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今年も春を告げるタケノコを賞味した (No.1686 13/04/30)

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 毎年恒例のタケノコを今年も知り合いからもらった。庭の竹林に生えてきた取り立てのタケノコである。彼の話では今の時期、竹林に入ればこんなやつがニョキニョキと出ているという。昨年は我々もタケノコ採りをやったが、たしかに暗い竹林で地面からわずかに頭を出したタケノコを見つけるとワクワクした気持ちになる。栽培した野菜などと違って、自然がもたらしてくれる野趣あふれる春の恵である。それをまた味わうことができる季節になったのである。
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 タケノコは鮮度が重要で、朝取りといってその日の朝とれたものが新鮮でおいしいらしい。翌日になると味はガクッと下がってしまうという。しかし、このところのわが家は多忙で、せっかくもらったのにその日のうちに処理できなかった。翌日庭に出て皮をむくと、短い砲弾のような形のなかから将来成長するであろう竹の全ての段階が内包された形で出て来た。
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 料理の担当は妻。「男は料理に口出しするものではない」と思い込んでいる小生には、タケノコのあく抜きのやり方もよくは分からない。彼女は皮をむいたタケノコ本体を米糠を入れたお湯で2時間くらいは煮ていた。このくらい煮た方がタケノコが柔らかくなるらしい。鍋の縁に白くくっついているのは米糠である。何で米糠であくが抜けるのか分からないが、米糠がなければ重曹でもいいらしい。
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 あく抜きしたタケノコを、醤油ベースで味付けした煮付け。食べるだけの能しかない小生に、料理法はこれまた分からない。しかし、朝取りではなく一日おいたやや鮮度の落ちたものだったにも関わらず、味はすこぶるよろしかった。
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 さらに煮付けたタケノコをご飯に入れて炊いたのがタケノコご飯。これもおいしいのは言うまでもない。たっぷり春の季節を満喫した食事を楽しむことができた。
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by Weltgeist | 2013-04-30 22:45

人はなんで自らの死を急ぐのか (No.1685 13/04/29)

 かってウクレレを弾きながら「あーあ、やんなっちゃった、あーああ、驚いた」と歌って一斉を風靡した牧伸二さんが29日に亡くなった。多摩川の丸子橋から飛び降りる所を目撃した人がいるというから自殺だろうと推測されている。78歳だったという。牧さんの「やんなっちゃった節」も馴染み深いが、多摩川にかかる丸子橋もこの付近で育った小生にはたいへんなじみ深い場所であり、余計衝撃を感じた。
 橋の下流側には新幹線の鉄橋があり、関西方面から新幹線で東京にやって来る人にもよく見える。丸子橋を知らない人でも多摩川鉄橋の上流側と言ったら「ああ、あの場所か」と思い浮かべることができる特徴のある橋だ。またその上には東横線があり、巨人軍の多摩川グランド、さらにすぐ近くは田園調布で、芸能人の家が沢山あるから牧さんもこの付近に住んでいたのかもしれない。
 しかし、何で自殺したのだろうか。マスコミでもまだその原因はつかめていないようだ。ただ、少し前に本人と会った関係者の証言によれば、なんら変わったところはなく、とても自殺する様子には見えなかったと言う。他の人に言えないほど深い悩みを隠し持っていて、一人で悶々としながら旅だったと思われる。

 数ある生き物の中で、自らの生命を絶つ行為をするのは人間だけである。しかし、それはよほどのことがなければ選ばない最後の選択肢である。いや選んではいけない最悪の選択肢だ。
 自殺のことを英語では Suicide =スーサイドという。キリスト教では自殺は絶対に許されない行為で、宗派によっては自殺者の葬儀を拒否する教会もあるほどである。命は神から与えられた賜物であり、これを人間が勝手にいじることは神への冒涜とされるからだ。自殺は絶対的な神への反逆である。逆説的な意味で最も愚かな人間的な行為とも言える。
 しかし、宗教によっては自殺が人間の高貴な選択肢ととるところもある。イスラム教過激派は自爆テロ、スーサイド・ボンビングでしばしば敵を攻撃する。チベットの仏教徒は中国の支配に抗議の焼身自殺をすることで、自分の政治的主張を行う。かってのベトナム戦争でも焼身自殺があったし、日本軍も爆弾を積んだ零戦でアメリカの軍艦にぶっつかっていく特攻隊というものがあった。
 だが、このように自殺を肯定する人たちは、明らかに命の意味を取り違えている。牧さんが死を選んだのはかなり個人的な問題の行き詰まりからだろうが、どうしてこの世に踏みとどまって命を真っ当しなかったのか、残念でならない。
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       *画像は本日夜7時のNHKニュースからキャプチャしました。
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by Weltgeist | 2013-04-29 23:34

コペルニクス的転回の転回 (No.1684 13/04/28)

 リタイアした頃から自分の考え方が少しずつ変わって、いまでは生活態度が180度といっていいほど転換してしまった。自分の考え方が変わったのはいくつかの理由がある。リタイアを契機に自分というものを見つめ直し、いままでの自分は「俺が、俺が」という意識が強すぎたことを反省したのがきっかけである。
 次第に「俺」を考えることがいかに自分をスポイルしているかに気づいたのだ。なぜなら俺を立てれば他がへこむからだ。「どけどけ、俺様が通るぞ」といって、これまで周りの人を押しのけて前に進もうとしていた。それでみんなにどれだけ迷惑をかけていたことだろうか。「俺が」という気持が自分の世界を悪くしていると思い、いっそ「俺を」捨てたらどうなのかを漠然と考えるようになっていったのである。
 だが、人間は欲望の塊だから「俺を満足させる」という気持ちを捨てることはたいへん難しい。自分はそれをなくしたいと思ったが、そうなると俺という人間はいなくなるのではないかという心配が出て来てなかなか前に進めない。
 そこで解決の糸口を見つける方法を逆にしてみた。俺を捨てるのではなく、他の人を立てる。俺はそのままに他人を第一にしてあげるよう心掛けたのである。そうしたら、いつのまにか「俺が」ということにあまりこだわらなくなっていたのである。
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 カントは自分の認識論を見つけたとき、「コペルニクス的転回=kopernikanische Wendung 」と言った。それまで認識の源泉は自分の外の対象にあって、主観はただその写しをもらう不完全なものとされていた。コペルニクスが地動説を唱えたように、認識の源泉は主観、すなわち自分の方にあると逆転させ、天動説を否定し地動説を唱えたコペルニクスに自らを重ねたのである。
 これを西田幾多郎はコペルニクス的転回をさらに転回させる「コペルニクス転回の転回」で二重に主観を否定した。真理はカントが言うような主観のなかにあるのではなく、禅宗の修行僧のように徹底的に主観を追い詰めていった先で起こる主観の放棄で初めて見えてくると考えたのである。主観の否定、つまり自分を捨てることで、主観も客観もない絶対矛盾的自己同一の世界が見えてくると言う異次元の世界を主張したのである。
 これは道元禅師が言う「身心脱落本来面目現前」と同じ境地である。禅宗の坊さんが言うように、座禅を組むことで自分の煩悩を捨て去って無心の境地になることである。そのためには血の出るほど厳しい座禅の修行を通して、無心になる自分を目指さなければならない。そうしていつか悟りの境地に達するのだろう。
 だが、自分を虚しくすること、身心脱落とはそんなにむずかしいものではない。要するに自分が一番ではなく、他人が一番と自らを納得させることではないか、最近そう思い始めている。何も禅寺に通って一心不乱に無心になれと励むことなど必要ない。何かをなすとき、自分のことより相手の立場を尊重する態度に徹底すれば禅僧がいう無心の境地と同じところに達せられるのではないか。最近はそう思い、実践しようと心掛けている。
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by Weltgeist | 2013-04-28 23:43

房総半島で幻のシジミチョウを捜したが・・・ (No.1683 13/04/27)

 昨晩ちょっと書いたように房総半島南部にシルビアシジミという小さな蝶を採りに行って来た。この蝶、関東では非常に狭い場所に限定的生息しているため、なかなか姿を見れない幻の蝶になっている。それが沢山生息する場所が房総半島南部、鴨川市の某所にあると友人から教えてもらい、昨日の朝早くから出かけるつもりでいた。
 ところが、いつも朝遅い時間に起きる癖がついていて、目覚まし時計の音に反応はすれど体は起きられず、寝坊して家を出るのが予定より一時間も遅れてしまった。首都高速は午前6時を境に様相が一変する。6時前ならスイスイ走れるのが、これを過ぎると渋滞の嵐で、ノロノロ運転になるのだ。うんざりするほどの渋滞にはまって、ようやく東京湾横断アクアラインから館山道鋸南富山インターに着いた。しかし、時間はすでに10時を過ぎている。蝶は午前中に多く飛ぶが午後は活動が鈍くなって、採集には向かないのだ。まだポイントまで1時間近くかかりそうで、採集する時間はあまりない。しかし、ここまで来た以上それも仕方がないと、教えられた鴨川市のポイントに向かう。
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 ここが友人がシルビアシジミの秘密のポイントとして教えてくれた場所。彼が数年前にきたときには、そこら中にいっぱいシルビアシジミが飛んでいたという。ただし、いたのは目の前に拡がる草原だけ。少し場所がずれるといなくなると言っていた。どうやらシルビアシジミは相当に気むずかしい蝶のようである。
 回りは低い山が連なるのどかな山あいの村の雰囲気で、草が茂った所にはシルビアシジミの食草であるミヤコグサも生えている。そして、見れば少し先の方に小さな青いシジミチョウが飛んでいる。これはさい先良い場所にやって来たぞと期待しながら捕虫網とカメラを持って草原に下りて、シジミが止まった場所に行く。
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 最初にこの小型の蝶を見たとき、シルビアシジミと疑わなかった。色といい形といいまさにシルビアシジミのようだったからだ。しかし、よく確認してみると後翅の縁の黒い点が大きすぎる。似ているけれどシルビアシジミではない。どこにでも普通にいるヤマトシジミだったのである。
 写真は残念ながらわが家の近くにも沢山いるヤマトシジミである。しかし、小生はヤマトシジミを採りたくてわざわざ房総まで来たのではない。幻と言われるシルビアシジミを採りたくてきたのだ。それなのに、飛んでくるのはヤマトシジミばかりのオンパレードで、いっこうにシルビアシジミは出てこない。
 このあと教えてもらった近くのポイントを5カ所回ってみたが、どこでもいたのはヤマトシジミだけだった。陰も形もないシルビアシジミに、友人が来たのは9月だったことを思い出した。シルビアシジミは春も発生はするが、房総ではそれがいつ頃になるかは分からないと彼は言っていた。そのことをあまり考えずに、4月の末なら十分発生しているだろうと甘く考えて、房総に暴走して来たのである。午後1時頃には早くも蝶の採集は諦めムードとなる。
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 こんなとき釣り竿を持って来ていれば、磯からメジナでも狙う釣りに転向できるのだが、今日はそうした釣り道具を一切持って来ていない。しかし、このまま手ぶらで帰るのももったいない。せっかく房総まできているのだからと観光に切り替えることにした。といってもどんな観光名所があるのかも知らない。適当に走っていたら安房小湊の漁港近くに立派なお寺が出て来た。見ると「誕生寺」とある。
 あの日蓮宗の開祖・日蓮が生まれた地を記念して造られたお寺らしく、大きな本堂がある。寺の説明文によれば貞応元年(1222年)日蓮はこの地で生まれ、お寺は建治2年(1276年)に建てられたというから相当歴史のあるもののようだ。
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 本堂の軒下には沢山の彫刻がある。正面には竜、その下側は鴨居と呼ぶのだろうか。こうした建築物の知識のない小生には名前は分からないが、4匹の狛犬と、左右に鼻の長い象の彫刻があって、その出来映えはなかなか見事である。
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 こういう物は少し大きな写真で拡大して見れば迫力が出るのだろうが、ブログの制約上これ以上大きくはできない。パソコンでピクセル等倍まで拡大して見ると竜のヒゲなど細かいところまで驚くほど細密に彫ってある。一本の木からここまで彫れるのはきっと相当の技の持ち主と思われたが、作者については聞き損なってしまった。しかし、木の傷み具合などから、それほど古い時代の作品ではないと思われる。
 下の狛犬や象の彫刻も見事で、これを小生が好む明るいところと陰の部分が極端にコントラストのついた味付けで写真を撮ってみた。蝶の方はまったく成果がなかったが、こちらは手応えのある写真が撮れたはずである。今日はそれは出さないがいずれテーマに合わせてお披露目するつもりでいる。
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by Weltgeist | 2013-04-27 23:57

房総半島へ行ってヘトヘトです (No.1682 13/04/26)

 標題の通り、朝早く房総半島まで行き、先ほど帰ってきた。しかし、全行程350㎞、ずっと一人で運転したので疲れ果ててしまい、今日のブログを書く元気が残っていない。でも毎日更新にこだわっている小生は、ブログに穴を開けるのは嫌なので、今日は撮ってきた風景写真を一枚だけ載せることで、お茶を濁させていただくことにした。
 房総へ行った目的はシルビアシジミという小さなシジミチョウを採りに行ったのだが、実はこちらも完敗であった。目を付けていたポイントにいたのはヤマトシジミというわが家の近くにも沢山いる普通種だけ。どうもまだシーズンが早すぎてシルビアシジミは発生していなかったようだ。
 こんなことを書いている間も猛烈に眠むくて両目がくっついてきている。これ以上起きているのは不可能。今夜はもう寝て、詳しいことは明日書く予定です。
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写真は外房御宿海岸を撮ったものだが、どこにでもありそうな浜辺の風景にしか撮れていなかった。きれいな海の写真を撮ろうと思って出かけたのだが、いざ海岸を見たらどこも同じような景色でうまく撮れないのだ。雰囲気のある海を撮りたければ朝夕の光が暗い時が一番であろう。昼間、順光で撮ると、このようにフラットなつまらないものになってしまう。海の写真はハードルが高いと思った。
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by Weltgeist | 2013-04-26 23:27

自然なままに生きる (No.1681 13/04/25)

技術と学門によって自然を支配することは、人類のためになる高貴な野心である。
だが、自然は服従することでしかそれを征服できない。
フランシス・ベーコン


 人類がこの世に現れて以来、人の歴史は自然を征服することへの戦いの歴史であった。創世記で神は人間がこの世に存在する全ての自然の支配者となることを保証していたからだ。そのため人はあらゆる知恵と技術をもって自然の支配者たらんとした。しかし、最高度に発達した現代科学のもとにあっても、いまなお人間は自然を支配しているとはいいがたい。支配しているように見えても、それは人間が自然法則に従っているという前提条件下でのことにすぎない。自然に服従させられているという現実はどこまでいっても変わらないのである。
 人間は自然を支配しようとして逆に強烈な反撃を受けているといってもいいだろう。化石燃料の大量消費がもたらした地球温暖化や福島原発での静かだが強烈な自然からの反撃に、人間はまだ解決の糸口を見つけられないでいる。
 ベーコンが言うように、自然には逆らわず、服従することでようやく安心して生きていけるのかもしれない。自然を支配できると考える方が間違っているのである。しかし、それにも関わらず一方で人間はたえず自然を支配しようとすることを止めない。
 二酸化炭素の排出で地球が苦しいと悲鳴をあげてもいまだにそれをやめない。核爆弾や原発を作ったり、生命をいじった遺伝子工学や心臓移植などなどで人間が踏み込んではいけないとされた領域まで侵入しつつある。少しずつ自然の支配を崩し、そこに橋頭堡を築いて自然に勝ったと幻想する。それが人間の人間たるゆえんである。そうやって人間は自然からそれに見合う罰を下されるのである。
 人が不老不死で永遠に生き続けることなどできないように、いくら自然と闘ってもそれには勝てない。偉人も凡人も等しく死んで土に帰って行くしかないのである。そんなことなら、いっそ自然が命じるままに気ままに生きて行く方がずっと楽な気がしてくる。
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by Weltgeist | 2013-04-25 23:11

ユニクロはブラック企業なのか (No.1680 13/04/24)

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 昨日の朝日新聞朝刊のトップに、ユニクロが賃金を世界水準に統一するというニュースが出ていて、ついにここまで来たかと思った。世界中のユニクロで働いている従業員は仕事が同じなら賃金も同一にする。これは理にかなった提案である。しかし、そうなると、日本のような高賃金で働く人と、中国などアジア各国で働く人が同じ水準に平準化される。世界経済の流れからすればまことにその通りだが、日本で働いている社員の給料は下がり、中国は上がることになる。これは体の良い賃金引き下げ提案ではないかと勘ぐるのだ。
 以前からユニクロは若者を劣悪な労働環境のなかで低賃金で働かせ、使い捨てにすると批判されていた。入社して3年で半数、5年以内に80%の人が辞めていく会社というのは異常である。これに対して「言論プラットホーム・アゴラ」で辻元氏が「ユニクロの強みは価格の割に品質が良いことだ。それは人件費が小さいことからきている。正社員比率が非常に小さい(約10%)、店長を管理職にして残業手当を払わない。社員の教育にコストをかけない」といった従業員を過酷な低賃金下で働かせ、利潤を吸い上げるブラック企業だからではないかと指摘している。
 朝日新聞はこうした評価を念頭に柳井会長兼社長に「ユニクロはブラック企業ではないか」とインタビューしていた。これに対して柳井氏は「グローバル経済というのは成長か、さもなければ死だ。非常にエキサイティングな時代だ。変わらなければ死ぬと社員には言っている」と言い「将来は年収1億円か100万円に別れて、中間層が減っていく。低賃金で働く途上国の人の賃金にフラット化するので、年収100万円のほうになっていくのは仕方がない」と本音を言っている。
  東洋経済の「ユニクロ 疲弊する職場」 という特集記事で、ユニクロは売上の約80%は国内で、ユニクロは現在のところ国内中心の企業であると言っている。とすれば世界水準の賃金と言うほどのことでもない。大部分の社員の賃金をわずか20%にすぎないアジアの賃金水準に平準化するという国内事情を目論んでいるのだ。日本人従業員のほとんどの人に達成できない1億円というニンジンを見せながら、もっと働けとせっつく。さもないとアジア並みに安くするぞ、という魂胆が見え見えである。駄目な奴は辞めろ、代わりはいくらでもいるという、非人間的な発想なのだ。
 だが、一方で経営者はこうした動きを歓迎している。従業員を安く使い捨てできるからだ。このような企業をブラック企業と批判する連中は、緊張感もなくたいした仕事をしない「穀潰し」を温存するだけで、グローバルエコノミーの過酷な競争に負けることになる。いい大学を出て、定年まで滞りなく務めればいいと甘く考えている時代は昭和で終わり。これからはもっともっと激しい競争にさらされるから、年収100万円になっても仕方がないというのである。
 しかし、柳井氏のこれまでの言動を見ていると、何か不信感を感じてしまう。競争をやるならフェアでなければならない。ユニクロの現場店長と同じ水準で柳井氏が競争しているなら理解できる。しかし、自分は競争の埒外にいて、鵜飼いの師匠みたいに下っ端社員をこき使って、その利益をピンハネしているだけではないかと感じるのだ。
 小生の人間観は「人は誰もそんなに変わらない。五十歩百歩で差はない」である。そうなら年収100万円と4億円の柳井氏の賃金にここまで差があるのはおかしい。ちなみに柳井氏の2013年の推定資産は133億米ドル(約1兆2369億円)で世界66位、日本で1位の大金持ちである。1兆円という途方もない資産はどうやって作ったのか。それは使い捨てされた若者の血と汗の結晶に見えるのだ。
 経営者としては企業を成長させることが使命だともっともらしい理由をいうだろう。しかし、成長するとは経営者だけが良い思いをすることではない。そこに働く人たちがみな希望と生き甲斐を見いだせる場であるべきだ。人間を物と同じに扱って、ゴミのように使い捨てていく成長って、正しいのだろうか。結局、成長信仰をたくみに利用したブラック企業経営者の都合の良い理論に見えてしまうのである。
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by Weltgeist | 2013-04-24 23:22

久しぶりの都内 (No.1679 13/04/23)

 夏に行く予定の中央アジア某国の入国ビザをとるため、今日は久しぶりに都内に出た。最初は大使館がある広尾。そのあと現役時代に一緒に仕事をした西麻布のデザイン会社を訪ね、六本木、渋谷を経て最後に新宿で締めた。
 某国は旧ソ連の衛星国の一つだったから入国は今も厳しい。HPからダウンロードした用紙や、身上書、それに現地の案内人からの推薦状など、書類一式を一週間ほどかけて揃え、何度も間違えがないかを確認して今日の申請となったのである。大使館は地下鉄日比谷線広尾駅から10分くらいのところにあるという。
 広尾駅から日本赤十字医療センターへ向かう坂道を登って行く。60年以上東京に住んでいるがこうした高級な場所と無縁に育った小生には初めて歩く道である。すると、なにやら立派そうなマンションが沢山出て来た。見ると「広尾ガーデンヒルズ」とある。この名前を見て思わず「これがあの広尾ガーデンヒルズかぁ」とため息が出た。
 というのも小生が今の家を買った頃、すでに値段が億を超えた超豪華なマンションとして売り出された話題の建物だったからだ。バブル期には二桁の億ションにまでなった広尾ガーデンヒルズはここだったのだ。そう思うと町を歩く人もみな「上流階級の高貴なお方」に見えてくる。走っている車もベンツやポルシェが異様に多い。
 しかし、某国は日本との関係があまり太くないのか、大使館は小さくて分かりにくかった。ようやく探し当てた大使館は、なんと普通の小さな家である。アメリカ大使館のような立派な建物を想像していったら拍子抜けするほどこぢんまりしている。しかし、それでもここが日本における某国の代表部なのだ。
 ここでビザ発給書類を提出した後、西麻布のデザイン会社に顔を出した。有能なアートディレクターやデザイナーを抱えた優秀な会社で、現役時代に何度も一緒に仕事をしてきたなつかしい会社だ。そこに突然来訪したら、皆さんが仕事の手を休めさてゾロゾロと出て来てくれた。退職して8年を経過しているが、まだ小生のことを覚えていてくれたのである。
 皆さん誰も変わらない顔をしていて、なつかしさからついつい話が弾んでしまった。驚いたのは女性デザイナーのNさんがお茶とお菓子を出してくれたときだ。間食をしない小生はお菓子のたぐいはほとんど食べない。それで、「お茶だけでいいです。お菓子は食べません」と言ったら「それは**さんの好きなどら焼きですよ」と言われたことである。
 何と小生がどら焼きに目がないことを覚えていてくれたのだ。ドラえもんと同じでどら焼きを見ると我慢できなくなる小生、それをほおばりながらかって一緒に仕事した皆さんと歓談した30分はとても楽しかった。しかし、楽しかったのは小生だけで、皆さんは仕事を中断させられたから本心はたいへんだったかも知れない。
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 皆さんの仕事を邪魔してごめんなさいと思いつつも、この後六本木から渋谷を経て新宿に向かった。新宿での用事はピントの精度が落ちてきた古いカメラの調整だ。西口にあるニコンのサービスセンターでカメラを点検してもらい、そのあと東口の紀伊國屋書店で速読による立ち読みをする。最近速読の訓練をサボっているため読む速度はだいぶ落ちてきている。しかし、雑誌を読むくらいのことは問題ない。もちろん買わないでエコノミストなどの経済誌とカメラ、アウトドアー関係の雑誌を片っ端から速読で立ち読みをしていく。
 だが、前にも書いたように今の雑誌はほんとうにレベルが低くなりすぎている。経済誌は専門外だからともかく、アウトドアー誌などの内容はひどすぎる。貧困な企画でみずから読者を追い払っているのではないかとさえ思ってしまった。話題の村上春樹の新作は平積みしてあったが、以前、1Q84を読んで失望していたので、同じ轍は踏むまいと中も見ずに素通りして、6階の地図売り場で中央アジアの地図を買ってから帰宅した。
 こうして忙しかった一日は終わった。某国ビザ申請も、デザイン会社訪問も、カメラ調整も、紀伊國屋の立ち読みも全て順調にこなした充実した一日であった。今日も小生の思いは「すべて良し」である。
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by Weltgeist | 2013-04-23 23:17

ブログを毎日書き続ける意味 (No.1678 13/04/22)

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 ある人から「あなたはなぜブログを書いているのか」という質問を受けて、正確な答えができなかった。「毎日ダラダラ過ごすのは人生を無駄にするようで嫌だからだ」と一般的な答えをしたが、後になってどうも言いたいことを言い得なかったと感じた。確かに何もしないで一日無為に過ごすのは虚しい気がする。せめて、今日一日何かをやったといえる達成感を感じたい。そう思って馬鹿みたいに毎日ブログを書いてきた。
 その回数、今日で1678回。我ながら自分のしつこさというか、執念深さに呆れている。でも最近、ダラダラと一日を無為に過ごすことも、毎日無理矢理ブログを書くことも、人が生きる意味においてはそんなに違いはないと思い始めている。無為のままグータラに過ごしても悪くないんじゃないかという気持ちが生まれてきているのだ。
 多分、これは小生が歳を取ってきて、「人生なんてしょせんどれも同じ」という気持ちになってきたからだろう。小生のようにセカセカしたせわしない性格の人間は、いつも何かをやっていないと落ち着かない。ヒマができて家でのんびりと過ごす時間があっても、2時間もすると何かをやりたくなる。何もしないで部屋にじっとしていろと命じられたら気がおかしくなってしまうだろう。
 用もないのに用事を見つけてなにかをやり出す。それがたまたま小生の場合はブログだったわけで、たいした意味はないのである。主婦が家事や洗濯を、サラリーマンが会社で仕事をするのと同じ。ただそれだけのことである。
 それなのに人の生き方に「グータラはペケ」、「一生懸命はマル」と価値観の差をつけている。そうなると瞬間瞬間で、「今はマル、さっきはペケ」と忙しく自らを評価していかなければならない。しかし、そんなことも、齢(よわい)70年の古ダヌキになると、馬鹿げた差別に見えてくる。人間のなすことはもっと高い所から俯瞰して見ればたいした差などない。これは良いこと、あれは悪いなどと簡単に決められるわけがない。人生という長いスパンから見れば五十歩百歩で「すべて良し」と思えるようになってきたのである。
 だから何をやってもたいした違いはない。たとえそれが悪いことでもだ。そもそも善悪の判断など人間の狭い基準で決められるものではない。とんでもない悪党が、ずっと後になって評価がガラリと逆転することだってある。しょせんは同じ人間、さして差があると思えないのだ。
 ブログを馬鹿みたいに書き続けることも、何もしないでブラブラ過ごすのも同じように「良し」である。「なぜ毎日ブログを書いているのか」と問うた人に、もう少しこのことを説明すべきだったと後悔している。「なぜ書くのか」と聞かれたら「それは私が生きているからです」と答えれば良かったのである。
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by Weltgeist | 2013-04-22 22:52

アマチュアクラシック演奏会で聴いたベートーベン (No.1677 13/04/21)

 久しぶりにクラシックのコンサートを聴きに、多摩ニュータウンにある「パルテノン多摩大ホール」に行ってきた。演奏は高橋俊之指揮、多摩管弦楽団、曲目はモーツアルトの歌劇、ドンジョバンニ序曲、リヒャルト・シュトラウスの交響詩・死と変容、ベートーベンの交響曲第三番英雄である。演奏曲目はともかく、指揮者も楽団も初めて聞く名前で、きっと地方のアマチュア楽団の演奏だろうと、あまり期待もせず失礼な先入観を持って行ったらやはりその通りだった。
 多摩管弦楽団というのはパンフレットによれば1976年に音楽を愛する多摩市民により創立され、多摩市民をはじめ近隣地域の人々で構成されているアマチュアオーケストラとある。演奏会を誘ってくれた方によればかって彼と同じ会社の同僚だった人もメンバーにいるという。会社の仕事を定年までやり終えてから楽団員になったというから、文字通りのアマチュア楽団のようだ。とするとあまり高度な演奏は期待できないかもしれない。
 2時に開演。指揮者の高橋俊之氏は1968年生まれ。桐朋学園を卒業後、アメリカ、フランス、スイス、オーストリアなどで指揮を学んで、現在多摩管弦楽団の常任指揮者であるという。やや白髪の交じった高橋さんが指揮台に立ち、最初の曲、ドンジョバンニ序曲が始まる。
 音楽好きのベテランの中にはアマチュア音楽家の演奏を聴いたときあれこれ技術的なことを厳しく言う人がいる。しかし、小生はアマチュアにありがちな音が合わないとか変だということはある程度容認する派である。音楽は聴いたときの全体の印象が大切だと思っているからだ。だから、技術的には完成したプロであっても。聴いていて感動を受けないものは、自分にとって「ノン」である。逆に少々音が変でも全体が良ければ「グッド」と受け止めている。
 そう思ってドンジョバンニを聴いていると、多少は引っかかるところはあったが、全体としては悪くないと思った。アマでこれだけ出せればまあまあの演奏ではないかと感じたのである。しかし、次のリヒャルト・シュトラウスも含めてどうも弦と金管の音のハーモニーがすっきりしなくて、曲に入り込むこところまではいかない。気持ちが高まるところまで行けないのだ。やはりこれがアマチュアの限界かもしれない。
 そう思って最後のベートーベンの英雄交響曲を聴く。すると今までとは俄然違ってきた。出だしの第一楽章はちょっと早すぎる感じを受けた。だが、第二楽章の英雄の死を悼む葬送行進曲ではゆったりとし、演奏にぐいぐい引き込まれていったのである。そして全曲が終えたときには小生は完全にベートーベンに没頭していた。最初に感じた「急ぎすぎる・・」も解釈の違いで、全体をあとからみればあれはあれで良かったのではないかと思えてきた。初めからアマチュアと馬鹿にしていた自分の態度を反省したのである。
 今回誘ってくれた知人が「どうだった? 」と聞いてきたので、「これはアマチュアのレベルではない。お金の取れる演奏です。とても楽しめました」と言っておいた。メンバーはふだんは別な仕事を持っていて片手間に練習してきたのだろうが、そうしたハンディをも感じさせない素敵な演奏だった。次回は、11月にブルックナーの交響曲6番と、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲をやるというから、また聴きに来たい。多摩管弦楽団には拍手を送りたい。
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演奏会は撮影禁止なので、今日の写真は演奏が始まる前の舞台を撮ったもの。面白くも何ともないが、本日の証拠写真である。
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by Weltgeist | 2013-04-21 23:19