在者はそれぞれ因果関係を持つから、原因を追求していけば出来事がなぜ起こったのかが理解できる。このことから神の天地創造にまで遡って行けば神に行き着くはずである。だが、有限な存在者が無限に遡ること自体は矛盾である。無限にはなれないから絶対者には行き着けないのだ。これについてトマスは次のように書いている。
「動いているものはすべて他者によって動かされているのでなければならない。・・しかし、この系列を追って無限にすすむことはできない。なぜならその場合には、第一の動者(天地創造した神)は存在しないことになり、従ってまた他のいかなる動者も存在しないことになるからである。実際第二次的な諸動者は第一の動者によって動かされるかぎりにおいてのみ(他を)動かすのである。・・それゆえ何者によっても動かされることのない第一の動者・・・を人々は神と解する。」神学大全、2-3(カッコ内は筆者加筆)
 有限な我々は誰かに動かされ、動かすことで存在できている。しかし、すべての存在者を動かす原因となるものは無限で、しかも他からの原因では動かされないものでなければならない。そんな存在は神しかいない。この存在を否定すれば我々自身が存在できないから、神は在ると言わざるを得ないのである。トマスの言葉を借りれば動かされる者である第二動者たる人間は、最初に動きを与えた第一動者の天地創造があったから存在できるのである。ゆえに神は存在するとトマスは言うのだ。

話がややっこしくなってきたのでこの続きは明日また書きます。
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by Weltgeist | 2013-10-24 23:55

トマス・アクィナス、「神学大全」その1、悪について (No.1816 13/10/23)

d0151247_21301525.jpg 現在の社会を見渡したとき、我々の周りにはあまりにたくさんの「悪」が充ち満ちているように思える。生きる希望さえ失わせるひどい社会はどうしてできたのか。人間とは日々良くなるように進歩を重ねてきた存在ではなかったか。それなのに一向に進歩しないどころか日々に悪くなっていくようにしか見えないのはなぜなのか。
 キリスト教では世界は神が天地創造したことで始まったと信じられている。神は混沌としたもののなかから天と地を造り、光と闇を造った。さらに草木を造り、たくさんの生き物を造った最後のところで自らに似せたものとして我々人間をも造った。そうして、自分が創造したものを見て「すべて良いもの」と評価したのである。だが、神が「良いもの」と言ったもののなかに「悪」が紛れ込んでいた。何で悪が混じり込んだのか?
 中世イタリアの神学者、トマス・アクィナス( Thomas Aquinas / 1225?-1274年)は彼の「神学大全 Summa Theologiae / 1265~ 」のなかで、悪について「神という名のもとに理解されるのは、何か無限に善なるものである。ゆえにもし神が存在するとすればいかなる悪も見いだされないはずである。しかるに世界には悪が見いだされる」神学大全第二問3項、(山田晶訳)と同じ疑問を書いている。
 絶対的に善なる存在、神が創造したものは「すべて良いもの」であったはずなのに悪が紛れ込んでしまった。この世は良いというのはとんでもない間違いではないか。神は出来損ないな欠点だらけの世界を創造したからだ。そうなら、完全な存在である神などいないのではないかという神への疑問も当然出てくる。
 だが、実はこれは神学大全第二問3項の「神は存在するか」の論議で、神の存在を否定する人たちの言い分としてトマスが紹介したものである。熱烈なキリスト教徒であるトマスは、こんな無神論には与しない。彼はこの疑問にアウグスティヌスの言葉を引用しながら次のように書いている。
「アウグスティヌスが”提要”においていっているように”神は最大度に善き者であって、悪をも善用するほどに全能であり善き者でなかったら御業のなかにいささかたりとも悪の存在を許すことはなかったであろう”と。このように悪の存在を許容し、悪からさえ善を引き出すことは、神の善性に属しているのである。」神学大全 2-3、
 つまり悪というのは、神が良きことを行うためのステップにすぎないのだ。神の善行を引き立たせる刺身のつまのようなものとトマスは考えているのである。とするならこの世の中には逆に悪も必要ということにもなる。善行は悪のなかから起こるから際立つのである。悪は嫌悪すべきものではあるが、そうだからといってまったく悪のない世界も考えられないのである。悪いことは実は良いことのきっかけなのだとトマスは言っているのである。

 
以下明日に続きます。
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by Weltgeist | 2013-10-23 23:32

コンピュータがまた不具合です (No.1815 13/10/22)

 二日ほどブログの書き込みを休んでいるのはコンピュータが原因不明の不具合に見舞われているからだ。作業途中で突然ブルー画面に変わり、何か意味の分からない英文が出てきて電源が落ちてしまう。以前、バイオのデスクトップを使っていたとき電源ユニットの不具合からブルー画面になり急に電源が落ちることが続いた。それで今のデスクトップに買い変えたのだが、今度も同じ現象が起こって保存していないファイルはすべて消失、ブログも書けないでいた。
 しかし、今回はもっと深刻な現象が続け様におこって余計困惑している。日本語入力(小生はワードや一太郎を使わず、秀丸エディターにIMEは Atok2011 を使用)をしている途中で、突然バックスペースキーを長押しした状態のようになってそれまで書いた文章が全部デリートされてしまうのだ。困ったことにそれがいつの時点で起こるか分からないので、一行書いたらすぐに保存しないと危なくて何もできない。
 このブログの文章を書くにも途中で全部消えてしまうため何度も書き直している。文章入力は基本中の基本なのにそれがうまくできない。文章を推敲する余裕さえなくなってブログを書けなかったのである。
 こうしたおかしなことの原因はコンピュータ・ウイルスに感染したからではないかと疑っているが、ウイルスチェックの結果は「異常なし」であった。しかし、実際には異常があるのだから異常なしはおかしい。ウイルスでなければハードの問題なのか、いまのところ分からない。しかし、ハードが原因ならPCを買い換える必要もあり、頭が痛い。
 電源落ちの問題が深刻ならデスクトップをやめて、バッテリーのあるノートブック型に変える方法もある。しかし、そうなると今まで楽にやっていた写真のレタッチや編集作業がパワー不足に悩むことになる。電源の問題はあっても小生にはパワーのあるデスクトップコンピュータと大型ディスプレイ画面は必要なのだ。
 さらにハード的に追い詰められていると同時に、文章が急にデリートされる問題も未解決で困っている。入力している文章を常時自動的に保存するには「一太郎 2011 創」にある「自動バックアップ」機能を使えばいい。しかし、一太郎で長文を書くとソフトの機能が高すぎて文章を書くリズムがつかめない。一太郎の機能はすごいけれど、単に長い文章を書くだけならそんな機能はいらない。MS-DOSの時代から20年近く使い続けている「秀丸エディター+Atok 」の組み合わせが軽くて書きやすい。あのサクサクと動く快適な組み合わせを捨てることができないのだ。
 「一太郎 2011 」「ワード 2013 」ともにインズトールしてあるが、動作の重さから両方ともほとんど使っていない。それにあのワードに付いている MS-IMEのお馬鹿さんぶりは我慢できないから Atok も外せない。
 今日は一太郎の自動バックアップを設定してここまでやっと書いてきたが、何とか、いままでと同じように快適に文章が書けるよう必死に原因追及している状況なのである。
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小生のコンピュータは今病気にかかっていて治療が必要である。それで今日の写真は、3回前の No.1812 と同じフランス・ブルゴーニュ地方で撮った「ボーヌ治療院」の内部写真にした。中世の病院はこんなに豪華だったのである。ただし、人形として置かれた患者と看護婦を見れば分かるように、このような病院に入院できる患者はたいへんなお金持ちだったと思われる。
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by Weltgeist | 2013-10-22 22:41