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賢い買い物のやり方 (No.1734 13/06/29)

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 デジカメなど値の張る電化製品をお店で買うとき、店員さんと値段の交渉するのは当然である。ネット通販の最安値情報も振りかざして丁々発止で値段交渉し、最終的に出た値段に高いと思えば買わなければいいし、納得して買うのもいいだろう。こうしたやり方に文句はない。
 ところが、ぎりぎりのところで店が出した値段をメモして、別な店で「あそこはここまで値段を下げた。お宅はどうなのだ」と聞いて回る人がいる。これも数軒回って決めるなら値引きのテクニックとして分かるが、やり過ぎるのはいただけない。いくつかの店が出した値段とネット情報を武器に次々とお店を回って一円でも安く商品を「買いたたき」をする。ここまで値段にこだわると情けないというイメージが浮かび上がってしまう。
 家電製品とかデジカメなどはどのお店でも売られる均一商品だから、値段だけが勝負となる。しかし、あまり細かいことをミミッチく言い張るのはどうかと思う。売る側の店員さんの立場に立ったら「このお客はなんと意地汚いことをしているのか」と心の中で軽蔑されることだろう。
 パソコン、テレビ、デジカメ等々、新製品は発売日から坂を転げ落ちるように値段が下がっていく。買う方は一週間待てばもっと安くなると、ずっと待ち続け、結局買うチャンスを逸してしまう。また、最新、最先端の機能に異常なまでこだわる人がいる。たとえばデジカメではセンサーのサイズや解像力といったことが盛んに論議されているが、そんな機能も、所詮は一時代の通過点に過ぎず、最先端はすぐさま陳腐化する。値段も機能も一時的なステップと思えば、あまり細かなことにこだわることも意味がなくなる。
 こうした末梢的なことにばかり目が行くと、本質的なことを見失うことがある。ずっと昔のことだが、小生、初期のDOS/V(ドスブイ)パソコンの能力差にこだわりすぎて、結局、一番パソコンを必要としているとき不便な思いをしたことがある。今思えば何であんなどうでも良いことにこだわったのかと思えるほど些細なことで買い時を逸したのである。
 どんな最新機能も時が過ぎれば陳腐化する。たいした機能差でもないことに異常にこだわる人を見ていると、もっと大らかに見れないのかと思ってしまう。欲しい時が買い時で、買った物はまもなく値段が下がり陳腐化すると思っておくのが一番気が楽である。昔の製品のように何十年も孤高の境地を保持するような製品は残念ながら現代にはないのである。
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by Weltgeist | 2013-06-29 23:25

ネイティブアメリカンの英語 (No.1733 13/06/28)

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 Bさんが3ヶ月ぶりにアメリカから帰ってわが家を訪問した。しばらく会っていなかった猫のイライも早速飛んで来て大好きなBさんに歓迎のキスを始めている。小生も今日は久しぶりに英語を話した。しかし、わずか3ヶ月というのに、英語を使っていないとまったくさび付いていて、全然使い物にならなかった。いつもなら分かる簡単の言葉でもつまづいて、この歳になると覚えるより忘れる方がずっと速いことを実感させられた。
 ヤバイ。このまま何もしないと小生の英語力はたちまち雲散霧消してしまうだろう。そんな心配をしていたら、Bさんがインターネットからいい英語自習サイトを見つけてくれた。Rachels English.com という発音練習のサイトだ。
 これはフリーサイトで、ネイティブアメリカンの発音が無料で学べる。早速アクセスして沢山あるレッスンから、Becouse of my job という発音レッスンを試してみた。Becouse of my job という英語を小生は「ビコーズ・オブ・マイ・ジョーブ」(発音記号を書くべきだが、エキサイトブログは無理なので日本語カナ標記とした)とジャパニーズイングリッシュ丸出しで発音していた。ところが、ネイティブアメリカンの発音だと頭のビーを発音せず「クズマイジョーブ・・・」と発音するらしい。皆さんも試しにこのレッスンを見ていただきたい。何で頭の Be が消えてしまうのか小生には分からない。しかし、アメリカ人にはこれで Becouse of ・・・と聞こえるというのだから従うしかないだろう。
 小生が英語を習った時代はまだ一字一句を正確に発音する英語が主流だったと思う。だから昔の西部劇などアメリカ映画を見てもそんなに発音が分かりにくいものではなかった。ところが、最近の英語は、フランス語のリエゾンのように語尾をつなげてアクセントを付ける発音法にどんどん変わっている。現代英語にはそれなりの勉強をしないとたちまち置いて行かれるのである。
 レイチェルのサイトで、breakfast=朝食というレッスンをのぞいてみたら、もうめまいがするほど発音が違っていて驚いてしまった。しかし、どんなところに注意して発音するか、細かく教えてくれるのでこのサイトはとても役に立ちそうだ。レイチェルの有料特別レッスンまで行かず、これらの無料サンプルを繰り返し聞くだけでもたいへんな効果がありそうである。
 英語をネイティブアメリカンのように話したいという人はぜひご利用をお勧めしたい。しかし、残念ながら頭が凝り固まった小生はいまさらネイティブスピーカーにまでなる能力は持ち合わせていない。自分の思っていることが正確に相手に伝わり、また相手の話す意味を理解して意思の疎通ができる程度がやっとだろう。それでもいいと思っているのだが、このサイトを見ていると少なくともヒアリングの能力は高まりそうである。
 まして、これからもっと英語力を伸ばす必要のある若い人には大いに活用してもらいたいお得なサイトである。
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by Weltgeist | 2013-06-28 22:35

宗教は民衆のアヘンであるのか (No.1732 13/06/27)

Das religiöse Elend ist in einem der Ausdruck des wirklichen Elendes und in einem die Protestation gegen das wirkliche Elend. Die Religion ist der Seufzer der bedrängten Kreatur, das Gemüth einer herzlosen Welt, wie sie der Geist geistloser Zustände ist. Sie ist das Opium des Volks.

宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、悩める者のため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。宗教とは民衆のアヘンである。     
カール・マルクス、ヘーゲル法哲学批判 序文
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宗教とは民衆のアヘン」というマルクスのたいへん有名なこの言葉は、一般に宗教は現実の苦しみを神に頼ることで、目をそらせる麻薬のようなものだとマルクスが断罪したと解釈されている。「お前たちは苦しそうに見えるけど、神様に祈れば実は幸せなことが見えてくる」と宗教家は言う。しかし、それは現実の矛盾を隠蔽することでしかない。唯物論者・無神論者のマルクスにとって宗教とはしょせん現実の苦しみを誤魔化すものに過ぎないと思っているのである。
 しかし、マルクスの文章を注意深く読むと、そんな単純な宗教批判ではなさそうである。宗教が出て来るのはそれだけ現実が不幸だからだ。現実の不幸さの反映が宗教となって吹き出してきたと上の文章で言っている。苦しい現実のため息、世の矛盾に対する抗議が宗教なのだ。彼は宗教を断罪するより、むしろ宗教に同情的なのである。
 だが、彼が言う「心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神」とはどのような意味だろうか。「心なき世界の心情」とは、物事の本質を見抜く力を失った状態である。それが「精神なき状態の精神」なのだ。つまり、自分でどうしたら問題が解決できるか何も分からないでいる哀れな迷える子羊状態ということである。
 だから、宗教は「苦しい」とただため息をついていることしかできない。ため息だけでは現実は変わらないのだ。神に頼るのはアヘンで一時的に苦痛を麻痺させるのと同じで、根本的な解決とはなり得ない。むしろそうした悲惨を生み出す元凶を見失わせることが宗教の役割となっている。
 重要なことは様々な苦しみが起こる現実の世界の本質を見抜き、原因を除去することである。資本主義には資本家と労働者という根本的な矛盾があり、その矛盾が最高度に高まったとき、労働者の蜂起、革命で解決される。しかし、マルクスが予言した社会主義革命はレーニンがやったけれど、結局頓挫した。マルクスは資本主義を倒せば矛盾は解決し、人は幸福になれると言ったが、それは出来損ないの道でしかなかった。そうであるなら我々はマルクスの示す道を歩むことはできない。
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 最近の小生、人は本質的に苦しむべく生まれてきた存在ではないかと思い始めている。人間にとって苦しいということは不可避であって、避けられない。むしろ苦しみがあるからこそ楽しみもあるのではないか。満ち足りて育った者に人間的な成長がないのは、彼が苦しむことで精神を追い込んでいなかったからである。肉体が筋肉の負荷によって強化されるように、人にはある程度の苦しみが必要であると小生は思っているのだ。
 現実の世界での苦しみ、困難をどう取り除くのか。経済的な困窮なら革命でも可能だろうが、人はパンのみで生きるわけではない。苦しみとは「取り除く」べき対象物ではない。克服し乗り越えるべきことである。それによって高みに登れるものなのだ。苦しみはそれを促すステップだと小生は受け止めている。宗教はアヘンではなく、高みへ登るための道しるべを与えてくれるのではないかと思っているのだ。
 人は苦しむのが当たり前で、それがあるからこそ大きく成長することができるのである。
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by Weltgeist | 2013-06-27 22:29

釣り名人の記憶力 (No.1731 13/06/25)

 記憶力が減退してきているが、自分の興味のあること、好きなことについての記憶はなかなか薄れない。あまり関心のないこと、どうでも良いようなことはさっさと忘れる。ところが釣り好きな小生、不思議なことに魚が釣れたポイントなどは数十年たっても覚えている。川のどのあたりのどんな淵の水深がどのくらいの所でアタリがあったなんてことをしっかり覚えているのだ。次ぎに来たとき良い釣りをしたいと思うから無い頭を必死に動かしているのだろう。
 記憶は心の持ちようである程度コントロールできるのではないだろうか。だから、忘れまいと必死に念じれば覚えることはできる。忘れそうになったら、ときどき忘却の川、レーテから引き上げて記憶を新たにすればいいのだ。忘れるのは覚えようとしないからだと言える。
 ただし、これは記憶全般のことではない。ごくわずかな、自分の興味のあることだけで、あまり覚える必要性を感じないことはサッサと忘れてしまう。昔犯した恥ずかしい失敗をいつまでも覚えているのは、忘れかかったころに性懲りもなく同じことを思い出してクヨクヨするからだ。都合の悪いことは忘れるよう心掛ければ自然と忘れていくものである。
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 以前、鮎釣り日本一と評判の高いMさんと釣りをしていたとき、彼は釣れた鮎の顔を覚えていて、「これは上の瀬で午前10時頃釣れた鮎、こちらは11時半に手前のトロ場のもの」と1尾ずつ鮎の「出身地? 」を説明してくれた。
 鮎釣りをやる方ならご存じと思うが、魚の顔形は他の動物、たとえば猫や犬と違ってほとんど差が無い。どれも同じように見えて、普通なら区別できない。まして、M名人ともなると半日で50尾くらい釣るのは普通である。数分間隔で釣りあげる鮎の顔を1尾ずつ、釣れた場所から時間まで覚えていることなど不可能である。ところが、M名人は真顔でそれをやるから、我々は驚いて「本当かいな」と思ってしまう。
 小生、M名人の言葉はハッタリではないかと疑っているが、とにかく頭のいい人で記憶力と洞察力は抜群だからあながち全部がハッタリと言えないところもある。ところが、M名人も小生と同じで、釣りを離れるととたんに記憶が曖昧になってくる。何度も一緒に釣りをしていて釣りに関することは異常なまで記憶力がいいのに、それ以外のことでは世間並みのごく平凡なおじいさんに戻ってしまうと感じていた。
 脳の能力は個人差があるにしても、特定の記憶は個人の努力次第である程度は保つことができる。覚えようと努めればいいのだ。できないのはそうした努力をしないからである。しかし、脳の許容力には限界がある。すでに沢山の記憶でいっぱいになった脳に新しい記憶を埋め込むには、古い記憶に出ていってもらうしかない。昨日、「Vacancy 空っぽにする」ということを書いたように、頭の中に詰まったガラクタ記憶をせっせと捨てる必要がある。だが、どうやって出ていってもらうのか。
 そんなこと何も心配することはないよ、放っておけば自然に全部忘れてくれると人は言う。そうなのだ、老人性痴呆症に近づくにつれて、頭の中からどんどん記憶が薄れていく。しかし、それだと覚えておきたい記憶も一緒に忘却の彼方に消えてしまうから困るのだ。嫌な記憶はすぐに忘れて良いことだけをしっかり覚えておくはできないだろうか。先日亡くなったレヴィ・ストロースは100歳を過ぎても記憶力抜群だったという。やはりオツムの良さが現実的には問題となるのだろう。
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by Weltgeist | 2013-06-25 21:35

ブログを休んで分かった休暇の意味と余裕 (No.1730 13/06/24)

こうして天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それはその日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
創世記 2:1-3


 肉体的にも精神的にも絶不調になってブログ掲載をしばらく休んでいたら、新しい様々なアイデアが浮かんで来た。先日まで「書くことがない、マンネリだ」と行き詰まっていたのが、少しばかり休んだことで新たなネタが生じてきたことになる。どうやらいつまでも頑張り続けるのではなく、一歩引いて適度に休むことも有効だということが分かってきた。急がば回れ、求めるものは血走った目の持ち主には見えてこないのだ。
 天地創造した神でさえ、人間や様々な生き物を造り終えた後、7日目には休んでいる。何もない混沌の中から天地のすべてを創造した神の作業は休息を必要とするほどきつかったのだろう。ましてや無力な人間に安息日は絶対必要である。創造主は人間のために祝福された聖なる日として安息日を用意してくれている。休みとは創造作業の最終段階まで頑張ったあとは休んでよろしいという神の祝福である。ここまで頑張ったのだから一旦休めと神様に促されているのである。人は働きづくめでは駄目なのだ。
 ブログを始めた当初は「書きたいことが山ほどある」と思ったから、毎日更新が当たり前だった。しかし、それを休まず続けようとしているうちに、いつしか「毎日書かなければ駄目だ」という義務感に縛られた自分に変わってしまっていた。書き続けることが大事ではない。ネタのオイルが切れればときどき休んで油を補給することが必要なのだ。
 この数日ブログを休んだことで、「日々更新」という重い課題から解放された気持ちが何ともいえないほど軽やかに感じた。しかし、いつまでも安息日を続けることはできない。神の定めた安息日は日曜一日だけである。長く休み続ける怠け者には堕落という陰が忍び寄り、知らず知らずのうちに人をスポイルさせる。
 休息は次の創造のための準備段階なのだ。いつまでも休みを楽しむことはできないのである。少し前に知り合いのアメリカ人・Mさんから「休暇、Vacation バケーションとは Vacancy バカンシー、すなわち心を開けて開くことからきた言葉だ」と聞いて、なるほどと思った。休むためには自らの心の中に詰まっているものをまず一旦捨てて空っぽにしなければならない。そうすることで新しいことが受け入れられるのだ。
 休息とは古い物を捨てて、新しい物を日々入れ替えていくことに他ならない。つまりは毎日生まれ変わるということ、人が成長していくターニングポイントなのである。休息日に自らにたまったアカをこすり落とし、新たな創造を生み出していく転換点となるのだ。
 だからと言っては語弊があるかもしれないが、小生、今後は毎日更新にはこだわらず、書きたい時に書き、書くテーマが十分熟成していない時は遠慮なく休むことにした。このブログを開いて「何だ、更新してないじゃないか」と感じた人がいたら、そのときの小生は充電休息中だと思っていただきたい。
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すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
マタイ福音書 11:28-29

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by Weltgeist | 2013-06-24 23:14

書きたいことが思い浮かばない日 (No.1729 13/06/17)

 先週痛めた足が全然良くならず、ひどい痛みにいまだに苦しんでいる。こんなときは頭も回らない虚脱感から何もやる気が起こらない。一日中ボーッと過ごしていたら、いつの間にか本日のブログの締め切りが迫ってきていた。でも、何もできていない。何を書いたらいいのかも今日は思い浮かばないのである。
 しかし、何も書くことが無ければ書かなければいいのだ。内容のないことをただダラダラと書くことなど意味もないし、止めた方がいいだろう。それを無理矢理書こうとするのは、ブログは毎日更新するものと決めてかかっているからだ。そう思って今日は本来の長ったらしい文章はやめにした。
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 少し前からブログを書くことに意欲が湧かなくなっているのは、マンネリで書くことがなくなったのが原因かもしれない。以前のように書きたいことが沢山あって何から先に書いて行こうか迷うようなことがなくなった。コンピュータの前に座っても、昔のようにすぐにテーマも書く内容も決まることがなくなっている。そろそろ小生の限界に近づいているのだろう。毎日更新すると宣言したが、2000回も続ける能力は小生にはないのだと感じてきている。
 書きたい内容もないのに無理矢理書いて、「毎日更新だ」なんていうことは自分の趣旨とも外れている。このブログを始めたのは、自分が思っていることが沢山思い浮かんできていて、それを吐露する場が必要だったからだ。そうしたことがなくなればもうこのブログを続けていく意味もなくなってくる。
 何とか2000回まで頑張ろうと思っていたが、このままだとそろそろ終了の時期になるかもしれない。あるいは、今後はしばらく休んで、また書きたいことがいっぱい溜まってきたところで再開する方が良いのかもしれない。とにかく今夜は早く寝て足の痛みを少しでも忘れたい、それだけである。
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by Weltgeist | 2013-06-17 22:00

撮るのか、採るのか、どちらかにしてくれ (No.1728 13/06/16)

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 以前、ある場所で蝶をネットで採っていたら、カメラを持ったおじさんに猛烈な勢いで怒られてしまった。蝶の写真を撮っているから採るなと高飛車に言われて、こちらもムッとしてしまった。別に彼が撮影中の蝶を横からネットですくい取ったわけではない。しかし、彼にはお気に入りのモデル蝶が小生に横取りされると思えたのだろう。どうやら世間にはこのように蝶の採集は悪いことと決め込む困った人たちがいるようだ。
 気持ちは分からないではない。しかし、物事には言い方がある。ましてや見ず知らずの人間に言葉をかけるならそれ相応の言い方がある。いきなり頭ごなしに怒鳴りつけると、こちらも売り言葉に買い言葉で「ここは別に蝶の採集が禁止されているところではない」と反論したけれど不愉快な気分はしばらく抜けなかった。(上の写真の人は小生の友人で、怒鳴り散らしたカメラマンとは無関係です)
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 小生、蝶の写真を撮るのは好きである。被写体としてはとてもきれいだから撮っていても楽しい。しかし、同じ種類の蝶、たとえばモンキチョウとかアゲハチョウなどを一回撮ってしまうと、次ぎにアゲハチョウに出会っても興味が半減してそれ以上同じ蝶は撮る気にならなくなる。同じ種類の蝶をとってもマンネリになるだけだからだ。
 蝶の写真撮影が好きな人は毎年同じような写真を金太郞飴みたいに撮っていてよく飽きが来ないなと感心してしまう。小生はいままで撮ったことのない蝶なら一応記録という意味で撮影はする。しかし、何枚か撮ったあとは、むしろ採集の方に専念している。蝶は撮影の対象ではなく採集の対象物である。こうした考え方の違いが、上記カメラマン氏と合わなかったのだろう。
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 しかし、このように気心の知れた仲間と行くと、撮る、採らないのトラブルは生じない。気に入った蝶を先に見つけた方が先に写真を撮り、別な仲間が撮影の終わるのを待って採集する。実に和やかでお互い同士が好きなように楽しんでいられる。これでみながハッピーな気持ちになれると思うのだが、小生を怒鳴りつけたカメラマンは底の浅い「似非自然保護思想」に凝り固まっていて、蝶を採らせないことが自然保護につながると短絡的に思い込んでいる。もっと物事を深く見れないかわいそうな人なのだと思ってしまう。
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by Weltgeist | 2013-06-16 21:22

ワーファリンは怖い薬だ (No.1727 13/06/15)

 昨晩は足が痛くてたまらなかったが、朝起きたら少し収まっていた。どうやらまだ小生の体に「回復力」は残っていたようだ。この調子で明日、明後日、明明後日と順調に回復していけば普通の生活に戻れそうである。
 しかし、何度も書くようにワーファリンというのは恐ろしい薬だ。ちょっとでも量を多く飲むと出血が激しくなる。血が出ても止まりにくくなるのだ。ところがそれを嫌って量を減らすと今度は血栓ができて脳梗塞を起こしやすくなる。どちらにも転べない、薄い氷が張った池を歩くような慎重さが要求される微妙な薬である。心臓の手術をやった小生はこのワーファリンを飲んでから、急性胃潰瘍や重度の内出血、脳梗塞と、踏んだり蹴ったりの副作用を何回も経験している。そんな薬を一生涯飲み続けなければならないのである。
 今回、左足の打ち身も最初はちょっとぶっつけた程度の軽いものだった。それなのに数日後に内出血が起こり、足がまるでパンク寸前の風船のように膨らんでしまった。ワーファリンを飲んでいるから血が止まらず、激しい内出血が足の筋肉を圧迫して痛みを起こしているのだ。こんな副作用の強い薬だが生きるためなら仕方がない。良く効く薬は副作用も強いことを承知で、我慢して飲むしかないのだ。
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 ところでアベノミクスの三本目の矢として、薬のインターネットでの販売が可能になりそうだ。副作用の危険性がある第一類と第二類はのうち、今回第二類が薬剤師の面談対面なしにネットで購入できるようだ。こうした流れは今のネット社会ではいずれやって来ることであろうが、野放しで販売されると副作用が心配となる。
 といって、それでは医師や薬剤師が介在するからと言っても安心はできない。小生のワーファリンの例があるし、知り合いは医師の処方箋をもらうことに苦情を言っていた。彼は高血圧の薬を常用しているが、毎月一度医院を訪れて処方箋をもらわないと、薬を買うことができない。しかし、彼が通う病院ではろくな診察をするでもなく、ただ処方箋の手数料を取るためだけだと言っていた。こんな例を聞くと薬のネット販売も仕方がないかな、という気持ちがしてくる。
 ワーファリンは多分第一類でネットで購入することはできないだろうが、現在、ものすごく種類のある薬の中には危ないものも沢山あるだろう。とくに効能が優れた薬ほど副作用も心配になる。ネットで自由に買えるようになったからと言って、油断しないようにして欲しい。薬は飲まないにこしたことはない。飲まないのが一番である。
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by Weltgeist | 2013-06-15 22:13

ワーファリンの副作用で左足が猛烈に痛くなってきた (No.1726 13/06/14)

 数日前に転んで左足を打ったら、今になってそこが腫れ上がってひどく痛くなってきた。昨年、山で怪我をしたあと内出血がひどくて、神経を痛めたのと同じ症状である。小生、血液をサラサラに保つワーファリンという薬を飲んでいる。このため一度出血するとなかなか血が止まらない。そして、今回のように打ち身や捻挫をするとその周辺に大量の内部出血が起こり、神経を圧迫するのだ。
 心臓の弁置換手術で一命だけは取り留めたが、金属の弁を心臓に取り付けたことで血栓が生じやすい体になっている。それを防ぐために抗血液凝固剤のワーファリンという薬を飲まなければならない。これが血栓は防ぐが、簡単に出血する副作用を起こす。昨年の打撲傷でも足が猛烈に膨らみ、筋肉に損傷を与えた。それがまた起こったのである。
 ただ、今回は転んだといってもたいしたことではなく、打った場所も赤く腫れた程度だからあまり気にしていないかった。ところが翌日あたりから打った左足が右足の倍くらいの太さに腫れ上がってまともに歩くことができないまでになっているのである。
 こうした場合、安静にして患部に刺激を与えない方がいいだろうと、最初は足を動かさず湿布をして家でおとなしくしていた。しかし、あまりに痛みがひどいので、本日整形外科医院で診てもらったら小生のやっていた自己治療法は全然間違いで、このまま安静を続けると、神経が萎縮しっぱなしになって、最悪は歩けなくなると脅かされてしまった。
 必要なことはストレッチで足の筋肉を動かすことだという。しかし、病院で足の筋肉を引っ張られたら、痛みで気が遠くなりそうになってしまった。現在、ワーファリンによる内出血は止まっているようだが、家に戻った今も猛烈に痛くてたまらないでいる。
 正直、今夜はブログを書く余裕はない。文章もとりとめもないが、このまま寝ることにした。明日の朝、目が覚めたら痛みが治まっているとうれしいのだが・・・。
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Pieter Brugel the Elder / The Cripples / 1568 / Musée du Louvre, Paris
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by Weltgeist | 2013-06-14 22:00

仕事は面白いのか (No.1725 13/06/13)

 先日インターナショナルスクールの卒業式に行って思ったのは、意外にも日本の大学を出て社会に旅立っていく若者たちの就職先のことだった。日本の学生たちの厳しい就活を見ていると、ごくわずかな例外を除いて多くの若者は自分の気に入った仕事につくことができないでいる。ネット社会となって誰もが大手企業に集中的にエントリーする一方で、中小企業は人が集まらないというミスマッチが起こっている。
 しかし、人気企業に落ちても新卒者なら贅沢を言わなければ何とか職場を見つけることはできる。中年求職者に比べれば「若い」というアドバンテージだけで仕事を得る可能性は高まるだろう。望みを下げて少々田舎の中小会社まで視野に入れれば就職は可能である。しかし、そうは言っても何でも良いというわけではない。
 職場のランクはピンからキリまである。安くて条件の悪い職場には行きたくないが、就職先がなければ妥協しなければならない。安すぎる賃金と長く過酷な労働時間、劣悪な労働環境のところしか行く場所のなかった若者は、あえて就職浪人の道を選ぶこともある。一生が決まる分岐点だから、そうした選択も分からないではない。
 最初は仕事ができるなら何でもいいと妥協して選んだ職場も、しばらくすると自分がここで一生を過ごすのかと思って、やりきれない気持ちになってくるかもしれない。「俺はこんなところで腐ったような仕事をやっていていいのだろうか」という疑問が芽生え、「もっとやりがいのある仕事をすべきだ」との思いに悶々とする。不運にもこうした職場に入った人の多くは離職し、失業者の仲間入りをする。彼らは自分の理想とする職場を求めてさ迷うのである。
 だが、実は仕事というものはどんなものでも面白くないのが普通である。仕事が面白くて仕方がない、などと言う人は本当に希なのだ。多くの人は生活の糧を得るために仕方なく渋々仕事をしている。これは競争を勝ち抜いて一流企業に入った人でも同じである。だから、今の職場に不満を持って転職を考える若者がいたら、「仕事なんてどこもたいして違わない。隣の芝生は青く見えるだけだ」と忠告したい。
 そしてよほどひどいブラック企業でない限り、ある程度経つとあれほど嫌がっていた仕事に興味が湧き、それに生き甲斐を見つけられるようになるものである。年齢を重ねてくると賃金は安くても仕事が面白くなり、自分の天職だと思い始める人が増えてくる。これは職場が良い方に変わったからではない。自分の気持ちがいつの間にか職場の体質に合わせられるよう変わってきているのだ。与えられた仕事を天職と思えるようになったとはそういうことである。
 これは良い意味での「妥協」であるとも言える。やりたくない仕事も慣れてスキルがついてくれば、想像以上に楽にこなせるようになる。色々な知恵もついて、仕事に対する余裕のようなものも出てくる。そのようにもまれることで自分が与えられた仕事を「これが俺の人生だ」と悟って受け入れられるようになるのだ。自分の与えられた状況を「良し」と受け入れること。こうしてつまらない仕事であっても「面白い」と言えるようになるのである。
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by Weltgeist | 2013-06-13 23:57